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7_9 15の春


 それは突然やってきた。



 午後の古文の授業。

まだ若い教師が生真面目そうな四角い文字で黒板に板書している一方で、何人かの生徒は春の陽気にかどわかされたか昼休みにはしゃぎ過ぎたのか、うとうとと胡乱な目で白いチョークで書きだされる古典の和歌を眺めていた。



【瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ】



「この『瀬をはやみ』の部分だが、初出の久安百首に収録された段階では実は『ゆきわかれ』だった」



 良く通る声で教室内に響く説明をミハルは気の抜けた顔で聞いていた。



「詠み手の崇徳上皇は16年も天皇の位についていた人だが、政治闘争で皇室の最高権力者である治天の君にはなれずに結局讃岐に流刑になったんだ。恨みで天狗になったという伝説まである」

「……」

「そのせいもあってこの歌を厳しい現世をはかなんだものや来生での幸福を願うものと解釈する人もいるが、元の歌では単に再会を願う恋愛感情の方が強調されていたわけだな」



 後ろの席で午睡を貪っているジュンとは違って、ミハルはそつなくやや衒学的な教師の解説から要点を拾い上げてノートに記していた。

別に古典世界に興味があったわけではなく、恰好だけでも集中している方が体感時間が早く流れ授業の終わりが近づくことを知っているだけだった。



 なので、どうしてその音にすぐに気付くことができたのかはミハル自身にも説明がつかない。

 


 ――――――コツコツ。


 

 最初は誰かが机を小突いたのかと思った。

しかし教室で一番窓際の席に座るミハルには、その音が外から聞こえた気がした。

何だろう、と教科書から視線を上げる。



「…………」




 もう少しで声を上げてしまうところだった。



 窓ガラス一枚挟んで、女騎士が立っていた。



 長い金色の髪に、鮮血色の眼。最後の別れ際に見た時よりも血色がよくなった気がする頬。

前と微妙に細部の造形が変わった気がする白銀の鎧を纏い、中庭に面したガラスをやや不安げに手の甲でノックしている。



 たっぷり一秒、視線が交錯する。

慌ててミハルは周囲を見渡した。

古典教諭は更に和歌の読解を進めている。クラス中の生徒たちは真面目に授業をしているか眠そうな顔で内職をしているか、思い思いに自分のことで没頭していた。

魔法がかけられているかのように、いきなり現れたファム・アル・フートに誰も気づきはしなかった。窓の外の日差しを見て大あくびする者までいるというのに。



 もう一度ばっと振り返る。

ファム・アル・フートはやや困った顔になっていた。

どうするつもりか良く考えずにやって来たらしい。

やや逡巡した様子で、少し慌てて上方を指さした。屋上へ、という意味だとミハルは解釈した。



 こんな時なんて言えばいい?

頭の中で考えつくよりも早く、ミハルは立ち上がっていた。 

椅子が床を引きずる音にクラス中の視線が集中する。



「先生」

「ん?」

「気分が悪いので保健室で休んできます」



 驚いて眉を上げた教諭の返答を待たずに、クラス内がざわめく中を突っ切って教室の扉へと足が向かっていた。



 ――――――。



 授業中の校舎は、教室から漏れでる講義の声以外は静まり返っていた。

なるべく足音を立てないようにして、無人の廊下をすり抜ける。



 途中で教師に見つかったらなんて言い訳しよう。

ファム・アル・フートは途中で誰かに見つかったりしていないだろうか。そもそもどうやって校門を抜けてきたのか。また物理の法則を無視して飛んできていたりはしていないだろうな。

