1_3 神造裁定者
かつて人と竜が争った時、世界のほとんどは灰塵に帰したという。
その時に突如現れ、かろうじて生き残った人類を取りまとめ生存の方法を指し示した者がいた。
それは自らを人でも獣でも神でもない者と定義付け、ただただ公平に人類に再発展と繁栄のために裁定を続けた。
人々は神々から下された御使いだと信じ、崇め、畏れ、そして愛した。
以来信仰の中心となってこの聖都にて祀られるその名を直言することを避け、一般には神造裁定者と呼ぶ。
空から見れば輪形をしている殉教者大聖堂と、法王庁の中心……<<白の塔>>へと向かいながら、ファム・アル・フートは足が震えそうになるのを懸命にこらえた。
12歳の時に初めて法王聖下に謁見した時もこんなに緊張はしなかった。
幼年学校で成績優秀者が表彰される時に代表者として聖語で詩を読んだのだが、いかに最高宗教指導者といえ、あの時の相手は少なくとも人間だった。
「本当に直々に聖務が下されるとあれば、50年ぶりだな。記録に残る限りでは、だが」
「しかし!聖堂騎士団は言うに及ばず、他の騎士団にも立派な騎士は何人もいます。
……なぜ私のような一介の平騎士が?」
「何度も言ったが理由は知らん。御心は俺のような凡俗の者には測り知れんよ……。
これよりは神聖な聖堂だ、威儀を正せ。騎士ファム・アル・フート」
ピッコローミニ隊長の鉄靴が止まる。
いつの間にか床は無骨な石畳から色とりどりのモザイク敷に代わっていた。
これよりは白の塔に更に近づき、本来ならば高僧しか足を踏み入れることのできない神域なのだ。乙女は小さく咳払いしながら背筋を伸ばした。
赤い法衣を纏った枢機卿が一人と同伴の者が二人、彼らを待ち構えていた。
それを見て隊長と乙女が同時にひざまずく。……無作法にも乙女だけが軽く鎧の音を立ててしまった。
羞恥に顔が赤くなりそうなのを、ファム・アル・フートは必死に床に顔を伏せて隠した。
「ラインホルト枢機卿猊下。かの者を連れて参りました」
「ご苦労。……騎士ファム・アル・フートですね?」
「はっ、はい!お召しにより参上仕りました」
「……こちらへ。ピッコローミニ隊長。引率、ご苦労でありました」
「はっ!職務に戻ります!」
再び立ち上がると、ピッコローミニは踵を鳴らしてくるりと振り返る。
女騎士はほとんど無意識に目の端でその姿を追ってしまった。
マントを翻す刹那、無表情の大隊長の目にわずかに温かみが灯った気がした。
視線だけで(しっかりやれよ)と励ましてくれたのだ、と分かった。
取り残されるファム・アル・フートには何よりの餞別に思えた。
「このたびはおめでとう。騎士ファム・アル・フート。大変に名誉なことです」
意外なほど穏やかな声で枢機卿―――法王宮で最も権威ある集団の一席を占める高官は話しかけてきた。
身分違いの場所に放り込まれ小さくなっていた女騎士は、思わず目を丸くした。
冷ややかな視線と腫れ物を触るような扱いを受けるものと思い込んでいたのだ。
「貴女のような信仰と純潔を守る女性を、神々も寵愛なされるのでしょう」
「は……望外の名誉です!」
「そうしゃちほこばらなくてもよろしい。お立ちなさい、神造裁定者をお待たせすることがあってはなりません」
言われるままに立ち上がる。
借りてこられた猫そっくりの足取りで、普段は影も踏めない高位聖職者たちの後ろをついて歩くこと十数分。
一体何でできているのか、すべすべした巨大な白い扉の前で高僧たちは足を止めた。
「ここより先は神域です。お一人でお進みなさい」
……ここまで来て逃げ出す道など残ってはいない。
覚悟してファムアルフートは進み出た。
顎を引き、前を見据える。
顔色は蒼白になってはいないだろうか?
震えだしそうな膝はちゃんと長衣の影に隠れているだろうか?
