1_1 剣の僕
安川ミハルが、自宅の客間で懊悩している時から数えて丁度一月前。
彼の住むそれとは、気候も地形も人の営みもまるで異なる世界で。
……ハンスは身を震わせて、三度目の尿意を辛うじてやり過ごした。
叶うならば今すぐ槍も兜も放り捨て、草擦と帷子を脱ぎ捨てて便所に駆け込みたかった。
しかし、板金鎧用のシャツであるキャンベゾンに括り紐で何か所も固定された鎖帷子は、初めて着るハンスにはとても一人では脱げそうにない。
その上に重ねられた装甲も従士たちに寄ってたかって纏わされたので、外す順番すら正確に思い出せない。
これでは便所に駆け込んでも、悲しい努力の途中で決壊の音を聞くことになるのは目に見えていた。
(どうすれば良いのか聞いておけば良かった)
後悔してももう遅い。彼にできるのは、先祖伝来の鎧を汚す瞬間を少しでも先延ばしにする努力だけだ。
寝物語に聞いた騎士英雄譚の主役たちも戦場では便意をこらえていたのだろうか?
尿意と羞恥心が頭の中を堂々巡りし、ハンスの顔を蒼白にしていた。
側に控える、彼よりずっと粗末な鎧を引っかけた従士の一人がちらりとこちらを見上げた。
包帯で覆われていない片方だけのその目には、深い同情と、微かな憐憫があった。
ハンスは自分の葛藤を見透かされたようで深く恥じ入った。
便所に駆け込もうものなら、彼ら従士たちの失望と怒りはどれほどだろうか。
鎧を汚す時もせめて毅然と直立し、気付かれないようにしよう。少年は悲壮な覚悟を固めた。
もちろん従士が哀れんだのは、ハンスの体内で行われる孤独な戦いに同情したためではない。
代官の息子というだけで、代官所の従士たちと付近の村から集めた農兵を率い先頭に立つ義務を背負わされた彼の境遇に対して、である。
従士たちも、戦争の経験があるものは今はほんの数人だ。
残りはベッドの上でうるさく呻いているか、教会の安置所でひたすら静かにしている。
あとは付近の村から集めた農兵たちだが、装備も士気もはっきり言ってお粗末である。
錆の浮いた鍬や欠けた鋤を持って震えているのはまだ良い方で、残りは棒きれや箒に体重を預けていなければばたばたと倒れてしまいそうな有様だ。
隠し武器の一つも出てこないというのはこの土地の統治が誠に行き届いている証明であるが、ハンスは父親の仕事熱心ぶりを呪いたくなった。
『竜』が領内に出たという話を、ハンスが初めて聞いたのは五日前のことだ。
森に入り畑を開拓していた小作人の一行が『竜』に遭遇し、一人も逃げられず即座に全滅した。
そのことが発覚したのは数刻後だった。昼食の弁当を届けに行った少年が惨状を目の当たりにし、不幸にも胃に納まっていた自らの朝食の残りと対面することになった。
犠牲者の数と名前はまだはっきりしていない。見つかった頭も手も足も、数がバラバラだったからだ。
急報を受けた代官は、すぐさま従士たちの装備を整えさせ討伐に出発した。
一度人里近くに現れた『竜』は、必ず襲撃と殺戮を繰り返す。これは"アルド"に住む統治者にとって常識だった。
信仰の敵にして人類の天敵であるこの災厄の塊は、野獣や家畜には見向きもしない。
ひたすら人という種のみに対して異常な執着と敵意を燃やすのだ。
一匹の『竜』が人里離れた村を全滅させ、当日たまたまその村を訪れていた少女の足跡を辿り芋蔓的に地域一体を壊滅させて回ったという話もある。
即座に対処するのは法王庁から統治を任された代官としては当然の行動と言えた。
彼に落ち度があるとすれば、脅威を勝手に推し量り自力のみで事に当たったことだろうか。
討伐隊が蹴散らされ、半死半生の代官が担ぎ込まれた夜。村の教会から大司教座へ早馬が走った。
教会領の飛び地であるこの村は、領主の意向を無視して彼らの救援を求めることができた。
早馬が向かった先はもちろん、法王庁が直轄する唯一にして最大の戦力、聖都の聖堂騎士団本部である。