とにかくファム・アル・フートに会って向こうでどうなったのかを聞いて、これからどうするのか相談して、適当に周りの人間に合わせるための話を考えなくてはならない。

……頭の中で思いつくのは面倒なことばかりなのに、どういうわけだかミハルの口元はずっとほころびっぱなしだった。



――――――。



 屋上に飛び出した。


流石に授業中に堂々と屋上でサボるような生徒はおらず……ファム・アル・フートは一人でいた。

どういう訳だか、手すりの傍で何やら神妙そうにしている。



 走り寄ろうとして……思い止まった。

昇降口の傍は校舎からは影になって分からないが、流石に外縁近くは教室からでも丸見えになってしまう。



「ミハル!」



 躊躇したときに、女騎士が短く叫んだ。

カシャカシャと装甲同士が触れ合っているとは思えないくらい軽い金属の音を立てながら駆け寄ってくる。



 照れくさいような、恥ずかしいような、不思議な高揚感を抱きながらミハルはその名を呼……


「ファ……!」

「ヒゲ!ヒゲを見せてください!」



 ……ぼうとしたところで、予想外の第一声が聞こえてきた。



「……は?」

「ちょっとでもヒゲは生えましたか!?」

「……」

「成長期ですし、『男子三日会わざれば刮目してみよ』と言いますものね!少しくらいは変化があっても…………嫌ァァァツルツルぅぅぅ!」



 ミハルの前でかがみこんだファム・アル・フートは乱暴にその顎を引き上げると、赤ちゃんの頬っぺたのようなきめ細かな肌が広がっているのを見て愕然とした。



「困ります、そんなの!ヒゲも生えてない人と式を挙げろというんですか!?」

「……あのな、ファム」

「あっ。この制服ちゃんとアイロンかけてないでしょう。駄目ですよそんなズボラをしては!あーもう、ちゃんと伸ばさないからシワくちゃ!」



 頭を抱えて懊悩しだしたファム・アル・フートに一声かけようした途端、目ざとく着崩れた制服を見咎めてきた。裾や袖を引っ張っては洗濯の具合に鋭く目を光らせてくる。



「ファム。聞いて。ファム。お願い」

「それからもしかして、ちょっと痩せたんじゃないですか?ちゃんと食事をしていますか?肉を食べて精をつけなさい、美味しい肉を!壮健な体をしていないとたくさん子供が作れな」

「いい加減にしろ!」



 とうとう服の上から触って体の肉付きを確かめ始めたところで、元から余り余裕のない堪忍袋の尾が破裂する。

怒りの手刀がファム・アル・フートの頭にめり込んだ。



「オカンかお前は!?」

「す、すみません、つい……。その、自分の考えばかりで頭が一杯になって」

「そんなことばっか考えてんのか!?」



 頭を抱えて悶絶するファム・アル・フートに対して、せっかくの再会への期待感を生活臭で踏みにじられたミハルの怒りはますます燃え盛った。



「アンタ……どんだけ残念なんだ!?」

「な、何をそんなに怒っているのですか?」

「自分の胸に手を当てて考えてみろ!」


 

 ミハルが見ている前で、ファム・アル・フートは本当に鎧の湾曲した胸当てに手を当てて考え込み始めた。



(本当に自分の胸に手を当てて考えるやつ初めて見た……!)



 軽く新鮮な驚きを感じていると、ファム・アル・フートがやや得意げに唇を尖らせてくる。



「…………ツンデレですね?」

「ちげーし古いわ!どこで覚えたそんな言葉!」



 ちょっと嬉しそうなのがますますミハルの勘を逆撫でした。



「なっ、そんなバカな!?ツンデレは永遠に不滅の属性と聞きましたよ!」

「争点はそこじゃねえよ!誰に何を吹き込まれてんの!?そもそもそういうキャラだったっけ、どんなだったかもう思い出せないんだけど!?」

「以前マドカがそう熱弁していました!」

「どんなガールズトークしてんだアンタら!」



 いらいらと自分の頭を掻きむしり始めた少年に対して、女騎士は手を開いてなだめ始めた。



「お、落ち着いてくださいミハル……。えーと、どこから話しましょうか?」

「とにかく、あの後どうなったかちゃんと話せよ……」

「"黒の塔"で貴方と別れて聖都に戻ると盛大な凱旋式と法皇聖下直々の祝勝のミサを開いて頂きましたなんとお手づから婚約指輪まで頂いたんですよあのお優しい風采とふさわしい威厳を伴った声そしてなんとも言えない気品は神々の地上代理人として我々信徒に与えられた恩寵そのものです私の心は初めて聖典の教義に触れた時のような喜びに包まれ―――」

「要点をまとめて!!」



 自分の得意分野になると急に早口になるタイプの特定の人たちを相手にしているときのような苛立ちが、ミハルの額に青筋を作った。



「私だってなるべく早くこちらに戻ろうとしたのですが。……とにかく、とてもとても忙しかったのです」

「……」

「その、聖都では祝宴と式典の連続で。その上聖務を果たした功を顕彰され、我が家が爵位に叙任されることになって故郷の公国にも戻らなければならなかったのです。男爵ですよ男爵!」

「……」

「父に結婚の報告もしなければなりませんでしたし、結婚式に着るドレスを仕立てる職人に会ったり教会の建設現場の慰問やらでてんでわんやで……すぐには戻れなかったんです」



 弁解しながら、むくれる少年の目元が紅潮していくのを見た女騎士の語尾がどんどん弱くかすれていった。



「あの、ミハル?怒ってますか?でも許してください、私にも事情があったのです」

「……したんだぞ」

「え?」

「心配したんだぞ。もしかして、俺が知らないところで何かあったのかって」



 ぐすり、とミハルは小鼻を擦った。

嗚咽がこみ上げるのをこらえながら、怒りで顔を抑えるふりをして潤む両目を女騎士から隠す。


 ファム・アル・フートは軽く目を見開いたが、すぐに小さくほほ笑むと少年の頭を両手で包むようにした。



「ごめんなさい。こんなに長く戻れなかったのは私の落ち度です」

「……ばか」

「ええ、そうですね。言伝てを頼んででも真っ先に貴方に無事を伝えるべきでした。私は愚かですからいつも良い考えは後から浮かんでくるんです」

「本当にばか」

「全くそうです。なのでこれからはミハルのそばから離れないようにしましょう。二人でなら良い考えが浮かんでくるかもしれせん」


 

 ミハルの頬は涙以外の理由で紅潮した。

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