4_16 朝チュン
土曜日になった。
「……うぅん」
休日の微睡みの中にたゆたっていたミハルは、何か重苦しさのようなものを感じてうめき声をあげた。
寝床の中の体はどこまでも自由に惰眠をむさぼって良いはずなのに、あまり経験のない不自由さを覚える。
実態のないそのストレスは、ミハルの緩み切った知覚の中で長い時間をかけて処理され、『何か障害物のようなものが身体にくっついている』として半分眠りこけた脳に伝えられた。
「……?」
ゆっくりと目を開く。
目ヤニと長いまつ毛がくっついたまぶたの向こうで、ぼんやりと何か枕の上に見慣れないもの乗っているのが像を結んで来た。
「……おはようございます、ミハル」
長い金色の髪を枕に乗せたファム・アル・フートが、もう少しで鼻がくっつきそうな距離ではにかんでほほ笑んだ。
「!?」
一瞬で朝寝の心地よさは吹き飛び、驚きが少年の背筋を走る。
「あん」
咄嗟に夜具を跳ね飛ばして起き上がった少年に、女騎士は甘く驚きの吐息を漏らした。
「な、何してるんだよ!?」
「何って……ふふふ」
例の薄い夜着を着たファム・アル・フートは、上半身だけを起こして顔にかかった後れ毛を払った。
洗い髪のまま、長く垂らした髪が窓のカーテンの隙間からわずかに入ってくる朝の陽光を受けて複雑な形のツヤを作った。
「私に言わせるつもりですか?とぼけちゃって……」
「えぇ!?」
「もう、知らないふりなんてひどいです。昨日はあんなにかわいがってくれたのに……」
「な!?な!な……?」
慌てふためきながら、ミハルは自分の身体に目を落として観察した。
着衣に乱れはない。パジャマも下着も昨晩寝入ったときそのままのようだ。
変な体液や不自然なアザがついていたり、背中にひっかき傷が走っていたりということもない。
「……?」
様子がおかしい。羞恥と焦りに赤熱化していた神経が、時間が経つとともに徐々に冷静さを取り戻してくる。
思い切ってカマをかけてみることにした。
「……それで、何回したんだ?」
「え?回?」
ベッドマットの上に腰を下ろしたファム・アル・フートが、きょとんと眼を丸くする。
「回数があるんですか……!?」
「はあ?男が一回で満足するとでも?」
「そ、そうなんですか!?」
みるみるボロが出てくる。
あたふたと目を白黒させる女騎士の様子は、ミハルの嗜虐心をくすぐってきた。
「本当に、ファムと『した』のか?」
「ほ、本当ですよ!こう、何度も愛を囁きながら、激しく求めてきてですね……!?」
「で、どうやったんだよ」
「ど、どうって?」
「再現してみてくれよ。覚えてないからさ。お前が男の役をやったら思い出すかも」
「―――――――!?」
――――――。
ぱすっ。ぱすっ。とパジャマで覆われた尻の裏側に、夜着につけられたリボンが擦れる音がする。
初めての感触にミハルは戸惑ったが、ぎこちないリズムと明らかに慣れていない筋肉を使っている動きに、だんだん歪んだ楽しさを感じてきた。
枕に腕を組んで顔を乗せたまま尻を高く掲げたミハルの背中側で、夜着を身に付けたファム・アル・フートが腰を振っている。
ベッドの上で膝立ちになったファム・アル・フートに、ミハルは更に動くよう促した。
「こ、こうして腰を押し当てて激しく……」
「激しい?これが?」
「え、えぇ……?」
「もっと腰振ったはずだろ!」
「ひぃぃ……」
言われるがままに、羞恥に顔中を真っ赤にしながらファム・アル・フートは両手で少年の腰骨を掴んで必死に膝を震わせる。
「で、この格好で何時間くらい続けた?」
「な、何時間!?そんなにかかるものなんですか!?」
「時間も覚えてないのか」
「そ、それは……もう許してください、ミハル!」
パン!パン!と腰で尻を叩きながら、耐えきれなくなったファム・アル・フートは懇願してきた。
「許す?何を?」
「勘弁してください!もう我慢できません!」
「俺が良いって言うまで続けろ」
「謝りますから!耐えられません、こんなの!」
「ダーメ」
「こんな……恥ずかしいです!行かせて!もう行かせてください!」
「コラ!まだやめるな!」
「許して!許して、お願いです!」
「ほらほら、腰が止まってるぞ」
「ひ、酷い……!死んじゃう!死んじゃいます!ミハル―――!」