聖堂騎士団から派遣されてきた戦力を目にして、ハンス以下村の一同は深く失望した。
細身の黒馬に乗って現れたのは、卒従すら連れていない騎士ひとりだったからだ。
しかも騎士にしては小柄で、フルフェイスの兜で顔を覆い隠し愛想の一つもない。
ただ聖堂騎士団から派遣されてきたことだけを述べ、すぐに『竜』を討つと言い出した。
代官所でその話を聞いていたハンスたちは、内心次の応援を呼ぶことを考え始めていた。
家紋が染め抜かれた白い鎧は正式な騎士団に在籍する証左であったが、名のある騎士はまず単独行動などしないし、素性を覆い隠したりもしない。
大方、先行して内偵に来た騎士の末席が功を焦って勝手に一人でしゃしゃり出ているのだろう……。
冷たい目でそう値踏みするハンスと残った従士と村の老人たちに、騎士はゆっくり静かに告げた。
「村外れに『竜』を誘い込んで討ちます。村の北を流れる小川沿いに可能な限り防壁を築き、人を集めておくように」
それを聞いて、一同は火が付いたように口々に喚き出した。
『竜』が人を襲うことに対して並々ならぬ執着を燃やすのは周知である。
なのに、森の中をうろついている『竜』をわざわざ村に連れてきては、餌場を広げてやるようなものではないか。
ごく常識的な一同の反駁を前に、鉄仮面の騎士は高圧的に指示に従うように命じた。
目を血走らせた村の者の反論を封じたのは、騎士が携えていた一通の委任状だった。
聖堂騎士団団長の名前で、村で起こる一切のことを騎士に委ねると書かれていたのである。
添えられていた異国風のやたら難解な騎士の名前は誰も問題せず、ほとんど恐懼しながら村の一同は代官所を飛び出していった。
火が付いたように村中は大騒ぎになった。
戦闘に耐えられそうな男が慌ててかき集められ、母親たちは子供の隠し場所を探し求め涙を流しながら倉庫や地下室をひっかき回した。
老人たちの中には村の終焉を自分たちの末期に対して観念したのか、教会に集まって一斉に聖句を唱え始めるグループまで現れ始めた。
喧騒をよそに、従士たちが引き留める間もなく騎士は来た時と同じように悠然と一人で姿を消してしまった。
連れてきた細身の黒馬に乗って、『竜』がいると思しき森へと向かったのだ。
それを目撃した村人の幾人かが白い鎧で覆われた背中に向けて、呪いの言葉をこっそり吐き捨てたのは想像に難くないが、ともかく村を守ることが先決である。
騎士の挙動どころか生死すらこの場では問題外とされた。
何せ指揮するものがいない。
村の防衛隊長と警察署長を兼任するような職責の代官はベッドの上で前後不覚のままだ。
仕方なく、14歳の息子のハンスが立てられた。
父も嫌がって着なかった先祖伝来の古くて重い鎧を着せられ、即席の丸太と麻袋を積み上げたバリケードの最前列に立たされたのである。
ほとんど指揮官というより人質のような有様だった。
代官の息子が逃げずに来ているのだから、というわけで村の男たちも渋々寄り集まり、なんとか数だけは防衛隊の体裁は整った次第である。
ハンスは自分でも意外なくらい落ち着いて、今日自分はここで死ぬのだとぼんやり思った。
ずっと尿意をこらえているせいで頭の血のめぐりが悪くなったのか、恐れや怒りといった感情はすっかりなりを潜めている。
目の前を流れる小川の幅は、一番狭い箇所でおよそ3メード。深さは一番浅い箇所で半メードほど。
一本しかない木製の橋は前もって落としておいたといえ、子供でも歩いて渡れる川だ。とても掘の役目は果たしてくれそうにない。
ハンスが立っている防壁も、人の住んでいない古屋を解体するか半ば打ち捨てられていた丸太を集めては積み上げ、土袋で動かないようにしただけのものだ。
とてもこんなもので、討伐隊の従士たちを散々に打ちのめした『竜』が止まってくれるとは思えなかった。
