1_9 "エレフン"へ!
ファム・アル・フートの出立の日。
殉教者大聖堂で、聖務の成就を願う盛大なミサが行われた。
新たな鎧の上に豪奢な外套を纏わされた騎士は、万座の参列者の中で粛々と、法王自らの手による祝福と聖体の拝領を受けた。
最後に法王圏を代表する聖職者たちが揃って聖句を唱和し、ミサがしめやかに終了する。
そのまま通りへ出た女騎士は、道を埋め尽くす群衆に歓呼の声で出迎えられた。
聖堂騎士団だけでは警備が追い付かず、周辺の諸侯の騎士団まで動員して厳戒態勢が敷かれる中、人々は構わず声を挙げ女騎士に近づこうとする。
聖都にはこんなに人がいたのか、とファム・アル・フートが驚いてしまったほどで、手綱を引いて連れてこられた愛馬へ乗るのにも一苦労だった。
大通りどころか、面する建物の窓やバルコニーや屋上、挙句聖都の城壁まで、見送ろうとする住民によってすし詰めになっている。
皆一様に声を張り上げ、散歩前の犬の尻尾のように無邪気に手を振り回している。
護衛の騎士に囲まれながら通りに出たファム・アル・フートは、力なく片手を上げてそれに応える。
顔では笑みを作りながらも、その内心では不安に思わざるを得なかった。
もし役目を果たさずに帰ってきたら、果たして彼らは同じ態度で自分を迎えてくれるだろうか?
……背中に冷たいものを感じたところで、群衆の中にいる修道女の姿に気付いた。
いつもより気持ち控えめに修道服を着崩していても、見間違えるはずもない。
シスター・オデットだった。
その表情には色々な感情がない交ぜになってようだったが、少なくとも笑みを浮かべて手を振ってくれた。
もう会えないかもしれない。
咄嗟に胸から湧き出した熱いものが、両方の瞳の裏側へと奔り、涙腺を灼いた。
(門出を汚してはいけない)
騎士としての矜持が、喉首まで出かけた声を辛うじて押しとどめ、咄嗟に腕を天へと向かって突き上げさせた。
気持ちのはけ口を求めてのごまかしだったが、誤解した群衆の歓声が一際高くなった。
馬上の女騎士は三重の城壁を出るまで後方を何度も振り返り、その度に群衆は熱狂した。
―――――――――。
法王圏から"エレフン"へと行く方法は一つしかない。
東方の大平原地帯にある、とある神造裁定者ゆかりの建造物まで赴き、そこで奇跡を待つのである。
"中の海"のほぼ中央に突き出た半島に位置する聖都からは、海路を使うのが一番手っ取り早い。
今回の聖務のために法王庁によって特別船が用意され、聖都の外港都市である"両湾の都"で賓客を待ち構えて錨を下ろしているはずだった。
が、その行程は大幅に遅延した。
街道添いでも女騎士は引っ張りだこだったからだ。
ファム・アル・フートと護衛の騎士一行は時折待ち構えた群衆をかき分けるようにして進まねばならず、宿泊先でも大歓迎を受けた。
行く場所行く場所、会う人会う人が何かと理由をつけて引き留めるために、徒歩でも二日もあれば余裕を持って着くはずの陸路を後半はほとんど戦足で駆け抜けねばならなくなった。
港でもまたしても大群衆の見送りを受け、野次馬が物見の調達した遊覧船や物見高い臨時に出した見物用の漁船で港はイモ洗い状態になり、一時は全く船足が進まなくなってしまった。
逃げるように港外に出ると、そこからはようやく順調だった。季節風を帆に受けて一日で"真珠の海"を渡る。
が、慣れない船旅と潮風に絶えて辿り着いた対岸でも、例のごとく群衆が大挙して乙女を一目見ようと集まり……。
船酔いと疲労と倦怠感で青い顔をした女騎士がはしけの上に現れた時には、人々が身を乗り出したあまり将棋倒しになりケガ人まで出た始末だった。
こんな調子で旅程は常に遅れスケジュールは逼迫し、法王圏を出る頃にはファム・アル・フートはほとんどふらふらの状態で馬の背にしがみついていた。
聖都を出て一週間。
オールをこぐように馬上で夢と現を行き来するファム・アル・フートと、護衛の騎士たちは、大平原の荒野にいた。
疲れ切った乙女を護衛する騎士たちは、流石に気を緩めることなく辺りに目を光らせている。