喉の奥まで空気に晒して絶叫した女騎士は、首筋がはっきり浮き出るくらいのけぞると、涙目のままぶるぶると体を震わせた。
「…………何してるんだ、お前ら」
異音を聞きつけたのかいつの間にか部屋の入り口に立っていた祖父が、戦慄に青ざめた顔で声をかけてきたのはその瞬間だった。
「「あ」」
ベッドの上で絡み合った少年と女騎士は、同時に声をあげた。
――――――。
食卓で、ミハルとファム、祖父の三人は昨日までとは多少質素な朝食を囲んだ。
ややあって、最初に口を開いたのは祖父だった。
「……若いしさ、ふざけてるつもりで羽目外すことだってあるよな?」
「はい、すみません……」
「おじい様のおっしゃるとおりです……」
重苦しい空気の中、三人が芋粥を啜る音だけが食卓に響いている。
「……みんな、秘密にして黙ってような?」
「「……はい」」
誰も一度も視線をかわそうとしないまま朝食は終わった。
――――――。
「ミハル。覚えてますよね?今日はお買い物に行く予定ですよ」
「ああ……」
そういえば大師堂マドカとそんな約束をしていたのだ、とミハルは思い返した。
スマフォを開くと、『今日はよろしく!10時に駅前のロータリーに集合!遅刻厳禁!』とメッセージアプリに文字が躍っていた。
マドカはやる気まんまんのようだ。
「本当に俺も行かないとダメ?大師堂さんと二人で行ってくれば?」
「もちろんです。ジュンと約束したではないですか。私の服を選んでください」
ぶすっとファム・アル・フートがふくれっ面になった。
「ほらほら、早く支度をしてください。時は金なりです」
「分かった分かった」
ファム・アル・フートに背中を押されるようにして、ミハルは洗面所へ歩いていった。
――――――。
「顔は洗いましたか?」
「うん」
「歯は磨きました?」
「磨いた」
「髪はちゃんと櫛を入れましたね?ヒゲは……まだ生えていませんか。眉毛はどうします?何なら毛抜きで少し形を整えましょうか?」
「うるさいな!オカンかアンタは!?」
着替え終わりまくれた袖を直していたミハルに、ファム・アル・フートはわざわざ間近でチェックを始めた。
「夫に外で身だしなみで恥をかかせたとあっては妻の名折れ。これくらい当然です」
言いながらファム・アル・フートは、ミハルの後れ毛が撥ねているのを手で払って直し始める。
「お、デートか?」
「はい。逢引です」
「違う。買い物」
食堂で片付けられたテーブルの上に新聞紙を広げていた祖父の言葉に、二人は正反対の反応を返した。
「でもまあ、流石にいつも鎧かその恰好なのはどうにかした方がいいか」
買い物の必要自体はミハルも同意せざるを得ないところだった。
ロングTシャツに薄手のパーカーという身軽なミハルの恰好に比べて、ファム・アル・フートの刺繍とフリルのたっぷりついたツーピースブラウスにロングスカートという出で立ちはいかにも異色の取り合わせだった。
「この服はおかしいですか?」
「……モノクロ映画の女優か、漫画に出てくるお嬢様くらいしかそんな恰好してるやつはいない」
「それはいけません。人妻としてもっと落ち着いた婦人服を用意しろということですね?」
「ちょっと意味が違うな」
そこで、ミハルは重要なことを失念していたことを思い出した。
「ところで、金あるの?」
「もちろん。こつこつ自販機を巡って貯めたお金が残り500円以上もあります!」
んふー、とファム・アル・フートは小鼻を広げた。
「生活力のある妻でしょう?」
「……服買うにはちょっと足りないんじゃないかな」
「あはは、ご冗談を!」
お出かけセットの代わりらしい革鞄を脇に抱えて、心底愉快そうに女騎士は笑った。
「おじい様のお店ほどの高級店でも、一番高いメニューが2000円なのですよ?"エレフン"の平服の値段くらい私にも予想がつきます」
「アンタって本当によく、うちに転がり込むまで生きてこれたと思うよな……」
頭を抱えるミハルを見て、祖父は静かに立ち上がると、サイドボードから自分の革財布を取り出した。
「ファムちゃん。ファムちゃん」
「何ですか、お祖父様」
「裸で悪いけど、はい」
「?」
「お給金」
祖父が財布の中から一枚の紙幣を差し出す。
