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Ressentiment-悪魔と恋のうた  作者: 翡翠しおん
5/15

思惑に潜む

欠伸を一つ。目尻に浮かんだ涙を擦って、リリバスは背もたれに体重を容赦なく預けた。

軋んだ音を聞きつつ、仰け反ったままため息を一つ。

「……暇ぁ」

机の上に積まれた書類の現実からは目を反らしつつ、ひとりごちる。

リリバスのこなすべき書類仕事ではあったが、『やらなければならない』仕事ではない。

メインミッションは保健室で怠惰な生活を貪る幸せな日々ではないのだから。

「はぁ」

自分の役割を思い出し、リリバスは再びため息を吐くと、重い体で立ち上がった。

窓へと歩み寄り、カーテンをめくって外を見やれば、良く晴れた青空。ここ数日の雨空など嘘のようによく晴れている。

地面に作られた大きな水たまりが、雨の残滓を必死に訴えてはいたが。

視線を落とせば、グラウンドで駆けまわる学生の姿が見える。来週に迫った文化祭の準備に、忙しいのだろう。

自由に使える昼休みの短い時間に、少しずつではあるが完成へと近づけていた。

その姿がリリバスには眩しく感じる。

世界は明るく希望に満ちていると、迷いなく信じている瞳がリリバスには羨ましい。

「……楽しいもんなのかな、文化祭って」

その辺りの感覚は、リリバスには良くわからない範疇だった。

指示を飛ばす腕章をした男子生徒を眺めていたリリバスの耳が、近づく足音を捉える。

何の気なしに扉へと視線を向ければ、丁度タイミングよく扉が開いた。

「あ」

思わず声が漏れる。保健室の扉を開けて入ってきた一組の男女の学生。

屋内に、空が現れたような青が、ひらりと揺れた。

「あの、ここまでで大丈夫、です」

「そうか? その、あれだ。早退するとかあれば、鞄とか持ってくるから遠慮なく言えよ」

「はい。……ありがとう」

ふわりと微笑んだ幾分顔色の悪い少女の顔には覚えがある。忘れるわけもない。

空色の少女。ミッションの最重要項目。エコデだった。 ほんのりと顔を赤らめて、ぎこちない笑みを返した男子学生。彼を見送って、エコデはひとつため息を吐いていた。

「エコデ」

「え?」

自分でも分かるほどに、震えた声。エコデと視線がぶつかる。

エコデは微かに目を見開き、そして苦笑を浮かべた。

「お久しぶりです。……どうして、ここにいるんですか?」

「えっと」

ぎくりと背筋が震える。嘘は苦手だ。だが、まさか正直な内容を伝えるわけにはいかないだろう。 王立学校に潜入して、エコデを見張る様に言われている、など。次の瞬間に、背を向けられたら敵わない。

リリバスは、ミッション内容に納得しているわけではなかった。ただ、『断る権利を持ち合わせていない』だけだ。

答えを返せず、言葉に窮したリリバスに、エコデは僅かに首を傾ける。

「もしかして、軍が嫌になって転職したとか?」「あ、いや、あのその、あれだ。け、研修みたいなもんだよ」

「そういうのあるんですか。初めて知りました」

初耳なのはリリバスも同じだった。あらぬ方向から飛び出した嘘に、ばくばくと煩くなり始める心臓。冷や汗を、背中が伝った。

「それより、エコデはどうした? そいや、顔色がちょっと悪いな」

「頭痛が、酷くて。ごめんなさい……少し休ませてもらって、良いですか?」

「もちろん。ここはそのための場所だからな!」

ようやく口が上手く回り出す。自分の範疇の事ならば、すらすらと言葉が出てくるものだ。

ほっとすると同時に、先ほどの男子学生を思い出し、リリバスは思わず苦笑する。

「さっきのあれ、クラスメイト? むしろエコデの彼氏?」

「ちっ、違いますっ! ただのクラスメイトですっ」

唐突に顔を真っ赤にして慌ててエコデは否定した。怒鳴る様な勢いのせいか、頭痛に響いた様子でエコデが眉を顰める。

空きベッドのカーテンを開けながら、リリバスは意地悪く笑った。

「あーやしーなー。少なくともあっちはエコデが好きですオーラ出まくってたしなー」

「そんなのないですっ」

「えー? マジかー。そのうち告ってきそうな感じだけどなー」

「それは、もっと困りますっ」

困る?