奇跡的に4度目の尿意の波をこらえたとき、ハンスは従士と農兵たちが逃げようとしないのは何故かと不思議になった。
もしかして自分に遠慮しているのだろうか。
だとしたら構わず家族を連れて逃げるよう命じるのが自分のすべきことかもしれない。
あの騎士は当然怒るだろうが、どうせ死んでしまうのなら体裁など考えても仕方ないではないか。
そうすれば自分も堂々と鎧を脱いでそのあたりで用を足せる。
それは実に魅力的なアイディアのような気がしてきた。
人間の心とは不思議なもので、新しい発想に辿り着いた時に不思議と身体にまで活力がみなぎってきた気さえした。
どちらにしろ自分が死ぬのは変わりないのに、ハンスの顔に生気がわずかに戻ってくる。実行にさえ移してしまえば少なくとも尿意とはおさらばできるのだ。
「……出たぞ――――――!!」
ハンスが本当にそうしようか悩んだ時、鋤を握りしめた若者が上ずった声で叫んだ。
瞬く間に一行の間に緊張が走り、ハンスは慌てて小川の向こう側に目をやった。
まず目に飛び込んできたのは、例の黒く痩せた馬が走る様だった。
完全装備の騎士を背に乗せているのに、見た目以上に実に力強く高く土煙を上げながら走っている。
ハンスにもう少し馬に知識と興味があれば、それが東方の駿馬の走法であることに気付いたかもしれないが、馬に続いて目に飛び込んできたものが少年の頭から判断力と思考力を瞬時に奪い去った。
黒馬を追いかけて、それは無数に並んだ足を整然と動かしていた。
走るというより、滑るといった方が印象に沿った移動法だった。
側面から生えた節くれだった足たちの実に滑らかな動きに比べて、体本体はほとんど上下には揺れないせいで、とても生き物が走っているとは思えなかった。
艶めく黒い鱗を太陽に照らし出され、氷のように冷たい目を真っ赤に見開きながら、『竜』は全速力で黒馬と騎士を追いかけていた。
従士の何人かは思わず声を漏らし、ほとんどの村人たちは初めて見る『竜』のおぞましい姿に息を呑んだ。
全体の大きさは馬と見比べて4から5メードほど。
体の印象は寸詰まりの蛇といったところだろうか。首と胴の区別がほとんどなく、恐らく尾に当たる部分が極端に短い。
四角くごつごつした頭はどちらかというと蜥蜴に似ている気がしたが、耳まで裂けた口と白く突き出た牙は毒蛇のそれだった。
何よりの特徴は、体の側面から円柱状の足が無数に突き出していることだ。
胴体に比べて極端に細く、虫の足に少し似ていたが、節の数は一つに限らなかった。
足同士をぶつけることもなく小刻みに恐ろしい速さで整然と動かす様は、例えるなら巨大なムカデのそれだ。見る者に生理的な嫌悪感を呼び起こさずにはいられなかった。
防衛隊の一同は瞬時に戦意を喪失した。
あれはまぎれもなく、神々の思し召しから外れたところで生まれた忌まわしい災厄そのものだ。
自分たちにどうにかできるとはとても思えない。
もし誰かが声を出して叫べばその瞬間、恐慌が起きて散り散りになっていたに違いないが、そうはならなかった。
全力疾走する黒馬の背にしがみつく騎士の挙動に一同の目と注意が注がれていたからである。
馬上の騎士は、小刻みに手綱を操っては背後から迫る『竜』との距離を調整しているようだった。
両膝で馬体を締め付け、短めにした鐙の上で斜めに体を起こし、半ば鞍上に立ったような騎乗法をしている。
騎士はかがみこむようにして、自分のまたぐらの間から『竜』の赤い目が自分を捕えていることを再度確認すると、片手で背中に結わえた大剣のカバーを外し始めた。
まさか、馬上であの『竜』と戦うつもりなのだろうか。
ハンスが思わず出かかった声を慌てて口を手で押さえて止めたのと同時に、騎士は手綱を緩めて馬の方向を変え、更に速度を徐々に落としだした。
普通の馬なら恐怖心のあまり、騎手の操作なぞ受けず全速力で駆け抜けているところだろう。
