本物のプログラマはC++を使う
私が社会学のレポートを書いていると、通りすがる彼女はしばしば肩口から覗き込んで「くだらない」と吐き捨てた。
また社会学の論文なんて書いて、なんて馬鹿馬鹿しいのだろう、と嘲笑った。ソフトウェアをやるべきなのに、プログラミングをやるべきなのに、と呟いた。
プログラミング。私だって、パイソン言語でグラフをプロットすることはあった。しかし彼女はPythonをプログラミング言語とは呼ばない。「本物のプログラマはシープラスプラスを使う。」 それが彼女の口癖だった。
本物のプログラマはC++を使う。だって、他の言語なんて子供向けのオモチャだもの。プログラミングはパフォーマンスチューニングと無縁ではありえないのに、メモリ操作を抽象化してしまうなんてナンセンスだ。C++よりも抽象化された言語はそれはもちろん、C++よりも簡単に使えるだろう。でもそれはつまり、C++が理解できない人々のためにC++以外の言語があるということにすぎない。
人々は、ベンチマークを取って、C++のほうが10倍速いと言う。しかしそれは単純な反復処理の場合であって、実際は普通100倍は違う。数理的に高級なLisp言語などへの愛を叫ぶ人々もいる。しかし計算の数理的な側面は学部で教養として知っておくべきことであって、運動の苦手な美少女が戦場の兵士としても頼もしいわけではない。性能の悪い銃を愛して生き残れるほど現実は甘くない。
C++は飛び抜けて難しいと言われる。実際に、飛び抜けて難しいだろう。C++の学習コストは到底見合わないと言われる。実際、ほとんどの人にとってそうだろう。99%の人々にとっては、一生涯C++を学習しつづけてもC++の仕様を把握できないはずだ。それは必然であって、だってC++は本物のプログラマのための言語だもの。
……そんな有り様で、彼女は実際、鈍器のように厚いC++のAPI仕様書をいつもいくつか持ち歩いていた。「私はC++を知っているし、自分はC++を知っていると本心から言えるのは世界できっと私だけだ」と彼女はおどけた。そうして、私を見かけるたびに社会学の悪口を言いつづけた……。
あなたは馬鹿だ。この時代にまだ社会学なんてやっていて。考古学者にでもなりたいのか?
近代化が起こってすでに何年が過ぎたと思っている? 大衆化の時代が始まってすでに何百年過ぎたと思ってる? 大衆主義を相対的に批判するだなんて、近代主義を相対的に批判するだなんて、なぜ意味があると思うんだ? ましてや、個人主義や平等主義を相対化して再構成するだなんて、あなたはイエス・キリストと同時代にでも生まれたのですか?
それらは全く、自己満足にすぎないじゃないか。今の時代に正義だの倫理だの愛情だのと言ったところで、誰一人に理解されえないし、誰一人救いえない。それは単に、自己満足の自殺行為にしかなりえない。
あなたはロマンチストだね。でも愚かだ。その愚かさゆえにロマンチストなのだ。
あなたはつまり、悪党の栄える今の時代に、貧しい人々と飢えを分かち合うことに正義の美徳を見出している。しかしそれは間違っている。人々はあなたが思うよりずっと愚かだから、そんな片想いはあなたを傷つける作用しか生じない。
あなたが彼らにいくら親切にしてどれほど情けをかけたところで、報いとしてあなたに幸せが返されることはない。近代の民衆は拝金主義と利己主義の中にあるのであって、彼らにいくら親切にしても、その思考は時代の権威主義と正常化バイアスのもとへ立ち戻る。あなたが世界の全てを敵にして戦ったところで、世界の全てを敵にしてまで共に戦ってくれる人はありえない。大衆の正常化バイアスと戦うことなど、完全なナンセンスなのだ。
だからもし、あなたがあなたの財産の全てを捧げ、家族を八つ裂きにして滅ぼし、自身の健康と生存もまた奉仕したところで、道端で息絶えるあなたを道行く誰も振り返らない。彼らにとっての価値とは、世俗の金銭と地位以上ではないのだ。
最も優秀な人々が社会学を研究し、次に優秀な人々がソフトウェアを研究した時代は確かにあったよ? でも昔でしょう? 今は、あなたが思う「最も優秀な人々」はとっくに全員滅んでしまって、ソフトウェア研究者達が最も優秀であることは疑いがない。人工知能という神の召喚へとゆっくりと確実に歩む、最も自由な脳を持つ人々が最も優秀であるにほかならない。現実の社会状況を正しく知って、生き方を妥協しなければ、それは愚かだ。
魚には、彼や彼女が生きるべき水というものがあるのだ。