意味が汲み取れずエコデを振り返ると、頬を朱に染めて、目を伏せていた。酷く恥ずかしそうに。

握った両手に視線を落として、ぽつりとエコデは零す。

「私……、その、許嫁の方が、います、し」

「……は?」

イイナズケ。

その言葉を飲み込むのに、リリバスの思考が鈍く回転する。その存在の名は、何だったか。

表情筋が固まったように動かない。

意図せず訪れる沈黙。

「……形だけ、ではあると思うんですけど、ね」

「え?」

そう、エコデは寂しげに笑った。 相手と上手くいっていないのだろうか、とリリバスが不安になるほどに。

「ただ、私を置いてくれるためだけの場所、ですから。……いつも、怒らせてばかりなんですけどね」

「それって……もしかして、レイルってあの超怖いやつ? 俺と顔そっくりの」

「あ。そういえば似てます、ね」

エコデにとっては似ていないという事だろうか。女性目線から見れば些細な違いで認識できるという事なのか、あるいは単に気付いていなかったのか。

いずれにせよ、エコデにとっては問題ない些細な事なのだろう。

「けど……そーなんだ……そっか」

言葉で説明するには曖昧で、複雑な感情が胸中に渦巻き始める。

ぽん、と枕の位置を修正して、リリバスは再度エコデに視線を向けた。

曖昧に微笑むエコデの胸中は分からない。少なくとも、レイルの話題に触れてからのエコデの表情には陰ったように見える。

触れるべき話題では、ないのだろう。

「ま、ゆっくり休んでけ。ここはそのための場所でもあるわけだしさ」

「……ありがとうございます」 淡く微笑み、一礼したエコデをベッドに通して、リリバスはカーテンを閉めた。

せめて、一時でも心が休まることを祈りながら。



◇◇◇


気流に、艦が大きく揺れる。珍しい事ではないが、今日は一段と気流が乱れていた。

管制上では問題ないレベルだそうだが、レイルにとっては地味に堪える。

「おっ、どうしたどうした副長殿。顔が真っ青だぞ」

「……職務に差し支えはありません」

「大丈夫ですか? 見るからに青いですよ。あっ、吐きそうならエチケット袋お渡ししておきましょうか?」

言いながら傍らのダンダリアンが差し出したのは、白手袋。どんな冗談のつもりかとじろりと睨めば、実に心配そうな視線が向けられていた。

どうやら本気らしい。つまり、ダンダリアン特有の天然が炸裂しただけなのだろう。

昨晩顔色一つ変えず、黙々と酒を飲み続けていたダンダリアンを思い出し、ため息が零れた。「気遣いは、結構。……それとそれは儀礼用の白手袋だ」

「え? うわわっ、すみませんっ」

くすくすと、ブリッジ内に小さな笑い声が響く。真っ赤になりながらポケットを漁るダンダリアンは、まだレイルへエチケット袋を差し出すことを諦めていないのだろう。飴玉ばかりが零れ落ちるポケットには、その存在は確認できない可能性が高かった。

「いい。構うな。本当に……ほっといてくれ……」

バルクがにやにやと楽しそうに笑っているのを黙殺しながら、レイルは眼鏡を指で押し上げる。

こみ上げる二日酔い特有の吐き気を飲み下しながら、気力で耐えていた。

今頃士官室でコーダとチハヤは夢の世界を彷徨っているに違いない。ノーゼンは貸された部屋で、残務処理をしているそうだ。

代わりに、レイルの中では最も不安なダンダリアンが航行中の調整担当としてブリッジに残されている。青一色の制服ばかりのブリッジに、ダンダリアンの海軍制服の白は鮮やかだった。

