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2_4 チョコの神様

 至る。現在。


飲まず、食わず、休まずで歩き続けた騎士は、とうとう公園のベンチにぐったりと座り込んでいた。


 空腹と渇きと徒労感が、女騎士の全身から生気も覇気もすっかり奪い取っていた。


(……お風呂に入りたい)


すぐにでも湯につかって、汗と垢と埃を落としたいと思った。


できればサウナと水浴場がついている広い浴場が良いが、この際贅沢は言わない。


産まれた屋敷の、古いボイラーが頻繁に故障する石風呂でも今や懐かしく感じる。



 ……いや、今は風呂よりも水と食料と寝る場所を確保することを考えなくては。


このままでは飢え死にしてしまう。


故郷では殉教者として祀られるかもしれないが、神造裁定者の期待に応えられないのは死ぬよりも辛い。


何よりもこの過酷な現実になすすべなく敗北する自分が許せない。



「きゃはははは!」


ふと、黄色い笑い声が女騎士の耳へと届いた。


声のする方に目をやると、公園の真ん中で子供たちが数人、無邪気に笑い合っている。



「……どこでも子供はかわいいですね、ファイルーズ」

<<当機に情動の機能は備わっていない>>



 屈託なくはしゃいでいる姿を見ていると、空きっ腹と不愉快な現実でささくれだった心が癒される気がした。


自分も泥遊びでは、村のどんな男の子にだって負けはしなかったものだ。


必ず相手に根を上げさせるまで徹底的にやると決めてかかっていたおてんばな日々を思い出すとつい顔がほころんでしまう。



 ……故郷に残してきた族子たち、従姉妹たちは元気だろうか。


今頃どうしているだろう。狩りばかりしていないでちゃんと乗馬の練習もしているだろうか。


いや、武門の家に産まれたからといって騎士になる道を選ぶ必要はない。芸事や器量を磨いて自己表現する選択肢もあるだろう。


自分には選べなかった道だが、せめてあの子たちには得心が行く未来を選ぶ自由が与えられて欲しいものだ。



「……」


 ホームシックというにはささやかな、それでも心に染み入るようなかすかな痛みを自覚して、ファム・アル・フートは胸の内から目を背けるように再び子供たちの方を見やる。


ガキ大将らしいひとりが、水飲み場の蛇口を手で抑えてその圧で水をばらまき始めた。周りにいた子供たちが歓声と驚きの声を上げながら慌てて逃げ出す。



(ああ、あんなに水を無駄遣いして…)



服も汚して親に怒られてしまうだろうに。後のことなど考えられず今の楽しさに夢中になれる無邪気な心がうらやましい。


 ……水?