確かめたい衝動を必死にこらえて、粛然と、どういう原理なのか音もなく扉が開かれていくのを待つ。
扉の向こう側には光一つなかった。
飛び込むような思いで入室した女騎士の背中で、入口が再び閉じられていく。
現世に繋がる微かなよすがのように差し込んでいた光が、足元でみるみるうちに細くなり、消える。
「……」
暗闇の中、数瞬を待った。
いきなり光が灯る。
突然の巨大な光量に目の機能が追い付かず、視界が真っ白になった。
「えっ」
徐々に慣れてきた目に飛び込んできたのは、太陽の微かに温かみのある光と、今が全盛期と言った趣で枝葉を伸ばす植物の緑だった。
遠くには峻険そうな角度で切り立った山が薄青く見える。
盆地らしく、ファム・アル・フートの立っている草原目がけて、なだらかな斜面がずっと続いていた。
どうやらこのあたりは農地らしい。
近くの川から引かれているらしい用水路が、透明でどこか落ち着く拍動で水音を立てている。
道の向こう側にはまばらに民家が見える。炊事時らしく、細く白い煙が頼りなく空へと浮かんでは消えて行っていた。
(……どこですか、ここは)
状況がつかめず、呆然と女騎士は内心でごちた。
どう見ても先刻まで自分がいた法王宮の中心とは思えず、更に言えば聖都の風景ですらない。
<<私のアーカイブに存在する、現在より約10,512,000時間前の記録映像の再現です>>
柔らかな声が女騎士の耳朶を打つ。
はっと意識を形而下に引き戻すと、いつの間にか目の前に子供が出現していた。
外見から見て歳は二次性徴前、長く伸ばされた髪と、裾も袖も長い衣服のせいで性別は判断がつかない。
ただその落ち着きようと、眼の中に宿っている深い知性から、ただの人間の幼児ではないことは瞬時に察せられた。
<<ようこそいらっしゃいました、騎士ファム・アル・フート様>>
幼児は外連味のない素直な立ち振る舞いで、ぺこり、と頭を下げてきた。
呆気にとられていたファム・アル・フートだが、すぐに神の御使いを前にしてじっと突っ立っている自分の無礼に気付いた。
慌ててその場に拝跪する。
草むらに立っていたはずなのに、何故か膝は硬い床の感触を伝えてきたが、口上を申し述べることに精一杯で勘案する余力などなかった。
「そ、尊顔を拝し奉る栄に浴し、恐悦の至りです!
騎士ファム・アル・フートであります!」
<<あなた方がサルヴァダマナと呼ぶインターフェイスシステムの総体としてこの姿をご用意しました>>
恐らくは聖句なのだろうが、言っていることがさっぱり分からない。
こんなことになるのならもう少し神学について深く学んでおくのだったと後悔する。
<<私のメインフレーム内にユーザーたる住人の方をお招きしたのは実に156,022時間ぶりです。
心より歓迎します、ファム・アル・フート様。どうぞごゆっくり>>
「光栄であります!」
<<昼食はもう済まされましたか?
必要であればお食事を召し上がり頂きながら要件をお話しますが>>
「お、お気持ちだけ頂戴いたします」
今はどんな豪勢な料理を用意されようが喉を通りそうもない。
目の前にいるのは1000年に渡り人類を守護してきた神の意思そのものなのだ。
何故童子の姿をしているのか自分には皆目理由が分からないが、恐らく神々の思慮は自分のような凡俗な一騎士には推し量れないほど深淵なのである。
<<ではお茶でも飲みながらお話しましょう。どうぞこちらへ>>
御使いが振り返って歩き出した。
少し迷ってから、立ち上がってファム・アル・フートも背中を追いかける。
畑道を歩いていくとますます現実味がなくなってきた。ひょっとしたら臨死体験とはこういうものかもしれないとすら思う。
風が吹くたび細く伸びた枝葉がさわさわと揺れ、赤い甲殻に黒丸の模様が並んだ見たことのない小さな羽虫のようなものまで飛んでいる。
良く見れば、周囲ではなんと畑の土の上に水を張って穀物を育てているではないか。
そんなことをして根が腐りはしないのだろうか?