「でも意外です。俺、ラプェレ中尉は強いお酒でも涼しい顔して飲めるイメージだったんですけど、まさかエール一杯で寝ちゃうとは思わなくてですね」

「おー、おもしれーだろ。こいつクールぶってるけど超下戸だからな」「任務と無関係な会話に花を咲かせないでください艦長」

静かな怒気を込めた低い声で咎めるも、バルクは軽く肩をすくめるだけだった。その意は「今はやめるが、今後しない約束ではない」だ。

ダンダリアンは表情を引き攣らせていたので効果はあったようだが。

結局ノーゼンらの合流から四日も経っての出発となっていた。その間、毎夜基地の外を飲み歩いては朝に帰還し、目も虚ろなバルクに呆れつつも仕事をさせている日々がようやく一旦区切りを迎える。

最終日に『ウィールの海産物は旨いから話の土産に付き合え』というバルクに付き合ってしまったのは、失敗だった。

正直な所、レイルの記憶はほとんど残っていない。最早話の土産にすら出来ない失態だ。

腕時計を見やり、時刻確認をする。

「そー早くつかねーって。あと一時間はかかるってお前自分で報告したじゃねーか」

「時刻を確認しただけです」

「それに、可愛い可愛い嫁さんに会えるのはもっと後だ。落ち着けよ」

「ええっ、ラプェレ中尉ご結婚されてるんですか!」

声を上ずらせたダンダリアンに、レイルは頭まで痛くなってきた。ダンダリアンの反応が大きいのが、珍しく負荷に感じる。

そもそも情報が間違っていることから修正する必要があった。

「違います。ただの保護者で、その形を維持するためだけに、婚約者になってるだけです。時期が来たら、解消する間柄です」

「贅沢だ、贅沢。俺に寄越せ」

「成人したらご自由に。俺の役割は、成人までですから」

「いくつだっけか?」

「今年で十七です。来年、王立学校を卒業するまでが、俺の役割の時期です」

この国では十八で成人になる。以降は保護者などいらなくなる。そこまでが、レイルの課した自らの役割でもある。

あの日以来続いていた役割の終わりは、もうすぐそこにまで迫っているのだ。ようやく、肩の荷が下りる。反して、心は翳る。

「陸路の調整に、アイノ中佐の元へ行きますので、しばらく外します」

「あ、俺も同席します」

「おう。りょーかい。任した」 ひらっと手を振ったバルクに軽く一礼し、レイルはダンダリアンを無視して歩き出す。

数瞬遅れて追いかけてきたダンダリアンの気配を感じながら、レイルは黙々と歩を進める。

気分は最悪だ。とにかく早く地上に降りて、この上空特有の不安定な空間から解放されたい。普段はさして気にならない浮遊感が、今は吐き気を惹起しそうでたまらない。

「あのー……完全な興味で申し訳ないんですけど」

「なら聞くな」

ぴしゃりと跳ねのけたレイルに、ダンダリアンが息を飲むのを背中で感じた。

残念ながら、客人であるとはいえレイルにとってはただ不愉快な存在でしかない。とにかく神経に障る。艦は違えど同じ副長という立場がそう感じさせるに違いない。

「保護者でいるための婚約者って、なんか変じゃないですか?」

「お前は人の話を聞くつもりはあるのか?」

思わず足を止め、振り返ってダンダリアンを睨む。ダンダリアンは背筋を伸ばし、表情を引き攣らせた。顔に思いっきり「しまった」と書いてある。

ごくりと唾をのむダンダリアンにきっちりと威圧をかけて、再び歩き出そうとした刹那。

「アイノ艦長と、同じなのかなって思ったので」

「……は?」

眉を顰める。ダンダリアンの発言の意味が、理解できなかった。

レイルの困惑に緊張が幾分解けたのか、ダンダリアンは弱々しい笑顔を浮かべる。

「ほら、チハヤもコーダも、艦長には全然似てないでしょう?」

「……ああ」

似ていないどころか、どう見ても種族が違うだろう。人間ではない。この王国のある大陸ではほとんど見かけないが、獣の特徴を持つ『亜人種』と呼ばれる人種の類だろうとレイルは分析していた。