が、よほど訓練されているのか黒馬は正確に手綱の動きを反映してみせた。
総体的にやや斜めに下がるような形で、自分の倍以上の全長と体重を持つ『竜』に横並びになる。
人馬の動きが予想外だったのか、『竜』は慌てて首を巡らして大口を開けて騎士に向かって吠えた。
人や獣とは明らかに違う構造の喉を、空気が擦過する身も凍る叫び声が騎士と馬の全身を襲う。
それを意に介する様子もなく、騎士は両手で腰の大剣を抜き討つ姿勢を取った。
狙いは、演奏中のピアニストの指を思わせる、猛烈な速度で地面をたたく『竜』の節足だ。
太腿の締め付けだけで馬を操り、じわじわと距離を詰めていく。
お互い速度を落とさないまま、剣撃の届く間合いへと詰めよった瞬間――――――。
「あっ!」
思わず声がハンスの喉から飛び出ていた。
『竜』の脇腹が二枚貝のように二つに開くと、中から赤褐色や黒の内臓が飛び出したのだ。
ある種の食中植物の繊毛のように、粘液で覆われた無数の紐状をした臓物が、鞭を振るうように黒馬の鞍上を薙ぎ払った。
……一瞬の沈黙の後、防衛隊の間にどよめきが入る。
予想外の一撃が過ぎ去った後、黒馬の上に人影はなかった。
先刻の臓物をよけきれず跳ね飛ばされたのか。
或いは魔の触腕に捉えられ『竜』の胎内に引きずり込まれたのか。
愉悦の笑みを漏らすかのように口を開閉させながら、『竜』は速度を緩めて、飛び出た内臓を使い終わった革の水筒を畳むようにばくばくと体を前後させながら収納し始めた。
中で火を噴くような赤いその目が自分を捉えるのを、ハンスははっきりと感じ取ることができた。
『竜』が猛烈な突進を再開する。
今度こそ、防壁の内側で起こるパニックを誰も止められなかった。
従士の幾人かが怒声を上げるが、無視して農兵たちはてんでに蜘蛛の子を散らすように逃げ去ろうとした。
災害や落城の前に起こる、死を前に恐怖に駆られた人々の姿としてはごくありふれた光景が小さな村で縮小再生産された。
……まるで他人事のような喧騒の中で、ハンスはある疑問に気づいた。
主を失い、空馬となった黒馬が大きく弧を描くようにして走っている。
最初は一頭で逃げようとしているのかと思ったが、どうも違う。
明後日の方向へは向かおうとせず、迂回しながらも『竜』に向かって走り寄っていく。
明らかにその戦足は、何かの意思に基づいて速度を調整していた。
「逃げろ、馬鹿!」
片目の従士に下から自分の腕を引っ張られて、初めてハンスは『竜』が目の前まで迫っていることに気付いた。
身をかわす暇も体を丸める猶予も与えないまま、『竜』の巨体が防壁の側面にぶつかる。
衝撃で土袋が宙に浮かび、丸太が跳ね上がった。
ひとたまりもなく、バリケードの上に立っていたハンスの体も宙に投げ出された。
空中で舞い散る木片と土くれの中。
コマ送りのようになった視界の中で、ハンスにはそれがはっきり見えた。
近寄ってくる黒馬。
空の鞍の前橋を確かに掴んでいるのは、白い手甲だ。
そこから黒馬が大きく旋回を始めた時、ようやくハンスにも真相が分かった。
『竜』から見て黒馬を挟んだ反対側。
片手で鞍を掴み、片方の鐙に足を預けて、騎士がその腹帯にしがみついていた。
――――――『竜』は、決して獣や家畜を狙わない。
全速力で走る馬にあっての唯一の安全地帯に気付いたのと、ハンスの背中が強かに地面に打ち付けられるのとは同時だった。
従士がハンスを助け起こそうとしたその瞬間に、騎士が曲芸のような動きで鞍上に立つ。
「ハッ!」
一瞬の呼吸で、戦足で動く馬の加速度そのままに、騎士は跳んだ。
並み外れた瞬発力。猫並みのバランス感覚。そして卓越した馬術。
何より命知らずのクソ度胸がなければ不可能な跳躍だった。
『―――、―――、―――ッッッ!!』
騎士が発した裂帛の気合は、『竜』が叫んだのかとハンスが一瞬誤認したほどの怒声となって聞く者の鼓膜を震わせた。
