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2_5 喜捨


 ……この地にも夜は来るらしい。


暗がりの中を、女騎士は寄る辺なくさまよい続けている。


小さな菓子に一時の空腹をしのいだものの、その後は一向に事態が好転する気配はなく、いまだ寝場所すら決められてない。


<<警告する。貴公の細胞外カリウムイオンの蓄積と代謝効率の低下は無視できない水準に達した。速やかな食事と睡眠を推奨する>>

「私だって、できたらそうしたいですよファイルーズ…」


 なるべく目につかない横になれる場所を探そうと、夜の繁華街の路地裏をうろつき回った。


危険な動物や夜盗の襲撃の恐れはないようだが、一体自分はどこに行けばいいのだろう。


見通しは全く立たない。少し肌寒い夜気が肌と肉とを貫通して、直接不安な心に触れてくるようだ。


立ち止まるのが怖かった。


一度心を緩めてしまえば、再び進むだけの気力が残っているか自分に自信が持てなかった。


「……おや?」


 疲労と倦怠感で曇りかけた女騎士の視線の先で、エプロンを身に着けた男が何やら店舗の裏側らしい場所で作業していた。


どさどさっ、と乱暴な音がする。青くて丸い不思議な形の箱に、何かを一度に放り捨てたようだ。


女騎士の方を見るでもなく、だるそうにのろのろとした足取りで扉の向こうに戻っていく。どうやらあまり勤務態度はよろしくないようだ。



「…いったい…何をしていたのでしょうか?」

<<詳細は不明>>



 どうも気になって、男が何かを捨てた丸箱に近づくと、おそるおそる青い蓋を開いてみた。



「!?」



 信じられないものが入っていた。


中に捨てられていたのは、透明な覆いと薄い容器に包まれた食料だった。


何故か手付かずのままで、覆いに文字が書かれた黄色いテープが貼られているのが気になったが、どうやら弁当か何からしい。



「!」



 にわかに鼓動を速めた体を精神でどうにか制御しながら、咄嗟にあたりを見回す。


誰も見ていないことを瞬時に確認してから、こわごわと弁当の入った容器の一つに手を伸ばした。



「…………っ!」



わずかな時間の逡巡の末、騎士はそれをひっつかんだ。そのまま後ろも振り返らずに足早に、夜道を駆け出す。



「嘘みたい!食べ物です!まだ新鮮ですよね!?」

<<あの男が食料を故意に廃棄した理由が不明である>>

「き、喜捨よ!きっと喜捨なのよファイルーズ!」


 喜捨とは、法王圏の祖法で定められた徳行のひとつである。


単純に恵まれない人間に衣服や食料を配ったりすることを指す。


天国に近付くための善行の一つで、特に強制されることはないが収入の一割を喜捨か慈善事業への寄付に当てるのが良民の規範とされている。



「私のような不運な者のために、ご奇特な方が食べ物を恵んでくださったんです!」



 人情や憐憫といった感情とは程遠い場所だと決めつけていたが、こんな形で慈悲の心に出会うことになるとは!