チハヤは猫のような黒い耳と尾を、コーダは羊のような角を持っている。だが、そんな亜人種のチハヤとコーダは、ノーゼンと同じアイノの姓を名乗っていた。

特段興味のない事柄であり、レイルは気にも留めていなかっただけの話だ。今ですら特に関心もない。

そんなレイルに、ダンダリアンは少し嬉しそうに笑う。

「ふたりとも、もちろん、艦長の兄弟じゃないんですよ。それに、二人も、兄妹でもなくて。でもき

っちり面倒見てるから、凄いなーって俺尊敬してるんですよね」

「何が言いたい」「ラプェレ中尉もきっと、口では素っ気ないこと言ってるけど、大事にしてるんだろうなって思った

だけです」

「保護者として当然の義務だ。それ以外の何物でもない。余計な感情は、あいつの為にならない」

「……そう、ですかね?」

不思議そうに、ダンダリアンは首を傾げる。

気持ちは、分からなくもない。チハヤやコーダの出自は、レイルは知らない。だが、何かしらの経緯を経て、ノーゼンの家族の元へ引き取られたのだろう。だとすれば、大事に育てるのは当然で。亜人と言えど、人権は確実にあるのだから。

それは、決定的にエコデとは違う。

ぎゅっと手を握りしめ、レイルはダンダリアンを静かに見据える。

「社会で生きるために必要な事を覚えるための環境を整えることが俺の役目だ。家族や兄弟になるつもりは毛頭ない」

「な、なんか徹底してますね」

「当たり前だ。甘やかして、社会に出した時にみっともないような奴に育ったら、それこそ恥だ。俺の失態になる。冗談じゃない」「作品みたいに、言わないでくださいよ……寂しくなるじゃないですか……」 眉尻を下げて、困った顔をするダンダリアンに、レイルは鼻を鳴らす。

あるいは、この話題で距離を縮めようとしたつもりだったのかもしれない。あては外れたようだが。

「そんな考えしか出来ない奴の所にいて、誰が喜ぶ。感情など、挟むべきじゃないんだ」

「……そうかもしれない、ですけど」

「少なくとも、俺は最近、あいつの笑った顔を見ていない」

それどころか、困った顔をしている。泣きそうになっている。あるいは、俯いて表情すら窺えない。 冷徹な自分を自覚しているレイルにとっては、納得できる反応だった。

エコデを安心させたり、笑える環境を作るのは、ロヴィの範疇だ。そうなれるよう、レイルはロヴィを育ててきたつもりなのだから。

「……俺は、傍にいるべき相手なんかじゃない。成人して、自立して、そうやって幸せになればいいんだよ、エコデは」

「え」

踵を返す。視線を外した瞬間の、ダンダリアンの驚きの表情は、先ほどと少し違った気もした。

だが、これ以上口を開けば想いが零れ落ちそうで。自制するために、レイルは歩き出す。 今までもずっとそうだ。

レイルが歩き続けた道は、ただロヴィとエコデの幸せを願いつづけたのだから。

どんな感情が募ろうとも、今更その道を違えることなど、できるわけがなかった。


◇◇◇

本日最後の授業の終了を知らせるチャイムが校内に響き渡った。以降は部活なり、あるいはすぐそこに迫った文化祭の準備なりで生徒が慌ただしく駆け出していく。下校する生徒の姿を眺めていたリリバスは、時計に目を向ける。