聖務を帯びた使者が、金品を持ち歩いていると誤解した野盗や山賊の類に襲撃される事件は珍しくもないからだ。
<<騎士ファム・アル・フートに注意を促す>>
突然、抑揚のない無機質な声を発するものがいた。
騎士たちが互いの顔を見合うが、ファム・アル・フートだけはその正体に気付いた。
鎧に宿る精霊、"ファイルーズ"の声だ。
彼……とりあえず男に近い声をしていることからファム・アル・フートはそう認識している……はよほど無口なのか、旅程の間一切声を発することはなかったから、護衛の騎士たちが不躾な同僚は誰かと目を鋭くし合ったのも無理はあるまい。
<<前方より接近する急物体あり。質量と速度から騎乗の人物と思われる。注意されたし>>
驚く護衛たちを無視して、ファイルーズが淡々と声をあげた。
鎧の喋ったことが分かったわけではないだろうが、次に反応したのはファム・アル・フートが乗る馬の耳だった。
次いで騎士たちの乗馬の耳がぴくぴくと揺れ、落ち着きなく前方へ向く。
ここまでくると騎士たちは目ざとく変化を察知し、前方にかすかに立ち昇る土煙に気付いた。
高く鋭く上がる土煙は、馬がこちらに向かって駆けてくる証拠である。
数を頼みにする野盗や馬賊の類にしては細過ぎる。どうやら単騎のようだ。
護衛たちはファム・アル・フートを取り囲むように油断なく位置取った。
が、無駄なことだった。
「あれは……ジュンドゥブ!」
接近してくる旅装姿の馬上の主の姿に気付いたファム・アル・フートは、愛馬の名前を呼ぶだけで走り出させた。
「騎士ファム・アル・フート!」
「心配いりません!」
騎士たちの諌止を振り切り、女騎士は近付いてくる孤影に向かって愛馬を駆け寄らせた。
「アルカイド……イリデッセンス副隊長!」
細身の旅装姿に、馬を近付けながらファム・アル・フートは呼びかける。
相手も気づいたらしい。速足で飛ばしていた馬を手綱で御し、興奮しきり立ち上がりかけたのを、首を撫でてすぐさま落ち着かせる。
「……久しぶりね、ファム・アル・フート」
鞍上の旅装姿は、ホコリを被った外套のフードを下ろした。
亜麻色の長い髪がこぼれ出る。
柔和な笑顔は、かつて先輩騎士としてファム・アル・フートを鍛え上げていたころのものと寸分も変わりない。
アルカイド=イリデッセンスの優しい目じりとぷっくらした唇だけを見れば、人はそこらの女学校の教師か、品の良い領主婦人といった印象を抱くだろう。
誰も彼女が法王庁で最大の戦力を持つ聖堂騎士団の、それも史上初めての女性副隊長だとはその外見からは想像できまい。
しかし、彼女は東方の帝国との最前線で防衛の任を担う第二大隊の、その駐屯兵団の再編成の任務に就いていたはずだ。
こんなところに一人でいるはずがない。
「もしかして、見送りに来てくれたのですか?」
「ええ、ついでにね。たまたま聖都に帰る用事の途中で聖務の話を聞いたの。少し遠回りすればこの街道まで来れたから、会いに来てしまったわ」
馬を下りながら、アルカイドはすぐバレる嘘をついた。
旅塵に塗れた亜麻色の髪と、ほとんど駆け通しで疲弊した馬の様子を見れば分かる。
ほとんど不眠不休で、馬を何頭も乗り換えながら駆けつけて来てくれたに違いない。
「………」
ファム・アル・フートの両目の奥に熱いものがこみ上げてきた。
空振りに終わるかもしれないのを、今生の別れになるかもしれないという一念で不眠不休で強行軍を重ねてきたのだ。
こうして巡り合わせてくれた天上の神々に感謝しなければならない。
「泣くんじゃありません。あなたにとってはめでたい門出でしょう?」
「す、すみません。私はまだ未熟なようです」
「仕方ない子ね。……やることはちゃんと済ませてきた?」
「ええ、準備はしっかりとしてきました。毎晩ちゃんとサラダを取り分ける練習を……」
「え?サラダが何?」
美貌の副隊長は目をぱちくりとさせた。
「何のことか良く分からないけど……ご家族にはちゃんとお別れをしてきた?」
「いえ、どこの異郷の野であろうと聖務のために躯を晒して悔いなし。それが一族の習いです。手紙で済ませました」
