おさまらない。
試合には日常使っているものを身に着けて臨みたいものです。
慶長17年4月のことである。
小倉藩の藩主が細川忠興の頃、宮本武蔵という男が舟島の浜辺で、剣客佐々木小次郎と決闘をすることとなった。
これは正統な試合であり、小倉藩の重臣たちも立ち会うものである。
その日の早朝、佐々木小次郎は先に到着し、浜で待機していた。
重臣たちも席につき、ざんざんと打ち寄せる白波の向こうから、宮本武蔵の乗る舟が現れるのを今か今かと待っていたのである。
春の勢いは増してきた頃だが、今は早朝だ。
眩しい日差しがゆっくりと昇っており、波間に光の帯を作っている。
黄金の輝きは波に散らばるように揺れ、その上を、腹をすかせた海鳥共がこうこうと鳴きながら渡ってゆくのだった。
「まだ現れぬ……」
約束の時刻は過ぎている。
美青年と名高い佐々木小次郎は、色の白い細面の顔に何の表情も浮かべぬまま、沖の方を眺めていた。
ひとつに束ねた髪を潮風が靡かせてゆく。端正な横顔には何の焦りもない。まさに彼は剣豪なのだった。
立ち合いの重臣たちの方が苛々と焦りを見せている。
「まだか、まだなのか……」
ひそひそと言い合い、目を見合わせた。
「まさか、逃げたのではないのか」
その言葉を聞きつけて、小次郎がすっと顔を向けた。
鼻筋の通った美しい顔である。ひっそりと眉根を寄せて、僅かに怒りを見せていた。
「そんなはずはありません。宮本武蔵は必ず来ます」
しかし、ざんぶざんぶと打ち寄せる波は相変わらず朝日を映して美しいだけである。
来たる剣客を乗せた舟の影は、未だに見えない。
その頃、舟島に向かう渡し船は沖で停泊していた。
ゆらゆらと穏やかな春の海で櫂を休め、船頭はのんびりと座り込んでいる。こうこうと飛んで行く海鳥を見送り、今日は晴れるなあと呟いた。
対して小柄な宮本武蔵と、その世話を焼く娘――船頭の子が今日は一緒に乗っていたのだった――は、せわしなく動いている。
武蔵は船の上に立ち、もぞもぞと両足を動かしてみたり、腰に手をぐっと突っ込んで何かを整えるなど、妙な動きを見せていた。
娘は微妙な顔をしながら、帯を解いた袴がずり下がらないように武蔵の後ろから両手で袴を摘まんで持ち上げていた。小柄な武蔵より、娘はさらに小柄であるから、腰の袴を支えるのにはちょうど良い身の丈である。
ころんころんと、大事な二刀流の刀が船底を転がっているが、武蔵はそんなことよりもっと気がかりなことがあるらしい。どこか必死な顔をして、もぞもぞと太ももを擦り合わせたり、脱げかけた袴の中に手を突っ込んでみたりと、妙な動きを続けているのだった。
「ああ、どうも駄目だ、落ち着かん」
武蔵は深く落ち着いた声で呟いた。
非常に焦っているはずだが、声色は落ち着いている。流石の剣豪である。
「だから、何がですか」
後ろから両手を回し、武蔵の袴を持ち上げている娘が悲壮な声をあげた。
こうこうと海鳥が通り過ぎて行く。浜の方で漁師が仕事をしているらしい。賑やかな海鳥の鳴き声が聞こえて来た。のどかである。
「どうも、右に行きすぎる」
そう言い、武蔵はぐいと手を突っ込んで何かを探り、操作する。
もぞもぞと尻が動き、その動きが袴ごしに伝わるので、娘はいよいよ嫌な心地になる。
「あ、今度は左に……あいや、なんてことだ、解けかけて緩んだ。これではとても駄目だ」
武蔵はとうとう両腕を袴の中に突っ込むと、せわしなく何かを解き、それからぎゅぎゅぎゅと締め上げる仕草をした。
「これでよし……あっ、いかん、これでは潰れてしまうではないか」
だから何のことだよはっきり言えと、娘は喉から言葉が出かかるのを必死にこらえている。
(こいつ本当に剣豪なのか)
今日、親爺の舟に乗って手伝いに入ったのは、野次馬根性からだ。