午後四時半。流石に、帰すべき時間だろう。午後一杯、エコデは結局眠ったままだった。

時折無事かどうか、そっとベッドを覗いてはいたが静かに眠っているようだった。あるいは、寝不足だったのかもしれない。

疲労からくる頭痛の可能性は捨てきれないものだ。ふうと息を吐き出し、反動をつけてリリバスは椅子から立ち上がった。

「さて。俺も帰りたいし、エコデ起こすか」 ひとまず帰り支度をしようと鞄を机の上に引っ張り出す。通信端末にメールが三件。マイヤからの定時連絡が入っていた。

定時連絡、すべきだろう。今保健室で休んでいるという事を。ただそれだけの話ではあるのだが。

(しっかし、何を調べろとも聞いてないしなぁ。……マイヤは知ってんのかな)

だとすれば自分はカムフラージュのようなものかもしれないのだ。そこまで気を張る必要はないだろう。もともと、気乗りしない仕事なのも助長する。

そもそも嘘に嘘を重ねて、ボロが出るのも怖い。定時連絡を渋る思考に、白衣のポケットに端末ごと手を突っ込む。悶々と考えていたリリバスの耳に、扉の開く音が聞こえた。

「失礼します。迎えに来ました」

「って今度は確か……」

「あれ? どうして貴方がここに居るんですか」

目を丸くしたのは、ロヴィだった。学生服に身を包んだその姿は、空軍制服の雰囲気とは異なり、年相応の子供らしさを感じさせる。

同型の鞄を二つ手にしているロヴィは首を傾げつつ、扉を後ろ手で閉める。一つはエコデの鞄に違いない。

「お名前、何でしたっけ」

「リリバス。えーっと、研修でさ……」

「へぇ、そうなんですか。大変ですね。あ、覚えているかもしれませんが、僕はロヴィです。あと… …そうですね、精々、監視対象だかなんだか分かりませんが、目標に感付かれないようにしてくださいね」

表情が凍る。にこりと明るい笑顔を向けたロヴィが、急激に怖くなる。

何も言わずとも、潜入ミッション中であることを見抜かれていた。軍人であるロヴィだからこそ、簡単にその答えに導けたのだろう。

背中に感じていた夕日の温度が急激に喪われていく。

「エコデ、来てるんでしょう? 連れて帰りますね」

「あ、ああ……」

「大丈夫ですよ。エコデはそういう軍事的な事は気付かないと思いますし。僕も言うつもりなんてあ

りませんから。ミッションの邪魔は、……基本は、しません」

基本は、を強調し、ロヴィは苦笑する。返す言葉が浮かばない。口を開けば、きっとボロが出る。

あるいはこの態度で、すでに悟られている可能性はゼロではない。 だがロヴィはリリバスの困惑を気にも留めず、エコデの眠っているベッドへと歩を進め、カーテンの内側へ消えて行った。

ロヴィは、帰宅してこのことを話すのだろうか。

絶対零度の瞳でレイルが押し掛けて、今度こそ頭蓋骨を粉砕されそうなイメージが易々と浮かび、背筋が寒くなる。

「あっ、あの」

不意の声に顔を上げると、申し訳なさそうな表情を浮かべたエコデと目が合う。両手を握りしめて、ぺこりと頭を下げる。

「すみませんっ、随分長くいてしまって、私……」

「あ。いや、頭痛はよくなったか?」

「はい……ごめんなさい……」

「謝る事ないって。ていうか、そのための保健室なんだからさ。またきつくなったらいつでも来いよ」

「……ありがとうございます」

ほっと表情をやわらげたエコデに、リリバスも安堵する。レイルと似ているせいか、必要以上に距離を取られている気がしてならないのだ。

もちろん勝手な分析ではあるのだが。

「それじゃ、失礼しますね」

「おー、ロヴィもたまには遊びに来ていいぞ」

「遊びにくるような場所ではないですけど、覚えておきます」

苦笑を返したロヴィは、軽く一礼すると視線でエコデを促した。

エコデは再度頭を下げて、ロヴィと共に保健室を後にする。その足取りは、来た時よりはしっかりとしているように見えた。

ぱたりと扉が閉まるのを確認して、リリバスは大きく息を吐き出す。

そして白衣のポケットから、通信端末を取り出した。

「……悪い、待たせた」

『構いません。しかし、賢明な判断ですね。意外でした』

滑り込むマイヤの声に、肩をすくめる。ロヴィがエコデを起こしにカーテンの向こうへ消えてすぐ、着信を知らせる振動が通信端末を握っていた手に伝わり、リリバスは咄嗟に通話ボタンを押した。拒否する事も出来たが、ほとんど反射的だ。