近くの民家の庭先、涼し気な木陰の下に、白いテーブルと椅子が用意されていた。
とてとてと歩み寄った童子が、少し苦労しながら背もたれの高い椅子を引き寄せる。
有無を言わず座れということらしい。
恐縮しながらファム・アル・フートは引かれた椅子に腰かけた。
新品のガーデンファニチャーはまるでそのためにあつらえたように、椅子もテーブルもぴったり彼女の体格に合った寸法をしていた。
神造裁定者はやはり身長に比して高過ぎる調度品に少し苦労しながら、用意してあったカップへポットから黒い液体を注ぎ始めた。
鼻孔にかぐわしい匂いが飛び込んでくる。
最近流行りのコーヒーという飲料だ。
昔は南方の魔術師による霊薬と称して商人が持ち込んだものらしいが、今では市場競争による販路の開拓によって普通に食料品として流通するようになっている。
御使いは小さな容器から牛乳と、砂糖らしい粉末を贅沢にカップに流し込んだ。
真っ白くなるまで精製された貴重品だ。市井の人々はこういう飲み方をしたことはないだろう。
「どうぞ」
「頂きます」
勧められるまま口に運ぶ。
(……甘い)
以前飲んだものより格段に口当たりも優しく飲みやすくなっていた。
これが天上世界の流儀なのだろうか。神の飲み物、という古い商人たちがつけたキャッチコピーは本当らしい。
「美味しいです、とても」
<<それは何より>>
向かいの椅子に、神造裁定者がよいしょと身体を持ち上げて腰かけた。
「……」
話が始まるかと思って身構えたが、童子の姿をした御使いは沈黙を保っていた。
自分が飲み終わるのを待っているのだ、と気づいて慌ててカップを傾ける。
<<…貴女をお招きしたのは、ある特殊な任務をお願いしたいからです>>
ソーサ―にカップを戻すのと同時に、サルヴァダマナは語り始めた。
「特殊な任務…?」
<<はい。とても重要な任務です。
111時間前に私のプロセッサが、今後200年間の間にユーザーたる住民の方々及び文明社会への破滅的な脅威の可能性を算出しました>>
半分以上の単語は意味が分からなかったが、"破滅的な脅威"という一語に女騎士は眉を潜ませる。
<<発生の確率、脅威度、被害の最大予測を鑑みて最優先で解決しなければならない急務だと判断。
演算の結果、最も効果的な対処法は発生前に対抗策を構築することだという結論を得ました>>
「お、お言葉の意味がよく分かりませんが……重大な使命だということは分かりました。
しかし、何故私をお召しになられたのか理由を伺っておりません」
<<現ユーザー全員のデータを照合した結果、先天的要因と環境的要因から貴女が最適任だと判断しました>>
ファム・アル・フートは、自分でも意識しないくらい小さく小鼻をふくらませた。
神の御使いから選ばれたという栄誉に、生来の責任感がくすぐられる。体温が一度ほど上がった気さえする。
<<非常に困難が予想される任務です。強制はできません。協力をお願いできますか?>>
「む、無論です!何なりとお命じ下さい!」
ファム・アル・フートは勢いよく立ち上がった。
そのままテーブルを半周すると、流麗な動きでサルヴァダマナの足元へひざまずく。
小さな美しい刃物を思わせる鋭い視線が、神の御使いを真っすぐに仰ぎ見る。
「我がバイユートの家祖が法王圏に身を寄せて以来、畏れ多くも神造裁定者への感謝と忠誠を忘れたことなど一日たりともありません!
微力ではありますが、是非報恩の機会を賜りたく思います!」
<<ありがとうございます、ファム・アル・フート様>>
神造裁定者が小さな手を差し出す。
歓喜が胸に湧き上がるのを感じながら、柔らかい手を押し頂いた。
家祖以来の献身がついに報われる時が来たのだと思うと目頭が熱くなる。
公明正大な神造裁定者は、例え異教徒の子孫であろうとも目をかけ聖務を果たす誉を与えて下さる。
父たちの信じていたものが結実し、今自分の目の前に差し出されている。
(この聖務を果たせるのならば死んでもいい)
心からそう思う。バイユート家の武門の家柄としての家訓と血は、この時のために継がれてきたのだ。
「斟酌はご無用に願います、ただ、お命じ下さい!汝の責を果たせと!」
その一言を賜れるのであれば、自分はどんな労苦であろうと厭わず立ち向かえる。
例えば極北の地で聖遺物を探す当てもない放浪の旅。
或いは東方帝国内への長期の潜伏。
または南方海域での怪物の討伐。
どれほどの忍耐と克己心を要求される任務であろうと関係ない。輝かしい使命の前では自然の脅威、異教徒の悪意、怪物の猛威も物の数ではないはずだ。
<<貴女の任地は座標HW-815-135、ユーザーの皆様が"エレフン"と呼称する場所です>>
いかなる命令でも怯えを見せまいと覚悟していた女騎士の顔に、かすかな緊張が走る。
"エレフン"。
神造裁定者の許可と神々の導きがあって初めて足を踏み入れることのできる、禁断の地である。
神代の言葉で『どこでもない場所』を指すとされる、馬でも船でも辿り着けない謎の土地。
これまで数々の冒険者が人の力で初めてそこへたどり着く栄誉を得ようとした。
ある者は海の果てへ旅立ち、またある者は隊商を組んで世界の果てを目指した。
が、その悉くが失敗した未だ地図にない大陸。
それがエレフンである。
そこでは全くこの世界での常識が通用せず、人も生き物もまるで違う営みを送っているという。
……いや、今更何を迷うことがあろうか。ファム・アル・フートは固く神造裁定者の手を握り、続く命令を待った。
<<貴女はそこで……>>
「はっ!」
<<祝福を受けられた方を見つけ出して、その方と結婚して下さい>>
「御意!家名にかけて、必ず聖務を果たしてみせます!」
徹底的に叩き込まれてきた神への従順さそのままに、反射的に復命する。
……声に出してから一泊遅れて、自分が何を命じられたのか理解できた思考が追い付いてきた。
「……………………はい?えっ?今、何て?」