「相変わらず難儀な家ね」
ようやく護衛の騎士たちが追い付いてきた。
副団長の姿を認めるや否や、彼らは即座に鐙を外し、背筋を伸ばして馬上の礼を取った。
アルカイドが副隊長の座を、美貌と家柄ではなく実力と威厳で掴み取った証左である。
「本当はもっとお話したいけれど、そうもいかないわね。とにかくファム・アル・フート。今回はおめでとう」
「ありがとうございます。聖務に精励します」
「……でも驚いたわ、まさか結婚なんてね」
「私もです」
つい一週間前までは自分が結婚して家庭を持つことなどまるで現実味のない考えだった。
正直、今も実感など湧かない。
状況に流されて異世界まで行くことになってしまったが、この程度で運命を嘆いてなどいられない。心も体もそこまでやわな鍛え方はしていないつもりだった。
「戦いでお役に立てないのは残念ですが……これも神々の意思に基づく任務。私は全力で役目を果たすのみです」
「肩肘張り過ぎよ。もっと視野を広く持ちなさいな。良い機会じゃない、あなたまだ人を好きになったことないでしょう?祝福者が素敵な人だったら良いわね」
「…………」
「どうしたの?」
アルカイドの口から出てきた意外な言葉に、ファム・アル・フートは目を丸くした。
「…………結婚に好意が必要ですか?」
あまりに真面目くさって言うので、思わず副団長は苦笑した。
「時々思うわ。あなたが従騎士だったころに教えなきゃいけないことが、もっとたくさんあったんじゃなかったかって」
「そ、そんなことはありません!」
ファム・アル・フートは脂汗をかいた。祝福者との結婚は自分に課せられた聖務であり、騎士としての使命のはずだ。
……それと色恋に何の関係があるのだろうか。
「私も偉そうなことは言えないけどね……。結婚っていうのは、幸せで、切なくて、もう死んじゃいそうな時にするものだと思うわよ。少なくとも世間一般ではね」
「け、結婚とはそれほど苦痛を伴うものなのですか!?」
「あなたと話してると退屈しなくて良いわね……。とにかく、私が知ってるファム・アル・フートは戦うことよりももっと素晴らしい美点をたくさん持ってるわ」
ファム・アル・フートは納得いかない様子で、胡乱気な目を向けた。。
「それを見せてあげれば大抵の異性は夢中になるわよ。私が男に産まれてたらほっとかないもの、絶対」
「……?」
乙女は狐につままれたような顔をしていた。
出来の悪い妹を眺める姉そのものの表情でアルカイドはその頬に触れてやる。
「言葉を送ってあげることしかできないわ。それが残念」
「残念などと……激励の言葉を頂けるだけで、私にはもったいないくらいです」
「そんなことないわよ」
アルカイドが手を伸ばすと、ほとんど身長が変わらない女騎士の頭をそっと抱き寄せてくる。
「本当に辛くなったらいつでも帰ってきなさい。私の可愛いホミネ」
「…………!」
額が触れ合うほどの距離でささやかれたのは、従騎士時代につけられたあだ名だった。
アルカイドの故郷で『猫』を表す古い言葉。
冬の底冷えする夜に暖炉の前で。暑い夏の盛りに野営地の日陰で。春の野原の鞍上で。何度もそう呼んで自分をねぎらってくれたことを思い出す。
もうそう呼ばれることは二度とないかもしれない。
今生の別れかもしれないことを急に意識して、ファム・アル・フートは何かを言おうとして口をぱくぱくさせたが、何も言えなかった。
アルカイドはいつもの柔和な笑みを浮かべていた。
そして、ぱちぱちと未熟な女騎士の頬を軽く叩いて言った。
「はい。湿っぽいのはこれで終わり。元気に行ってらっしゃい」
――――――――――――。
目的地へ着いたのはその三日後だった。
そこは酷くうら寂しい場所だった。
周囲数十キロには、遊牧民が夏場だけ使うキャンプの他に集落の類はなし。
別に水源が汚染されているわけでも、危険な猛獣が徘徊している訳でもない。
『なんとはなしに』それが持つ威容と不吉な予感とが人類の定住を拒んでいるのだ。
通称"黒の塔"。
一行の旅の目的地は他にも『地獄の門』だの、『神の墓場』だの、剣呑な愛称を有していた。