「わ、私が何かしたでしょうか?」
「一昨日も昨日も店を手伝ってくれたからさ。バイト代。本当は月末締めなんだけど、今日必要だろう?」
ファム・アル・フートは金魚のように口をぱくぱくさせると、困ったようにミハルと祖父とを交互に見比べ始めた。
「……良いんじゃね、貰っても」
「そ、そういうものなのですか?」
「実働2日でちょっと貰いすぎな気もするけど……。まあ小遣い込みってことで」
「あ、ありがとうございます!ありがとうございます!ご好意をありがたくいただきます!」
「良いんだよ。これは正当な対価なんだから、遠慮なんかしなくても」
ぶんぶんと何度も頭を下げて、ファム・アル・フートは紙幣を受け取った。
「……私、労働の対価を手づから頂くのは人生で初めてです」
「そうなの?」
「なんだか嬉しいものですね!」
そう言って小躍りせんばかりに喜色を浮かべる。
初めて小遣いをもらったとき自分もこういうはしゃぎ方をしたのだろうか、とミハルは思った。
「……ところで、実はお祖父様は相当な権力者ですか?」
「はぁ?」
連れだって廊下に出た途端、乙女はよく分からないことを言い出した。
「だってこれは金の預かり証でしょう?ねえ、ファイルーズ?」
<<代用貨幣の一種であると推測される>>
ヘッドセットから例の無機質な声が返って来た。
「えっと、どういうこと?」
「つまりこれは証書で、おじい様の持っている金塊と交換する権利を保障しているんでしょう?清算で店員に渡せば、後で銀行か手近なギルドの財務課に請求されるものと見ました」
「お前は一体何を言ってるんだ……?」
何やらやたら面倒くさく手の込んだ方法をさも当たり前のように言われて、ミハルの額に汗が浮かんだ。
「流石はお祖父様です。このような証書を発行できるほどたくさんの金塊をお持ちだとは……」
「違う。何か根本的な勘違いをしている。それ、そのままでお金」
「……私が無知なのでかつごうとしていますね?」
ファム・アル・フートが怪訝げに目を細めた。
「騙されませんよ?いくら私が"エレフン"の世情に疎いからといって」
「普通にお店で使えるから試してみろ」
「ははは、バカなことを。私だっていい加減数字くらいは読めるようになりました。10000などという巨額が紙の形で市井に流通しているとはとても信じられません」
(店にいた間もレジには触らせなかったのが失敗だったかな……)と少年は思った。
うんざりとした少年の視線に、ファム・アル・フートも何か察するものがあったようで徐々に表情を強張らせてくる。
「え……嘘……そんな……バカ?」
「誰かバカだ」
「金でも銀でも貴金属でもない貨幣にこんな額を?"エレフン"の人間は正気なのですか……?」
「不特定多数の人間に喧嘩を売るのはやめろ」
言いながら、ミハルはなんとなく事情を察した。
つまりは信用通貨というものが彼女の世界にはないらしい。
一万円に一万円分の品物と交換するだけの価値があることを保証するのは言うまでもなく日本国で、ミハルたちは生まれた時からそれを当たり前と思い込んでいる。
一方でファム・アル・フートがいた世界では、政府が通貨の価値を保証するという概念がないようだ。
流通する貨幣そのものに値段がつけられない、というのがどうしても感覚的に理解できないのだろう。
「とにかく、そのままで使えるから。心配するな」
「み、ミハルがそう言うなら……ところでこれは額面でおいくらなのでしょう?」
「数字そのまま。それで一万円」
「へ?」
「一枚で一万円。2日分のバイト代」
「イヂマンエン!?」
驚嘆の叫びが平屋の一軒建てに響きわたった。
「こ、この世の全てを思うがままにできる金額を手にしてしまいました……」
「大げさなやっちゃな」
はっ、とファム・アル・フートは何かを思いついた顔つきになった。
政治家が密談を持ちかけるようにひそひそと少年の耳元で囁いてくる。
「……このお金でミハルの身体を一晩買うといったら、受けてくれますか?」
「落ち着け。最低なこと言ってるぞ」
「一度既成事実さえ作ってしまえば後はどうとでも……グヘヘ……いたっ!」
卑屈な笑みすら浮かべ始めた女騎士に、少年はツッコミのチョップを見舞った。




