4_6 死んでもいいわ
遠くからかすかに、くぐもって反響する音が聞こえる。
鼻歌が、風呂場のタイルを通じてここまで届いてくるのだ。
低く、それでいて明るい複雑な音にはどこかあたたかみがあって、ミハルが聞いたどんな音楽とも似ていない調子で旋律を結んでいた。
馴染みのないのも当然だろう。異国の……というよりもっと遠い世界の曲だ。
ファム・アル・フートが風呂に入っている。
安川宅のユニットバスがよほど気に入ったのか、お湯を楽しみながらくつろいでいるようだ。
小さな中庭に面した縁側に座りながら、ミハルはぼんやりとその音を聞いていた。
(よく人んちの風呂にのんびり浸かれるな……)
自分には絶対無理だ、とミハルは思う。
修学旅行や行事で施設の浴場を使うことがあっても落ち着いて湯につかることはなかったし、友人の家に泊まりに行ったときもそそくさと髪と体を洗って上がってしまった。
風呂はパーソナルスペースと考えるミハルは慣れ親しんだ空間で落ち着きたいのだ。
身体的なコンプレックスはこの際置いておくことにする。
風呂に入れると知ったときの喜びようからして、ファム・アル・フートが風呂好きなのは察せられた。
彼女が元いた国がどんな文化圏に属しているのか想像もつかないが、清潔を美徳とする価値観を持っていることくらいはこの数日の習慣からくる所作や道具の片付け方で分かった。
風呂の水も汚さず綺麗に使うし、使い終わった食器は水洗いしてちゃんとふき取る。室内では靴を脱ぐ習慣もあっさり受け入れた。
食文化の方はともかくとして、日常生活はミハルたちと大差ないようだ。
(良く考えたらすげー状況だよな、これ)
大人の女を連れ込んで自宅の風呂を使わせるなど、数日前までは考えもしなかった。
しかもそいつは異世界からやってきた女騎士で、神の命令で結婚相手を探しに来て、ようやく見つけた相手が自分だという。
(バカげてる)
例えばマドカやタクヤがこんな内容のライトノベルか漫画を趣味で描いてもってきたら、『好きな人は好きなんじゃないの』などと当たり障りのないことを言って濁しながら二度と読み返しはしないだろう。
それくらい荒唐無稽で現実味のない話だ。
何せ異世界というものの存在自体がミハルにはよくイメージができない。
この世界とは異なる世界であるのに、何故同じように人類が生きて歴史を作っているのか。フィクションで見かけるその単語は単に書割の背景で、創作者が用意した舞台装置だったはずだ。
なのにあいつは来た。
書割の背景から、ミハルのいる現実の世界の方へ実態を持って現れてきた。
鎧の精霊とやらのおかげで言葉は辛うじて通じるものの、情報も何もない異邦の地で、金銭すらまともに持ち合わせずに、だ。
ホームレスに等しい生活をして、ゴミ箱を漁って食べ物を探し求め、そのくせ恨み言ひとつこぼさなかった。
(なんなんだ一体)
何せ自分を騎士と称する女である。
ミハルはそんなやつを今までゲームや漫画の中でしか見たことがない。
が、ファム・アル・フートに対して覚える違和感のようなものはそのような職業意識とは別次元のように思えた。
強い義務感というか、使命感を持っていることは間違いない。
でなければ単身別の世界に飛び込んで、人探しなんか命じられたとしてもまずしようとは思わないだろう。