別に黒い色をしている訳ではない。グレーか、金気色か、とにかく神造裁定者がしろしめす信仰の中心"白の塔"とは対照的な外観からそう呼ばれているに過ぎない。
目視する限りでは、大きさは同程度だろうか。
聖都で見られるもののように鉱物の結晶を思わせる鋭角な部分が少なく、代わりに魚の腹のように丸く膨らんだシルエットをしている。
屹立する塔の麓まで近づいたところで、ファム・アル・フートは馬から降りた。
「ここまでです、ジュンドゥブ。よく今まで私を乗せてくれました」
正面に立って愛馬を労う。
馬に表情があるわけがないが、ジュンドゥブ……女騎士の先祖の故地の言葉で、キリギリスと名付けられた黒馬は悲しそうな目をしていた。
獣ならではの直感で、主が遠い所へ向かおうとしていることを察したのだろう。
切なそうな呻き声を上げると、女騎士の白金色の髪を甘噛みして別れを惜しんできた。
涎がつくのも構わずファム・アル・フートは両手で愛馬の頬を撫でてやる。
「お前を"エレフン"には連れていけません。分かってください。しばしの別れです」
名残惜しい気持ちを振り切って、乙女は愛馬の手綱を傍らの騎士に預けた。
「馬を頼みます」
「引き受けました。いかがしましょう。お望みならご領地まで連れ帰りますが」
「叶うなら、近くの街の厩舎に預けておいて下さい。聖都に帰還するときはこの子の背に乗っていたいのです」
「承知しました」
黒馬は最初は嫌そうに手綱に抵抗していたが、やがて諦めたのか騎士たちと連れだって歩き去っていった。
―――――さて。
女騎士は深く息を吸った。肺に空気を取り込み、全身の血中に酸素をいきわたらせる。
ここからは本当に一人だ。
決意も新たに女騎士は不気味にそびえたつ塔を見上げた。
入口を探そうとしたところで、一体どこが正面なのだろうと不思議に思った。
外壁は凹凸が乏しく、どころか継ぎ目も隙間も見当たらない。
困ってうろうろとしていると、唐突に壁面に変化が現れた。
無音のまま、何もないところでつるつるした壁材が動き出し、いきなり扉が現れる。
驚いていると、頭上から声が響いてきた。
<<ご予約のお客様、騎士ファム・アル・フート様ですね?>>
神造裁定者の時と同じだ。
声質も似ていたが、こちらの方がやや女性的……というより声が高く愛想が良いような気がする。
「……いかにも!」
<<この度はご利用ありがとうございます。エントランス中央にお進み下さい>>
物売りの村娘のようにはきはきとした調子で、その声は塔の中へ入るよう促してきた。
もう少し威厳のある喋り方をしてくれないとこちらの調子が狂うのだが、と思いながらもちろん口に出したりはしない。
促されるまま、塔の中へ入る。
背後で扉がまた元のように閉まるのが、足元の日光が細まっていくので分かった。
法王宮の中央でで見たのと同じ床材と壁材が使われていた。
通路の奥深くは外の光が届かない闇だが、どこからか差してきた光が常時足元を照らしてくれた。
直進しているのか曲がっているのかも分からない、人の気配が一切ない通路を小半刻ほど歩いたところで。
広間に出た。
丸い天井に、窓も柱もない壁。
なんとなく地下の食料貯蔵庫のようだが、小麦袋の代わりに結構な数の変わった形の座椅子とテーブルが置かれていた。
どうやらここで休めるようになっているようだ。
<<現在システムを起動中です。座標設定と安全な量子化の準備が完了するまでしばらくの間、おくつろぎになってお待ち下さい>>
「了解しました!」
高揚した気持ちを萎えさせたくなくて、立ったまま待つ。
もう何も恐れない。
オデットとアルカイド。
二人のおかげで、気負いも重圧も全て消し飛んだ。
手には伝来の剣。
纏うは神の手による精霊の鎧。
そして何より、心の中には信頼すべき僚友から授かった熱が消えることない埋め火として煌々と輝いている。
他に何が必要だというのだろう。
女騎士は自分の生きる力と、神々の加護を微塵も疑ってはいなかった。
GWは終わりましたが5月中は毎日更新するつもりです