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2_6 目覚めるまでの時間

 眠りの領域では、身体の輪郭というものを意識することはない。


内面と外界の境目が曖昧で、自分というものは温かいお湯の中でたゆたうように分散している。


温もりが指先まで満ちていることに、陶然とした幸せを覚える。そう思うのはきっと、この状態が母親の胎内にいた頃の思い出に一番近いからだろう。


何の心配も不安もなく、幸せな時間。



 が、それいつまでも続かない。ゆっくりと意識が引き上げられていく。


水面に浮上していく泡に似た気持ちで、深い眠りから浅い微睡へ全身が切り替えられていくのをおぼろげに感じる。


無形状でいられる夢の中から連れ戻されて、現実の中で自分が形を結んでいく………。




 ―――真新しい寝台の上で目が覚めた。


四方には草の紋様が刻まれた柱。その上方には天蓋までついている。


結婚に合わせて新調した二人用の寝台だが、少し豪華過ぎるとファム・アル・フートは思う。



 相場を良く調べず家具職人に渡した金が多すぎたのがいけなかったのか、スプリングは最上級のものが使われているし、宮棚は大き過ぎて持て余し気味だ。これでは貴族の所有するものと大差がない。


将来子供用の寝台を注文するときは、もっと質素でしっかりしたものを作るようちゃんと職人に伝えなければなるまい。


まあ、それはまだ先の話だ。ファム・アル・フートは身体を半分傾けるようにして寝返りを打つと、隣で寝息を立てる同衾者の方へ顔を向けた。



 大きな枕を一緒に交わしている夫は、まだまだぐっすりと寝込んでいた。規則正しく寝息に合わせて胸が上下している。


昨晩は寝衣を着直す間もなく寝入ってしまったために、白い肌が胸骨のあたりまで露出していた。


申し訳程度に生えている胸毛が目に入り、つい笑いたくなってしまう。まるで赤ちゃんの産毛のようだ。これから体がちゃんと出来上がっていくにつれて体毛も濃くなっていくのだろうか。



 起こさないようにそっと肉付きの薄い胸板と、細っこい鎖骨の間へ頭を乗せる。


無邪気な寝顔をもっと近くで良く見たくなったのだ。ファム・アル・フートは最近毎朝、これを日課にしていた。


シーツから手を出して、つっと指先で夫の顎を撫でる。


まだつるつるとしていて卵のようだ。結婚式には間に合わなかったが、せめて父親になる頃までには髭を整えられるようになっていて欲しいと思う。



「早く立派になって下さいね」



 唇近くで霧散するような小声で呼びかける。


男の子ならまだまだこれからが成長期のうちのはずだ。なるべく精のつくものを食べさせて、体格も体毛も威厳が伴うようにしてやるのが伴侶としての自分の役目だろう。



 窓のカーテンの隙間から朝の日光がわずかに差し込んで、夫の顔にかかった。


うぅん、と呻き声を発して、先刻の自分と同じように目覚めるためのプロセスが始ってしまう。


 もう少し寝顔を見ていたかったが、仕方あるまい。少年の肌とシーツとの間にある甘やかな温かさを全身で感じながら、ファム・アル・フートは覚醒の時を待った。



 わずかに目をしばたかせて、ゆっくり開いていった薄い緑色の目が焦点を合わせていく。


今この瞬間、その瞳には自分しか映っていないことがたまらなく嬉しい。


まだ慣れない呼び方に、かすかな気恥ずかしさと精一杯の親愛を込めて挨拶する。



「おはようございます、あなた」



――――――夢はそこで終わった。



「……」



 気が付けば幸福な空気も、甘い温かさも霧散していた。


あるのはごわごわとした寝袋の中にある自分ひとりの肉体だけだ。


 視線の先には野営用の天幕。


多少の苦労を伴いながら設置して以来、軍事用らしい強靭さを示して立派に屋根の役割を果たしてくれている。


先刻までの幸福感が消失してしまったことに切なさを覚えて、どこともなく指先を伸ばす。


 まだあの寝床に入っていたかった。


もっと体温を感じていたかった。


あとほんの少しだけ、あの瞳に見られていたかった。



「……っ!」



 唐突に羞恥心が襲い掛かってきて、耐えきれず女騎士は寝袋を跳ね飛ばして立ちあがった。


自分の顔が耳まで真っ赤になるのが分かった。


 ……なんという夢を見てしまったのだ。


(よ、よ、よりによって、裸の男と同じシーツに包まるなどと!)