特に、何らかの才能を与えられた者についてそれは顕著だ。日本を代表する言語設計者、天才「まつもとゆきひろ」がガリレオ温度計になぞらえて「魂の浮力」と呼んだように、自然な興味の向かうところは個人によって異なるし、その興味の向かったところでしか満足な幸福は得られない。
だから例えば、知性の程度で言うならば、自分よりも賢すぎる人々の中にあっても、愚かすぎる人々の中にあっても、結局は幸福にはなれない。甚だしい苦しみを拭い去ることができない。
学校での成績が平均よりもよければ、単純に考えて世間の平均的な幸福以上の幸福を人生に期待できる、ともし考えるならとんだ勘違いだ。それはむしろ、普通に生きても普通の人々ほど幸福にいられないことを意味している。異端として生まれるほど、普通に生きることに満足しえないことを意味している。
自分一人さえ我慢すれば、下層の人々とであってもそれなりに幸福な人生が得られるだなんて、もし考えるならとんだ勘違いだ。どんなに深く誰かを愛したとしても、どんなに圧倒的な実力で社会に貢献しつづけたとしても、知力の異なる人々に理解されることなどありえない。刹那的な部分最適しか存在しない、利己性と欺瞞性の世界は、あなたにとって汚らわしく罪深いものでしかありえない。
なのにあなたは、世間の大きな会社、テックジャイアントの上澄みに属する研究者達を誰よりも蔑んでいるね。裕福な成功者として民衆が彼らを讃える中で、知的障害の連続殺人鬼くらいにいつだって蔑んでる。それは違うよ。
あなたは近代主義批判の伝統的な立場に立って、人類幸福のためには技術発展に致命的な危険性があると見なして、罪を犯すほど安寧が得られる時代に、大いに罪を犯すことで大いに安寧を得ている人々を蔑んでいる。それはまるで、人々の運命を変える方法がどこかにはあると言い張るかのように。それは違う。
技術によって人間幸福が終わることは、あなたが生まれるずっと以前に約束されていた。運命を変える方法なんてないし、その戦争はとうの昔に負けて終わった。なのにあなたは、まだまだ戦友が多く生きているかのように、正義を行って、正論を吐いて、仲間内での地位を高めようとしている。正しい行いをいつか誰かが正しく評価し、幸福な暮らしをもたらしてくれると念願している。なんて愚かだろうか。
はっきり言っておくけど、正義を行うことや正論を吐くことに意味がある時代なんて、何百年も前に終わったんだよ?
あなたは、知性と良心は同一だと言い切る。そしてそれゆえに知性には、高い普遍性を帯びた神々しい価値があると言う。
そしてそう考える結果、良心を伴わない知性を偽りの、滅びるべき知性として断罪する。
でも、そんなことを言っても意味がないじゃないか。
だって、良心に一致する水準で知性に優れた人々などとうに滅んだ。そして、あなたが偽りの知性と呼ぶものも一種の知性にほかならない。
そして何であれ、あなたはあなたが生きるべき水においてしか呼吸することができない。
いかに蔑むべき知性を持つ人々であれ、あなたはそれにすがるのでなければ、生きることができずに滅びる。
一流の料理がない時には二流の料理を口にしてでも生き残るべきことが、なぜわからない?
何を言いたいのかわからないって? C++をやりなさいと言っています。
C++は、最も難しいプログラミング言語だ。その仕様は、誰にでも把握できるものじゃない。いやむしろ、C++の仕様を理解できる者など全くの例外にすぎない。C++プログラマは星の数ほどいるが、二流ばかりだ。C++を極めようとすれば、それだけで人生の半分は終わってしまう。C++の神の座は、いつだって空席で誰かを招いている。素敵じゃないか。
生まれた時の頭の才能で、生きるべき知的階級は定まる。
どんなに不運や不遇にまみれて、卑しい生まれに全てを奪われたとしても、あなたの生きる幸福は世俗にはありえない。
俗物になろうとどんなに努力したって、人間ではない生き物が人間にはなれない。才能を与えられた知性は、自身にふさわしいであろう高い位を望みつづける。異端の者にとってほど生きられる池はあまりに狭く、そこからこぼれ落ちないためには、猛烈に努力しつづける以外にない。かぐや姫が結局は月に帰ったように、魂の浮力は苦しみによって人を故郷に戻す。
だからあなたは、死者を愛してはならない。今に生まれて正義を愛するべきではない。
社会学なんて忘れてしまって、ソフトウェアをやりなさいよ。
C++の本ならいくらでも貸してあげますから。