2_1 トイレの騎士様
――――――気が付けば奇妙な場所にいた。
狭苦しい仕切りに覆われた個室。
低い天井に、見たこともない壁材。
香料らしい匂いもする。どうやら丸椅子に腰かけているらしい。
「…………!」
突然自分の身に起こった事態が把握できず、ファム・アル・フートは狼狽した。
つい先刻まで黒の塔の中にいたはずだが、明らかに場所が移動している。
訓練で叩き込まれた俊敏さと観察力で、五感を総動員してとっさに周囲の様子を伺う。
すべすべした床。
白くて単純な仕組みのカギが着いた戸板。
丸められた薄い紙が納まった、金属の半開封の入れ物。
天井には、ランプとも松明とも違う一定の光を放つ白い棒がはめ込まれている。照明だろうか。ススを払う必要がなさそうなのは便利そうだ。
とりあえず、知らぬ間に監禁されていたり生命の危険を伴う場所に連れ込まれた気遣いは無さそうだ。
腰の大剣からそっと手を離す。
「……ファイルーズ」
<<何か>>
鎧に宿る精霊―――とファム・アル・フートは思っている―――旅の相棒に問いかける。
「ここはもう"エレフン"なのですか?」
<<神造裁定者との回線が切断されている。その蓋然性は高い。詳しい座標の同定が必要な場合は天体観測の必要がある>>
「いえ、エレフンに着けたのなら十分です」
少なくともここは情報が何一つ入らない異邦の地であることは明白だった。
無事着けただけでも神々の加護に感謝せねばなるまい。
立ち上がって個室から出ようとした時、陶製らしい椅子の横にある箱が気になった。
ちょうど座ったまま指を伸ばすのにちょうどいい位置に壁に埋め込まれている。
ボタンらしいものが並び、単純な線の絵と一緒にどうやら文字らしきものが書いてあるようだ。
「これは文字なのですか?何と書いてあるのです?」
<<現地語だと推測。辞書ディレクトリを検索……該当あり。右から『止める』『おしり』『流す』とある>>
「?いったいどういう意味です?」
<<回答不能。情報が不足している>>
困惑しながら、ファム・アル・フートはボタンに指を伸ばした。
子気味の良い指を押し返す感触と共に、どこからか何か低く振動するような音が聞こえてくる。
「?」
何も起こらないことに拍子抜けしながら立ち尽くす女騎士の尻目がけて……。
びゅるるるる……。
突然水の滴が浴びせられてきた。
「なっ!」
座椅子の真ん中から飛び出してきた水鉄砲に腰布を濡らされたファム・アル・フートは、真っ赤な両目をぱっと見開いた。
急に拍動を速めた心臓が頭に一気に血を送り込んだ。
子供の悪ふざけに引っかかってしまったときのような羞恥心と怒りが、白い肌と耳たぶを瞬時に紅潮させる。
「何をするのです!無礼者!聖務を受けた騎士に向かって!」
荷物を背負ったまま、大剣を帯びた女騎士は狭い部屋の中で動きまわった。
水鉄砲はまだ止まらず、腰布と辺りに水しぶきを浴びせている。狼狽を覚えるとともに冷静さを奪われたファム・アル・フートは出鱈目に周囲を激しく叩きまわった。
「こんなくだらない悪戯をしかけたのは一体どこの誰です!出てきなさい!」
<<騎士ファム・アル・フート。鎮静を推奨する。騎士ファム・アル・フート。冷静になることを求める>>
……女騎士が『止める』ボタンの存在を思い返すまでに、それから数十秒が必要だった。
「……」
"エレフン"に着くや神造裁定者から賜った衣装をいきなり濡らされ、不機嫌やるかたないといった顔のファム・アル・フートが個室を出ると、やや広い空間に出た。
「――――――っ!」
思わずぎょっとした。
壁一面に見たこともないオブジェが立ち並んでいたからだ。
全体から見れば長方形で、床近くは曲線を描きながら三角形に広がっている。やはり陶製らしく白いすべすべしたデザインをしていた。
その底のあたりは水で濡れ、奇抜な色をして異臭を放つ丸いものが投げ込まれている。
「……?」
ファム・アル・フートは首を捻ってしまった。
出口らしい場所の近くにある、継ぎ目のない大きな四角い鏡("エレフン"には恐ろしく腕の良い鏡職人がいるらしい)と、ボウル状に凹んだ手水場のような場所はまだ何に使うのか想像がつく。
しかしこのオブジェは一体何のために作られているのだろう。
不思議に思って近づく。オブジェのそれぞれ上方に、結晶のような黒い板と細く赤い光が灯っていた。
何かと思って手を伸ばしてみる。
ジャ――――――……。
「きゃっ……!」
突然オブジェの中で水が勢いよく流れ始め、先刻の水鉄砲で凝りていた女騎士は思わず身をすくめた。
自分が何かまずい操作をしてしまったのかと慌てたが、しばらくしてひとりでに水は止まった。
周囲にこぼれたり女騎士に水がかかったりといったことはない。こちらは例の丸椅子とは違い、最初から一定の水量だけが流れる仕組みのようだ。
「……もしかして、噴水?これが?」
にしては小さいし、水の勢いも乏しいし、何より室内にこんなにたくさん作る意味が分からない。
……"エレフン"の人間は一体何を考えているのだろう。
これが文化だとしたら、自分にはとても馴染めそうにない。
(こんなところで結婚相手を探すなんてできるのでしょうか……?)