人種も何もかも違う外国に人を探しに行けと言われたってミハルならお断りだ。いわんや別の世界へ、である。
それも彼女の役目は結婚だという。
そんなことを命じる方も命じる方だと思うが、ファム・アル・フートの方も結婚という行為自体には大して抵抗を持っていなさそうなのがミハルにはどうしても理解できない。
ミハルは結婚について深く考えたことは一度もないが、女性にとっては一生の関心事であることくらいは察しがつく。
昨日ちょっとだけ表に出てきた彼女の内心では一族のためといっていたが、それだけで自分の人生全てを投げだせるものなのだろうか。
学生として大人たちや祖父に保護されてきたミハルには、とても想像がつかない領域だった。
……しかも使命のために自分を押し殺しているかと思えば、ひたすら感情だけで動いているようにも見える。
変なところで親身になったり子供じみた振る舞いをしたり、見返りとか打算とは全く無縁の理由で行動しているような素振りがある。
単に命令を果たすだけなら、わざわざミハルを好きになるとか、好きにさせるとか、そんなことを言い出す理由がない。
(なんなんだあいつは)
まるで一貫していない。それがミハルの結論だった。
ひとつのルールで動いていないものをどう扱えば御することができるのか、これは少年にとってなかなかの難題のように思えた。
「ミハル。お風呂先に頂きました」
首を捻っていると、ファム・アル・フートが例の薄着をつけて出てきた。
金色の濡れた髪がうなじに幾筋か貼りつくのが目に入って、少年はおもわずどきりとする。
「ここでは日が変わっても、月は一つしか見えないのですね」
「え?」
「私のいた郷里では月が二つ見えます。青の月と赤の月。こちらで見るよりずっと大きいですよ」
「へえ」
少し興味が湧いた。
「毎晩出てくるわけ?」
「赤の月は。青い月は新月の日は出てきません。半年に一度、二つとも満月になる日は空が明るく見えます」
「なんかすごそうだな」
「あの風景の美しさを知らないとは……気の毒としか言いようがありません」
やれやれと首を振りながら、なんとなく勘を逆撫でする態度でファム・アル・フートは髪を払った。
「こんな狭いところに庭を造るとは、”エレフン”の人間はなかなか面白いことを考えますね」
「坪庭っていうんだ」
「しかしあの石のランプや手洗い台はなかなか趣があって良いデザインです。私たちの新居にも置くことにしましょう」
「何を勝手なことを……」
「庭は子供が何人か走り回れるくらい広い方が良いですね」
「聞けよ人の話……」
ミハルの側の事情を一切無視した家族計画を語りながら、ファム・アル・フートはミハルの横に座ってきた。
慌てて腰を浮かしかけたミハルは、夜気に乗って漂ってきた湯上がりの体臭が微かに感じられて、その甘さに思わず愕然とした。
同じシャンプーと石鹼を使っていても男と女でここまで違うのか、と感心しかけたほどだ。
「ど、どうかしましたか?」
少年の様子に驚いたのか、そっとファム・アル・フートは顔を近づけてきた。
女の顔がすぐそばに寄ったことに加えて、更に多くの香気が鼻に飛び込んできたことで洗った後の髪と肌の匂いの違いまで鮮明に感じられて、少年はますます泡を食った。
(……こいつ、めちゃくちゃ良い匂いする!)