噂の宮本武蔵がどんな男なのか近くで見てやろうと思ったのである。あわよくば、決闘の場面ものぞき見できるかもしれぬ――だが、今はとうの昔に時刻を過ぎてしまっているのだった。
舟が出てしばらくして、武蔵は停めてくれと言いだした。
ちょっと手伝ってくれと娘に言い、なにごとかと娘は武蔵の側まできたのであるが、いきなり袴を解き始めたのには驚いた。ちょっとあんた何やってんのと言いかけたが、偉い剣の使い手だから、決闘の前には袴を脱ぐという習性があるのかもしれないと思い直した。
考えるまでもない。そんな変な習性を持つ剣豪など、いるわけがないのだった。
親爺は物慣れた様子で波の様子を眺めている。
潮風が心地よい。ちょっと肌寒いが、春の温かさが少しずつ風に混じり始めていた。
「埒があかん。娘、ちょっと中に手を入れてくれ」
とうとうこんなことまで言い出した。
流石にその時点で、親爺がやんわりと「まだ嫁入り前ですから」と言葉をかけた。
それで剣豪は諦めたらしい。一人で袴の中の何かと取っ組み合いを続けている。
「ああっ……上を向いた。ああっ……また緩すぎる……うっ、イタッ、ああ、上手くいかん」
今日はもう止めておこうか、とまで言い出す始末だった。
そんなことを口走りながらも、無表情の剣豪である。娘はついに口を開いたのだった。
「天下の武蔵様が、決闘を前にお逃げになってはいけないと思います」
言ってしまってから、まずいと口をつぐんだ。
小娘風情が何を言うかと剣豪の怒りを買う事を恐れたのだが、武蔵ははっと目を見開き、はじめて娘の顔をまじまじと見降ろしたのだった。
「……そう、だな。娘よ。諦めるわけにはいかない。俺は……」
俺は、宮本武蔵なのだから!
……。
ちゃぷん、と、朝の魚が跳ね上がる。
日差しが眩しく波間に模様を作っている。
武蔵は悪戦苦闘の末、ようやく納得がいったようで、するすると袴を締め直し、ゆったりと座ったのだった。
二刀流の刀を手元に引き寄せ、親爺殿、出してくれいと深みのある声で言った。
あいよ、と親爺は一言答えると、またぎっちらぎっちら、舵を使い始めたのである。
ようやく舟島が見えて来た。
浜では待ちくたびれている重臣たちが立ち上がってこちらを指さしている。
重臣たちから離れた位置で、一人、すらっとした剣士が優雅に立っていた。これが小次郎であろう。
「ようやく到着か」
武蔵は低く言った。
あんたが変なことしてなきゃもっと早く着いたよと娘は内心思ったが、口に出さなかった。
側に座る剣豪は小柄であるが、浜が近づくにつれて目に輝きが宿り、ただならぬ威圧感を醸し出している。
ぎっちら、ぎっちら……。
こうこう、こうこう……。
「愛用のものが昨日破れてしまってな。ついに新調したのだが、どうにもこなれない。とても駄目かと思ったが、おかげで何とかなったようだ」
感謝する、と、武蔵は娘に軽く頭をさげた。
剣豪から礼を言われてどぎまぎしつつ、娘は勇気を振り絞り、何のことだったんですか、と聞き返した。
島はいよいよ目前である。
かくんと船は浅瀬に触れたようで、武蔵は立ち上がった。小舟は揺らぎ、娘は思わず縁に捕まり、小柄な剣豪を見上げたのである。
日差しの逆光になり、剣豪は凄みのある形相を見せていた。
(この人、勝つわ……)
佐々木小次郎も凄腕であることは聞いて知っているが、この宮本武蔵から感じられる気はただならぬものがある。ただの通りすがりの娘ですら、この男に宿る凄まじい魂を感じるのだった。
ざぶっと浅い波の中に降り立ち、もう武蔵は振り向かなかった。
襷をかけた背中ごしに、武蔵は短く答えたのである。
「ふんどしのおさまりが悪いが、おかげで」
何とかなりそうだと、武蔵は低い声で告げるのだった。
大変失礼いたしました。