頭がくらくらしそうになるのをこらえて、ファム・アル・フートは出口に向かった。
『4番線の列車は当駅が終点です。東花咲へは6番線の列車にお乗り換え下さい』
『8番線の10時20分発の列車、ただいま2分ほど到着が遅れております。お客様には大変ご不便を……』
『土守観光には、便利な祖父江タクシーをご利用ください!』
頭の中に響くくらい、耳障りな騒音が木霊している場所に出た。
「ほぉ……」
どうやら自分はよほど大きな建造物の中にいたようだ。ここはその中央回廊といったところだろうか。
見たこともない服を来た人間が、男女や年齢を問わずひっきりなしに往来していた。
顔の横に金属片を当てて独り言をぶつぶつつぶやく者。
売店らしいところで物品を購入する者。
窓口らしい場所に行列を作る者。
目立つ場所に掲げられた板には、蛍光色の文字が躍っていた。
遠くから音声で何かを案内する声が聞こえる。ときどき風を撒くような轟音が響いてくるが、一体何の音だろうか?
さっきまで不機嫌だったことも忘れて、好奇心を刺激されたファム・アル・フートはきょろきょろとあたりを見回した。
てんでばらばらのようでいて、皆忙しそうに速足に行き交い、雑然とした音が空間を満たしている。ここはよほど重要な施設のようだ。
天井は高く、ところどころ実に見事に写実的に描かれた巨大な細密画が掛けられている。何が描いてあるのかはよく分からないが、張り付いたような笑顔を見るに恐らくは信仰の喜びを示す宗教画か何かだろう。
騒々しいがなんとなく周囲をエネルギッシュな活気が満たしているような気がして、ファム・アル・フートは少し心が躍るような気分になった。
「……?」
物珍しさに思わず我を忘れて突っ立っていたファム・アル・フートは、自分に向けられた視線に気づいた。
背後の部屋から出てきた自分を、足を止めていぶかしげに見ている者たちがいる。
ぽかんと口を開けてたり、眉をそばだてたり、隣のものとひそひそ小声で何事か話したり。
表情はそれぞれだが目つきから不審に思われていることはすぐに分かった。
(……無理もないでしょうね)
ファム・アル・フートは小さく息をついた。
さっきから見ていれば、自分のように鎧を身に着けた者や剣を帯びたものは一人もいない。
おそらくここは"エレフン"の平民用の施設で、自分のような騎士を始め戦士階級や貴族階級の人間が普段利用することはないのだろう。それならばどことなく気品に欠けているのも納得がいく。
異邦人である自分のエチケット違反を見咎められているのだ。
ここは彼らの流儀に従い、さっと静かに通り過ぎても良いのだが、何事も始まりが肝要である。
毅然とした態度を見せて、『流石は神に祝福された地"アルド"より聖務に赴いた騎士だ!』と感嘆させなくては。
ファム・アル・フートはそう結論を出した。
「……ファイルーズ。私の言葉は彼らに通じますか?」
<<既に言語クラスタを起動済である。サンプルの照合完了。辞書登録と相違なし。同時通訳と音声変換を開始する。発言されたし>>
相変わらず鎧の精霊から何を言われているのかはさっぱりわからなかったが、好きに喋れという意味だと解釈した。
こほんと咳払いして、背筋を伸ばしてから、顔を曇らせた周囲の人々に向かって向き直る。
「決して怪しいものではありません。ご安心を」
はっきりした口調で朗々と告げる。
「私は騎士、ファム・アル・フート=バイユート。神造裁定者より聖務を賜り、この"エレフン"の地に参りました!」
淀みの全くない良く通る声は、騎士たるものの口上として幼年向けの教本に載せたいほどの見事さだった。
「武装しておられる方はいないようですが、私が持つこの刃を恐れる必要はありません。私は神の剣。この"ツヴァイヘンダー"を抜くのは、人類の怨敵と信仰を害するものに対してのみと心に固く定めております」
何事も最初の印象が大事だ。こんなところで尻込みしたり気後れしていては先が思いやられる。女騎士の唇と舌はますますよく回った。
「異邦の生まれではありますが、願わくば聖務を果たす日までご寛恕を賜りたく思います。では、皆様の頭上に、神々の恩寵が降り注ぎますように。失礼!」
凛とした声色で口上を述べ終わる。
微かに視線を巡らせて反応を伺った。
よそ見をしたり気付かないふりをしているような者もいたが、大抵の人間は静かに聞いているようだ。
はやしたてたり口笛を吹いて茶化すような者は一人もいない。
呆気に取られているものもいるが、自分の口上の流麗さに聞き入っているらしい。
(どうやら、騎士に対する最低限の礼節は弁えているようですね)
最初の掴みとしては上々だろう。満足して、ファム・アル・フートはその場を辞去した。
『男子トイレ』と標識に書かれた部屋から出てきた女騎士は、こうして呆気に取られる通行人に背を向けて、堂々とした足取りで駅の出口へ歩き出したのだった。