『正直、見直しましたよ』

「悪い。あんま考えてなかった。……聞こえてたのか?」

『いいえ、はっきりとは。それにしても、接触したならばそれなりの連絡をしていただかないと困ります』

「あー……、……それなんだけどさ、マイヤ」

ちらりと扉を窺う。しっかり閉ざされている。扉窓にも人影は写っていない。

それでもロヴィが聞いているのではないかと、思考の隅が警戒する。幾分声を抑えつつ、リリバスはずっと気になっていた点を問う。

「……何で、エコデを監視しなきゃいけないんだ?」

『そのことですか』

「だっておかしいだろ。ただの学生だぞ。今日なんて、頭痛いっていう普通の女子学生だったぞ」

『……前言を撤回してもいいでしょうか。やはり貴方は期待するだけ無駄ですね』

「なぁっ?!」

冷たく断言したマイヤ。何もそこまで言わなくても、と心の中で叫びつつ、リリバスはぐっと手を握りしめる。

ここでとやかく反論すれば、マイヤの機嫌をさらに損ねてそれこそ何も話してくれないだろう。『調べればわかると思いますが、貴方の場合、口を開けて餌を待つ雛鳥と思って答えておきます』

「どうも」

『戸籍が存在しないんですよ。彼女には。身分を証明するものが、あの時迎えに来たラプェレ中尉の保護対象としてだけです。その上、彼女の魔法適性データ確認しました?』

頷けるわけもなく。そもそも事前に調べる頭などリリバスには存在しなかった。

黙って続きを促すと、マイヤの小さなため息が画面越しに聞こえる。

『あれは、人間の枠を超えています。亜人種の可能性は否定できませんが、それでもおかしい』

「何が」

『……結論から言います。高等悪魔の擬態の可能性があります』

「は?」

『もしそれが確定したならば、我らのもう一つの使命を遂行しなければなりません。そのための調査であり、監視です。理解していただけましたか、ロタ中尉』 マイヤの言葉が、耳を素通りする。