勢いのまま空中で鞘を放り捨てると、大上段に振りかぶる。
そのまま多過ぎる足でバリケードを乗り越えようとする『竜』の頸椎目がけて。
再び脇腹から湧き出した臓物を意に介することなく――――――。
………。
……ふらふらと騎士は、『竜』の身体の上でよろめいた。
足元の体液で濡れた臓物で滑り落ちそうになりながら、歪んだ鉄仮面を片手で抑える。
最後の交錯の瞬間臓物の一本が直撃した際に、ヘルメットが大きくひしゃげていた。
もう少し打ちどころが悪ければ、騎士の方も顔面を陥没骨折させ、兜を外すこともできない死体となってこと切れていただろう。
ぼつりぼつりと、逃げ出した従士や村人が戻ってくる。
皆喜びに沸くというより、呆気に取られていた。
本当に単騎で『竜』を倒してしまった。
村が助かったという事実が感覚的に理解できず、子供のようにぼけっと『竜』の頸椎から大剣を引き抜くのに苦労している女騎士を眺めている。
「……シュベーアト・クネヒト」
ハンスの口から、記憶の片隅にあった単語がこぼれた。
幼少のころ聞かされた戦争の話に出てくる傭兵たちの名前だ。
『剣の僕』を意味する、戦場に出る者たちの中で最も安く命を売り払う者たち。
耳ざとく声を拾ったのか、鉄仮面がハンスの方へと振り向いた。
「………あなたは代官所の」
「代官の息子です」
「そうでしたか。高いところから失敬」
初めて騎士が自分に注意を払ったような気がする。
意外と甲高い声だ、とハンスは思った。
ようやく大剣を引き抜いて、騎士がバリケードの残骸へと降りてきた。
「その年でよくご存じですね」
「祖父から聞かされました」
「確かに私の出自は北方諸侯領の傭兵です。この剣も……」
大剣についた『竜』の血を忌々しそうに騎士は払った。
「……家の者から教わりました。私の誇りです」
「誇り?」
「ええ。剣と共に生き、共に死ぬのが一族の定めです」
―――かつての戦場には彼らがいた。
長槍や干戈の群れの前に走り出て、その大剣で長柄を切り払うことを命じられた命知らずたち。
自らの鎧と骨を砕かせ、引き換えに相手の命を散華させる尖兵。
目の前の敵には衝撃と恐慌を、背後の味方には鼓舞と狂気を蔓延させる死の先駆けども。
騎兵と槍衾から、銃声と硝煙とに戦場の主役が移った現代。その姿を見る者も技術を伝えるものもいなくなった。
―――――はずだった。
それが今こうして目の前に、何故か騎士と立っている。
自分の世界に没頭しかけたハンスだが、不意に自分が村を救った恩人相手にとても不躾なことをしていることを思い返した。
「……ケガは!?」
一瞬、騎士の方も小首をかしげたが、ああとひしゃげた鉄兜に手をかけた。
「大事ありません」
脱いだ鉄兜から輝く金髪が零れた。
長い睫毛と鮮血を思わせる色をした瞳は、少し窪んだ眼窩を大きく彩っている。
青い打ち身のできた頬と、流石に血の気の引いた唇がやけに目立った。
女だった。
それも異国の血筋だ。
何故かその女が古い傭兵の技を使い、一人で『竜』を倒し、教会の剣として今この片田舎の村にいる。
初めて受け取る情報の洪水にハンスは混乱した。
頭の中で雑念がぐるぐる堂々巡りして気分が悪くなりかけたが、はっと気づいた。
「む、村を救って頂き、ありがとうございました!」
いくつもの気持ちがこみ上げてきて、目尻の端が熱くなり、涙となって零れ落ちてきた。
その感情を何と呼べば良いのか何も分からなかったが、いつか自分もこの村を出て拾い世界を見て回ろうという決意が、急速に少年の中で固まっていった。
小さな自我では測り切れない世界の遼遠さ、未知の強さというものを目の前の女騎士が示してくれたような思いがした。
「礼は必要ありません」
女騎士が、一瞬だけちらりと視線を下の方へ落とす。
「聖務を遂行したまでです」
ハンスは、失禁を誤魔化すのを忘れたことを死ぬほど後悔した。