しかもそのことに幸福感を感じるなどと!


純潔と貞操は武門の家の娘の誇りでなかったのか!?



 ―――狼狽する意識に、頭の中の冷静な部分が別の見方を示してくる。


(でも『あなた』ってことはもう夫婦だったんじゃないですか?)


 ……そういえば確かにそう呼んでいた気もする。


夢の中の映像は徐々に朧気になりつつあるが、自分の方からそう呼びかけたことだけは印象として記憶に残っていた。


(そもそも神造裁定者の定めた相手と結婚したら、当然同じ寝台で寝起きするのでは?夫婦なんですし当たり前でしょう?)


 ……あれ?では良いのか?


そりゃあ夫婦生活は円満に越したことはないし、跡継ぎを作るためには当然夫婦の営みは必須項目だ。


帰納法的には肌を重ねて朝寝して同じ夢を見るのは、聖務と家を守るために当然の過程ということになるのではないか。


 ……。


いやいやいや!納得しかけてどうする!


嫁入り前の娘が、はしたない!



「ふ、ふしだらな!」



ぱしぱしと頬を叩いて、女騎士は不埒な妄想を自分の頭の中から追い出そうとした。


その様子を見ていた鎧箱の上の"ファイルーズ"が、静かに声をかけた。


<<起床を確認。現在時刻は現地基準で07:15ちょうど。おはよう、騎士ファム・アル・フート>>

「おはようございます、ファイルーズ。ところで予知夢ってあると思いますか?」

<<意図が不明な質問には回答しかねる>>


 古い伝承では夢の中に神々の御使いである精霊が入り込んで、将来迫る危険を告げたり未来の選択視を教えてくれたりするという。


まさかあれが自分の新婚の光景だとは思いたくはないが、神々が見せたビジョンだとすれば無碍に捨ておくこともできまい。



「あ、ちゃんと顔を見ておくんでした!そうすれば結婚相手を探す助けになったかもしれないのに!」

<<意味不明。有意な情報の入力を要求する>>



 ……エルフンの地に女騎士がやって来て、一週間が過ぎようとしていた。


官憲の目が届かない山中に設営した天幕の中で、こうして迎える朝も大分慣れた。



 そろそろ考えておくべきなのかもしれない、と女騎士は思い直した。


ここまでこの世界で生きる糧と生活場所を確保するのに必死で余裕がなかったが、自分の本分は花婿を探し結婚することなのだ。


神造裁定者が選んだ相手だから良縁に決まっている。それは分かるのだが、一人の女子としてはほのかに抱いている理想の異性像になるべく近い男性に添い遂げたい気持ちはもちろんある。


大分朧気になってしまったが、夢の中で同じ寝所に入っていた半裸の男は筋肉が足りず、肌もなめらかで体毛も薄い気がした。


まるで子供だった。


自分の好みのタイプとはかけ離れている気がする。



「もしかして私って、自分で気付いてないだけで少年愛趣味だったんですか!?」

<<意味不明。有意な情報の入力を要求する>>

(ま、まさかあれが私の理想の男性ということはないでしょうね!?)