「水!!」


 声に出ていた。


 その場の子供たちが固まり、一斉に鎧を着た女騎士がベンチから立ち上がる方へ眼をやる。


鎧姿の大柄な女がベンチに荷物と大剣を置き去りにしたまま、猛然と水飲み場の方へ走り寄ってくるのを見て、子供たちは半狂乱になって逃げ出していった。


哀れな子供たちには目もくれず、ファム・アル・フートの意識は完全に勢いよく流れ落ちるままの水に向けられていた。


「み、水!水ですよ!ファイルーズ!」

<<現地住民の公共水源であると推測する>>

「飲めますか!?」

<<状況から細菌、化学汚染の危険はないと判断する>>


 手甲と手袋を外す時間も惜しい。


今日だけは神もがぶ飲みを許して下さるだろう。許して下さるに違いない。許して下さるに決まっている。


排水溝に向けて流れる水の途中に口をつけて、獣のように喉を鳴らして腹に流し込んだ。



「ごく……ごく……ごぶっ!!」



 息が続かなくなるまでたっぷり数十秒、がぶ飲みを続けた。


胃袋が数時間ぶりに内容物を得ると、ようやく人心地が付いた気がした。濡れた口元を拭う。


「生き返ります……」

<<可能な限り水分の補給を推奨する>>

「もちろんです!」



 いそいそと空の水筒に水を注ぎ始める。


無料でいくらでも水を利用できるとは、"エレフン"はよほど水利に恵まれているらしい。



 ……ふと、首筋に誰かの視線を感じて、ファム・アル・フートは振り返った。


男の子がいた。さっきの子供たちのグループよりも更に年下らしい。


一人遊びはまだ早いくらいの幼児が、じっと黒い目でこっちを見ていた。



「……どうしたの、坊や?」



 立ち上がりながら呼びかけたところで、男の子の手に中にあるものに気づく。


幼児は何やら透明な袋に包まれた小さな黒く丸いものを持っていた。


食べ物だ。それもお菓子。


初めて見るものだったが、何故かそれがすぐに直観で分かった。



 思わず喉が鳴った。


先刻まで渇きに苛まされて沈黙していた胃袋が、水っ腹とはいえ容積を満たされてうごめきだす。



(な、なんてことを!意地汚い真似をして家名を辱めてはなりません!)


騎士たる者が人の食べ物をもの欲しげに見るなどということがあってはならない。かぶりを振ってあさましい自分の心を打ち消そうとする。



 ……どういう心の働きなのだろう。


独り欲望を抑えようと悶々とする女騎士を見て、幼児はのそのそと近づくと、そっと包みを差し出してきた。



「えっ?」


児童の意図が読めず、女騎士はおずおずと確認する。



「く、くれるの…?」

「うん」


おそるおそる確認したファム・アル・フートにうなずくと、男の子は黒くて丸いそれを受け取らせようと手を伸ばしてくる。



(なんて良い子なの…!?)


 

 感激で涙腺がほころびかけた。


そこで、はっとある発見をする。



「も、もしやあなたは神の御使いでは!?」


 そういえば大聖堂の壁画に、良く似た顔の天使が描かれていた気がする。


神造裁定者も童子の姿をしていた。


神の救いが幼子の姿を取って現れたのに違いない。


なんとなく後光が差して見える気がするのもきっと、自分の聖務を助けるために神々の手によって遣わされたからだろう。多分。



 そこで女騎士は、ぼやっと立ち上がったまま御使いの助けを受け取ろうとした自分の無礼に気づいた。



「かたじけなく頂きます!」



ばっとひざまずき、両手を掲げて透明な包みを受け取る。



「あなたの身に神と神造裁定者の恩寵が降り注ぎますよう!私にこの恩に報いる機会が与えられますよう!」



 ぼんやりとした顔の幼児に向かって、騎士の正式な祈りと聖句を捧げる。



「それが叶わなければ、せめて他の信仰に列する方々への奉仕を以て代わりとさせて頂くことをお許し下さい!」



 膝を折って聖句を口ずさみ始めたファム・アル・フートを見て、公園の反対側から母親らしい女性が血相を変えて走って来た。



「ユウちゃん、知らない人と何してるの!」

「お母様ですか?ご心配には及びません。私はお子様の幸せを祈らせて頂いているだけです」

「―――――っ!早く行きましょう!」

「あなたの頭上に神造裁定者の……ああ!?お待ちを、まだ感謝の聖句が終わっていません!」



 引き留めるのも間に合わず、母親は幼児を連れて走り去ってしまった。



<<……進言する。現地住民の反応から推測すると、貴公の対応には何らかの倫理的問題が存在する可能性がある>>

「何を馬鹿なことを言ってるのですか、"ファイルーズ"」



自分は神への敬虔さを祈りで示そうとしただけではないか。それが悪いことのはずがない。


精霊の"ファイルーズ"には人間の心の機微というものが分からないらしい。



 今度はちゃんと手甲と手袋を外した。


ベンチに戻り、感謝の祈りを最後まで捧げてから、胸躍る気持ちを抑えきれず透明な包みを手に取った。


すべすべした素材は開けるのが難しく、何度か失敗してしまう。この透明な包みは衛生的かもしれないが少し不便なのではなかろうか。


甘い匂いが鼻まで立ち上ってくる。焼き菓子なのか干し菓子なのかも分からない、艶々とした色味を見ているだけで唾液が湧きたってくるようだ。



「な、なんという名前の珍味なのでしょう?」

<<包装には『一口チョコレート』とある>>



 一息に口中に放り込む。


刺激的な甘さと微かなほろ苦さが、舌の上を隅々まで塗りつぶしていった。脳が蕩けるような甘味と共に、疲れ切った心と体に沁み込むような充足感を与えてくる。



「お、美味ひぃぃ……!」



緩み切った声が漏れ出る。思わず落とさないように自分の頬を押さえてしまった。

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