7_11 名前さえ知らずに
ミハルが小さく息をついたのを見て、ファム・アル・フートは息を切らせてまくしたてた。
「も、もちろんあなたのことは大切に思っていますよ!それを証明するために、秘密を打ち明けましょう!」
「秘密?」
ミハルがぼんやりとした目で顔を上げると、ファム・アル・フートは自信たっぷりに大きく頷いてみせた。
「私の名前です」
「ファムだろ?」
「ですからファム・アル・フートで一つの名前だと何度も……。それはいわゆる字名で、本名は別にあるんです」
いわゆる他人に教える名前と、家族しか知らない名前を別々に持っているということだろうか。
地球でもいくつかの文化圏ではそういう名前の使い分け方をしていると話に聞いた覚えがミハルにもあった。
「そうなの?」
「ええ、オデットにもアルカイドにも教えていません」
「秘密なんだ」
「今では父以外には知る者はいません。夫であるあなたに教えないのはありえませんから教えます」
そう言ってファム・アル・フートは居ずまいを正した。
釣られてミハルも正座してしまう。
「良いですか、よく聞いてください」
周りには誰もいないのに、ファム・アル・フートは盗み聞きを恐れるかのように吐息がこそばゆいくらいまで顔を近づけてささやいてきた。
頬に熱が帯びるのを自覚しながら、ミハルは続く言葉に意識を集中する」
「私の名前は『 』です」
まるで睦言のように優しく甘くファム・アル・フートは自分の名前を明らかにした。
それを聞いてミハルはぽかん、と口を開けてしまった。
ファム・アル・フートが口にした名前の響きは濁音交じりで強そうに聞こえたし、ミハルの感覚ではとても女の子の名前に相応しいとは思えなかった。
それに何より聞き覚えがある名前だった。小さな頃大事に持っていたある図鑑に全く同じ名称をもつあるものが載っていたのをはっきり覚えている。
「おまえ、『 』?」
意外過ぎてついついオウム返しにしてしまう。
「『 』って言うの?」
「ええ。良い名前でしょう?人前で呼ばないように気を付けてください。秘密の名前ですからね」
ファム・アル・フートは嬉しそうにほほ笑んだ。その名前で呼ばれることが嬉しいようだ。彼女にとってそれほど大切な名前ということだろう。
「でもこっちじゃ『 』って怪獣の名前だぞ?」
「カイジュウ? カイジュウって何のことです?」
ミハルはスマートフォンのインターネットアプリで『 』と打ち込むと、画面に表示された画像検索の結果を女騎士に突き出した。
そこには古い特撮番組のキャラクターが映っていて、それを見た女騎士がいぶかしげに眉をひそめた。
「何ですか、この気持ちの悪い生き物は。首がありませんよ?」
「これ『 』。おまえの名前とおんなじ」
「えぇぇ!?」
女騎士は瞠目した。
「そんな……酷い……あんまりですよ!」
「俺に言われても」
「先祖の故郷で一番きれいな名前を付けたとお父様に言って頂けたのに!」
「そうなの?」
「ええ!美しさとか……美麗さとか……そういう意味ですよ!?」
肩をいからせてファム・アル・フートは不満の声をあげた。
ミハルはそれを見ておかしくなってしまった。
意味からしてもこのパワータイプの女騎士にはふさわしくない名前のような気がする。
が、人間誰しも人に言えない可愛らしい秘密の一つや二つくらいあって当たり前だろう。
その一つを共有してくれるということは……ミハルも期待を持っても良いのかもしれない。
「よっ『 』」
「やめてください、軽々しく口にするのは……。"エレフン"の人間は一体何を考えているのですか……」
本気で肩を丸くして落ち込む女騎士を見て、ミハルもふっと自分の秘密を教えてやろうという気になった。
このままではちょっとフェアではない気がしたし、こいつなら人には漏らすまいと思えたのもある。
「あのさ」
「え?」
「俺も本当は安川ミハルって名前じゃないんだ」
頭を抱えていたファム・アル・フートは、ミハルの言う意味を測りかねたのか目をぱちくりとさせた。
「本当は渋井って言うんだ。安川はおじいちゃんの名字」
「家名を名乗ってはいないのですか?」
「うん。……色々あって」
その『色々』の中身まで口にするのははばかられた。
言っても聞いても気持ちの良い話ではなかった……というのもあるが、それを話そうとすると恨みつらみをどうしても交えなくてはならなくなる。
こんなに晴れた春の日の下で話す内容ではない気がした。
ファム・アル・フートがわずかに目を細める。
「まだ言いたくはない、ということですね?」
「うん……」
「分かりました。夫婦の間にも秘密があるのは許容されるべきです。追及はしません。……が」
ファム・アル・フートが頑丈な手甲越しに、ミハルの手を取った。
「夫婦である以上、あなたの悩みや困りごとは私との共有物です」
あまりに力強く断言するので、ミハルは大きく目を見開いてしまった。
「もしあなたが喋っても良いと思ったなら、過去と向き合える自信がついたのなら必ず私に最初に打ち明けてください。良いですね?」
聞きようによってはあまりにも一方的な通告だった。ミハルはあんぐりと口を開ける。
「それ、言えって言ってるのと同じじゃないか」
「いいえ、そんなことは言っていません。あなたが喋りたくなったときは私に打ち明けてください、と言っているのです」
「同じじゃん」
「全然違います」
ファム・アル・フートが譲る様子がないので、仕方なくミハルは小さく曖昧にうなずくことで返した。
不思議なもので何も解決してはいないのだが少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
小さな幸福感のようなもので胸を満たされてその心地よさに浸っていると、ふとあることに気付いて声に出して笑ってしまった。
「どうかしましたか?」
「よく考えたら俺たち、お互いの名前も知らないままで結婚するだのしないだの言ってたわけか」
流石のファム・アル・フートも思うところがあったようだ。
「……よく考えたらバカみたいです」
「本当だよ。バカみたい」
こらえきれずに、女騎士も釣られて笑い出した。
二人でそうして笑っていると、そこでようやく初めて秘密を共有できた気がした。
「ファム」
ちょっと考えてから、ミハルはやはりそう呼びかけることにした。
「はい?」
「ファム。……うん。やっぱりこっちの方が良いや。呼びやすいし」
「――――――そうですね。私も、あなたにはそう呼ばれる方が好きです」
小さく首を傾げて笑い返してくるファム・アル・フートを見て、ミハルは心の中で密かに計画していたことを実行しようと瞬時に決めた。
時間はちょっと遅すぎるし、昼食に購買のパインパンをかじってフルーツ牛乳で流し込んではいたが、まだ腹具合に余裕はある。
もうすぐ次の授業の予鈴が鳴り出す頃で……本当は保険室に行っていないといけないのだが……後で怒られてもいいやという気になってきた。
「あのさ」
「何ですか、ミハル」
「次の授業サボるからさ……」
どうせ次の授業の数学教諭はろくに出席も取らないようなズボラだし、守衛がいる正面とは違って校舎の裏側は死角が多くて乗り越えてもまずバレはしない。
熱病に冒されたよう沸騰する頭の中で必死に自分を後押しする理屈を積み上げながら、ミハルはなけなしの勇気をかき集めた。
こればかりは、8歳の自分の助力を願う訳にはいかなかった。
「……一緒にお昼食べに行かない?」