 ぶつぶつ言いながら女騎士はその場をぐるぐるうろつきまわった。冬眠から目覚めたばかりの熊のように。



「……いやいや、ありえません。やっぱり男は丸太みたいに太い腕と鉄板が入ってるような胸板と素敵なヒゲがないと…。」

「なよなよしたのなんてお断りです、絶対。」

「それに年下は無理!生理的に無理ですから!」

「結婚相手と歳が近いと色々衝突が多いって言いますし、やっぱり酸いも甘いも噛み分けたしっかりした大人の男でないと…」



 煩悶だか妄想だか分からないことを延々と繰り返す女騎士に向かって、忠実な相棒は無機質な声で呼びかけ続けた。



<<騎士ファム・アル・フート、有意な情報の入力を要求する。エラーが蓄積する危険がある。繰り返す、有意な情報の入力を要求する>>




 未来の話は置いておいて、女騎士は今生きるために必要なことをしなければならなかった。


 胃が空腹を、喉が渇きを訴えていることに気付いて、ファム・アル・フートは不承不承朝の支度を始めた。


 かまどに火種を起こした。金物を置けるように拾ってきた石を積み上げて、『段ボール』というらしい素材で簡易煙突を作っただけのものだが、なかなか使い心地は悪くない。


昨日のうちに拾い集めておいた小枝に火をかけると、天幕の近くに生えていたタンポポの根から抽出したコーヒーを温める。



 今日の朝食メニューは、昨晩路地裏で例の青い箱から『喜捨』頂いた砂糖掛けの揚げパンだった。


この世界の揚げパンは不思議な黒蜜がかかっていたりクリームが入っていたりいろんな種類があるが、不思議なことに揃って中央に穴が開いている。


きっと宗教上の理由なのだろう。



 アルドに生えているのと似た食べられそうなキノコで作ったスープ・山の中で見つけアク抜きした野草で作ったサラダを一杯・それから岩塩がひとつまみ。


野営生活で塩分は極めて重要だということを女騎士は知っていた。



 食事の前に、神々への祈りを捧げる。


どうか神造裁定者の聖務を果たせますように。


故郷の父が健康でありますように。


妹たちが健やかに成長しますように。


官憲にこの天幕の場所が見つかりませんように。


そして、自動販売機と呼ぶらしい四角い箱の下にたくさん硬貨が落ちていますように。



 公園から汲んでおいた溜め置きの水で髪を洗い、身体を拭いた。


 この生活で最大の不満があるとすればお湯が好きなように使えないことである。


金ダライ一杯にお湯を張るだけでも結構な薪を集める手間がかかる。沐浴と思って我慢するしかないが、妹たちと一緒に背中を流し合った故郷の風呂場が懐かしい。


歯ブラシに歯磨き粉をつけて丁寧に口内を磨く。どちらも街の薬屋で試供品としてもらったものだが、"エレフン"の磨き粉は実に清涼感がありよく汚れが落ちる。


 貧民救済の一環としては回りくどい気がするが、どうもこのエルフンという土地では一見冷たく慇懃に振る舞うのが礼儀とされているらしい。



 それから着替えだ。寝起きの小娘から、聖務を帯びた騎士に身なりを変えなければならない。



 一糸まとわぬ姿になってから例の薬草入り香油を念入りに乳房の周りに塗り込み、下着に足を通す。


続いて夜中に干しておいた短衣と裳衣を身に着ける。


そして鎧本体。


胸当。


背当。


手甲。


鉄靴。


最後にヘッドセットを装着する。



「終わりましたよ、"ファイルーズ"」

<<これよりバイタルスキャンを実行する>>



 突然ファム・アル・フートを中心に何もない空中に透明な板が現れ、神々の文字が次々と並び始めた。


次々と文字と数字らしきものが流れては消えていくのを見守る。


"ファイルーズ"を身に着けるのに、これは不可欠な日課らしい。なんでも自分の身体の好不調を常に調べてくれているのだそうだ。



<<スキャンが完了。貴公の健康状態に問題なし>>

「ありがとう"ファイルーズ"」



 故郷から持ってきた手鏡で確認しながら髪を結い上げる。


きっちりと手を抜かずに、かつて母から教わったやり方で。



 最後に紅皿を開くと、指を使って唇に朱を差した。聖都を出発する前の日、『化粧品の一つくらいは持っていけ』とオデットに餞別代りに貰ったものだ。


……うん、これで良し。体の装いと一緒に心も切り替わるようだった。



 天幕を開く。木々に止まっていた小鳥が慌てて飛び立っていくのを目で追うと、群青色の雲と白い空が視界に飛び込んできた。


今日も素晴らしい天気だ。神造裁定者の恩恵に違いない。


さあ頑張ろう!


まずは日課の硬貨拾いからだ!



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