走りながら落ち着ける場所を探す。


大型の鉄の車の専用路らしい高架の下、少し埃っぽいが表道路からの人目を逃れられる場所があった。


ここが良い。ここでしばらく落ち着こう。そう決めて荷物を下ろす。



「神造裁定者よ……。顔も知らない隣人のこの贈り物が、私の心をどれほど豊かにしてくれるか、どうかお察し下さいませ!」



 こんな敬虔な気持ちで食前の祈りを捧げられるのはいつ以来だろう。聖堂騎士団の騎士となってから一年、気づかない間に自分は傲慢となっていたようだ。


祈りを心中でもう一度繰り返してから、待ちに待った瞬間に胸を躍らせて、野営用の食器具を取り出した。



 割らないようにちょっと苦労して、透明の覆い蓋を外す。


弁当の中身は何種類も副菜のついた、なかなか手の込んだ内容になっていた。


が、何故かパンも粥もビスケットも入っていない。


代わりにぼそぼそとした野菜の種らしいものが大量に入っていた。


水分量も火の通し方もえらく中途半端だ。ひょっとして病院食なのかもしれない。



「その割には揚げものが多いですね……」

<<栄養バランスという観点からは問題のある食事メニューだ>>



 海産物のフライらしい料理をナイフで切って、フォークで口に運ぶ。


油が酸化しかけた冷めた揚げ物でも、ちゃんとした食べ物を頬張ることのできる喜びには代えがたかった。


嫌な臭いもおかしな味もない。やはり悪くなったから捨てたのではない。


恵まれない者たちに気を遣わせないために食べられるものを、わざわざ捨てたふりをする心根の優しい人がエルフンにもいるのだ。


慈愛の心を感じて、少し油が強くて味付けの濃い弁当も一口一口胸に染み入るような思いで噛み締める。



―――――――――。



 綺麗に弁当を平らげたファム・アル・フートが食後の祈りを捧げ終わった。


食事だけでこんなに優しい気持ちになれたのはいつ以来だろう。


まだ自分が少女だったころ、馬にも乗らず他の女子たちと同じようにスカートを履いて花輪をうまく作ることに夢中だった時代に、村に常駐していた司祭様の言葉を思い出した。



"神造裁定者様の恩寵は、穀物の恵み一粒一粒にも込められています。だから一生の三食を大切になさい"



どうしてこんな大切な言葉を忘れていてしまったのか。


愚かしい人間の浅知恵では、体験を伴わない金言はすぐに怠惰が押し流してしまう。


そんなちっぽけな度量の自分にもこうして恵みをもたらしてくれる神々の恩寵はなんと遠大なのだろう。



 …そうだ。食事に限ったことではない。


世界は神々と、御使いである神造裁定者の慈愛に溢れているのだ。


それが酷薄なものであるかのように思ってしまうのは、愚かしい人間の心の狭さを通して見ているからだ。


宿に泊まれなくてもいい。金銀が通用しなくても良い。


空を屋根、地面を寝床として生きていけば良いではないか。苦難を言い訳にして神々から下された聖務に背を向けてはならない。



「私はこの世界でたくましく生きていきます!ファイルーズ!」



ファム・アル・フートの目に光と気力が戻る。



「必ずや神造裁定者様のご期待に応えて、結婚相手を見つけてみせます!」

<<ドーパミンとセロトニンの大量分泌を確認。望ましい心理状態と判断する>>



 故郷の夜空とは全く違う配列をした星々の下、女騎士は決意も新たに宣言した。



「…………!」



 見上げて初めて、女騎士は異郷の空のその事実に気付いた。



「……月がひとつしかない」

<<この惑星の唯一の衛星である>>



 "ファイルーズ"の言う事の意味は分からなかったが、言わんとすることはすぐ理解できた。


故郷と同じ色の天を覆う黒幕の中、白銀の光を纏って、瀟洒な丸い星が大きく輝いている。



「綺麗ですね……でも、なんだか寂しい気がします」

<<当機に情動の機能はない>>



 ファム・アル・フートが自分でも意識しないうちに視界がぼやけてきた。


ちょっと驚いて、瞼の内側にしみ出してきた涙を拭う。


悲しいわけでも寒いわけでもなく、大いなる自然の営みを前にした時沸き起こる自然な心の震えが体にそうさせた。



 神造裁定者より与えられた聖務を果たすまでにどれほどの時間がかかるのか分からない。


何日か、何か月か、それとも何年だろうか。


その間に記憶がいくら色褪せようと、自分はこの景色を忘れないだろう。そうファム・アル・フートは思った。


何一つ懐かしいものが存在しないこの土地で、たった一つでも心から美しいと思えるものを見つけられたのだ。

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