初めて意識する成熟した女の体臭というものに、心臓が早鐘を打ち出した。
別に何も悪いことをしている訳ではないのだが、匂いを嗅ぎ分けているということが倒錯した性癖のように思われているのではないかという危惧が、少年には羞恥心となってじりじりと頬を妬いた。
「あ、ああ。こんな格好をしているせいですか?」
ファム・アル・フートは一人で合点をして、薄衣でできた自分の夜着の裾をつまんだ。
光の加減では体の起伏がはっきり見て取れるなかなか際どいデザインをしているそれについて、言い訳するかのように口をとがらせた。
「わ、私の趣味ではありませんよ?男の人はこういうのが好きなのだとオデットが押し付けるものですから……」
「オデット?」
「大切な友人です」
「友達なんかいたんだ」
「失礼な。苦楽を共にした仲です。聖職にも拘わらず破天荒で情欲塗れで礼儀知らずで人をいじるのとお祭り騒ぎが大好きというどうしようもない人ですが……」
「さっき大切な友人って言わなかったか?」
(会いたくないのかな)
ファム・アル・フートにも生まれた世界で培った親交や人間関係があるという、当たり前のことをミハルは思い出した。
そして、友人の話をする彼女の眼がわずかに細まり、放つ光が少しだけ柔らかくなっていることに気付く。
だが、居眠りしかけた人間が慌てて仕事に戻ろうとするときのように、大きく体を震わせて女騎士はぱっと目を見開いた。
「い、いえ!別にこの格好が嫌いと言っているわけではありませんよ!?」
「そうなの?」
「もちろんです!あなたが気に入ったというなら、私は日中もこの格好をしましょう!」
「おいバカやめろ」
「”エレフン”では婦人に薄着をさせるのでしょう!?それに、私たちは夫婦になるのですからね!肌を晒しても何ひとつ問題はありません!」
両肩を張って、小鼻を膨らませて、女騎士は一気にまくしたててきた。
先刻までの自然な空気は鳴りを潜め、ミハルにとってはこっちの方が見覚えがあるやかましさでがなり立てる。
それを見て少年の中で『すとん』と胸につかえていた何かが落ちるように納得がいった。
(……無理してるんだ)
この娘は不安なのだ。
彼女の属していた社会から見た抱える使命の大きさなのか、結婚というものに対してなのか、それは分からない。
だが、胸中の不安から目を逸らすために、大きなことを口走り、自分を強く見せようと振る舞っているのは見て取れた。
常に何かをしているのも、鎧をなかなか脱ごうとしないのも、休んでそのまま気が萎えてしまうことを恐れてのことかもしれない。
「……」
恐ろしい矛盾を抱えながら、見ないふりで推進するエネルギーの塊。
それはとてつもなく恐ろしいことのようにミハルには思えた。
「そ、そうでした!こうしてはいられません!」
ぱっとファム・アル・フートは立ち上がろうとした。
「あなたの制服に火のしを当ててシワを伸ばしておかなければ!夫にだらしない恰好をさせたとあっては妻の名折れです!」
「……」
ミハルが意識するより早く、自然に手が伸びていた。
座ったままぱたぱたと走り去ろうとする女騎士の手を取り、その場に押しとどめる。
「あの……」
「……」
「ミハル?」
「休めよ」
とてもこんなことは顔を見ては言えない。
庭の靴脱ぎ石に必死に視点を定めながら、少年はうつむいて唇を震わせた。
「え、でも」
「休めって」
初めて見る少年の態度に女騎士は戸惑ったようだった。
「……」
だがそれでも、ややあって少年の隣に座り直した。
そこでやっと『女の人の手を握ったのはそういえば初めてだ』とミハルは思い出した。
伝わってくる手の柔らかさに、女騎士の体は自分とは違う材質でできていることを改めて実感させられる。
離したらまた何か仕事にあくせくし始めそうで、勇気を振り絞って手を握ったままにする。
「……」
「……」
ミハルは、その後のことを何も考えていないことに、今更ながら困り果てた。
羞恥心の許容量はとうに振り切れていて、気の利いたことなど言えるはずもない。
自分が強引な態度を取ったことに女騎士が気を悪くしたのではないかと気をもむ始末だ。
こっそり横目で様子を伺う。
少なくとも女騎士は不快を表には出していなかった。
少なくともその目には、柔らかい光が宿っているように見えて、少年は少しだけほっとした。
――――――しかし。
(いったい自分はこいつをどうしたいのだろう)
自問自答の堂々巡りを胸の中で繰り返してみたが、ミハルにはとても結論が出せそうにはなかった。
どれくらい時間が経っただろう。
春の夜の空気が少しだけ冷たくなったころ、沈黙を保っていた女騎士が一言だけ漏らした。
「……綺麗ですね、月」
「――――――っ!」
今度こそ少年は耳まで真っ赤になった。