高等悪魔。そんな言葉が、一番似合わない寂しげな笑顔が過ぎった。


◇◇◇

通話を切断し、マイヤは幾度目かのため息を一つ。

それを運転席で横目に見ていたギルは、苦笑を浮かべた。

「苦労するね、アカシア少尉」

「呆れたものです。何一つ事前情報を準備することなく任務に挑むとは」

やれやれ、とマイヤは頭を振る。ギルはジャケットの襟を正しながら、サングラスを外して胸ポケットに仕舞い込む。

王立学校入口からやや離れた路上で、下校途中の学生を見送っていた。

「彼らしいとは思うけどね。……まぁ、確証取りたいだけってのは大きい。外れならそれでよし。でも当たりだと」

「罰を受けるだけでしょう。それほど大きな罪には問われないとは思いますが。幸いと、危害を加えた形跡はないわけですし」

「本人のその後の身柄はどうなるやらだけどね」

「それは、私の範疇ではありません」

きっぱりと返したマイヤに、ギルは目線を下げる。

ハンドルに置いた手を無意味に見つめ、ぽつりと。

「……マイヤは、そういえばビタロの出身だっけね」

「それが、何か」

「いや。……そっか。だから特殊小隊志願したのか、って今更納得しただけだよ」

「偶然が重なっただけですよ」

「そう言う事にしておこうか。さて、じゃあ帰って報告しておこう。ロタ中尉には、きっと重荷だろうからね。適材適所だ」

「スティアード中尉は、少しロタ中尉に甘いです」 むっとした表情でマイヤは冷たく言い返した。

そうかな、と笑って、ギルはギアをパーキングからドライブへ替え、アクセルをゆっくりと踏み込む。加速を体に感じながら基地へと向かい出したギルに、マイヤはふと。

「……悪魔など、存在が許されるわけがないんです」

小声で零したマイヤに、ギルは何も返さなかった。それはマイヤの思いの一片で。それを否定することも肯定することも、ギルには出来ないことなのだから。

◇◇◇

レイルがようやく自宅に帰りついた時刻は、日付をまたごうとしていた。

着陸後の残務処理と、ノーゼンたちを宿泊場所までの案内等で、結局遅くまでかかってしまった。

それでも早く片付いた方だとは思うが、それでも日が変わる時間だ。

夕食も食べていないが、疲労感が強い。すぐにでも眠りたいとさえ思うほどだった。

無言で鍵を取り出し、努めてゆっくりと開錠する。流石にもう、寝ている時間だろう。就寝を妨げるわけにはいかなかった。

静かに扉を閉めて施錠を確認すると、レイルは真っ直ぐに伸びた廊下を進み、電気がついたままのリビングへ抜ける。途中に自室があるのだが、明かりがついたままというのは気になる。

平穏な日常の、自宅の匂い。自宅特有の安堵感に、レイルの体からも緊張感が抜けていく。

「……」

リビングに踏み込んで、レイルは思わず足を止めた。

微かに、体が強張る。軽く見開いた視線の先には、空色が見えた。

テーブルに伏せて、静かに寝息を立てているエコデ。肩にブランケットは羽織っていたが、半分ずり落ちている。

そしてその前には、ラップのかけられた晩御飯と思しき食事が一式揃っていた。曇ったラップの内側。時間の経過が、分かる。

まさか、待ってたのか?

過ぎった可能性を、レイルはすぐにも首を振って否定する。連絡はしておいたのだから可能性としては極めて低い。

ましてや、エコデが自分を待ってここにいたなど、有り得ない。そこまでしてくれるとは、到底思えない。そんな存在になれているなど、レイルの中にある幻想でしかない。

ぎゅっと口を引き結んで、レイルは眠るエコデへ歩み寄る。それでも足音にも気配にも気付かず、エコデは眠っていた。

実に安心しきった様子で寝息を立てるエコデに伸ばしかけた手を、脳裏に過った光景が阻害する。

手のひらを見ても、別段何かがあるわけではない。

それでも、この手は触れることは許されない手だった。

かつて、この手が犯そうとした罪は、形になくとも心にこびりつき、感覚を今でも思い出せる。

軋む心を奮い立たせ、レイルは重い口を開く。「……エコデ、起きろ。こんな所で寝てたら風邪をひく」

「ん……」

小さく呻いて、うっすらとエコデが瞳を開く。緩慢な仕草で、半分も開いていない目をレイルに向けた。

「ひゃっ!」

緑の瞳と視線が交錯した瞬間、小さな悲鳴と共にエコデは勢いよく椅子から立ち上がった。

「れっ、レイルさん! あ、あっ、えっと、おかえりなさい!」

「早く寝ろ。そもそも、帰りは遅くなると伝えただろう。食事もいらないと」

「でも、あの、その。……ロヴィも、食べて来るっていったの、で。……一人じゃその……、寂しい

から」

そろそろと視線を伏せ、言葉尻が徐々に弱くなっていくエコデの発言に、レイルは首を傾げた。

「もしかして、まだ食べてないのか」

「う……、……はい……」

「お前は……」

呆れられずにはいられなかった。帰宅が遅くなることも、食事が不要な旨もちゃんとメールを送った。返事もきちんとあったのだ。

分かりました、と端的ではあったが。それでもレイルはエコデがちゃんと了承したことを確認している。

どうやら現実は、違うようだったが。

「もしかしたら、久しぶりに一緒にご飯、食べれるかなって、思って……勝手に、しました」

「だが時間の限度もあるだろう。少しは考えろ。明日も学校だろう」

「それは……はい……」

「それに時間が時間だ。今更、食べられないだろう」

エコデは沈黙した。つまり肯定と受け取るべきだろう。レイルはひとつため息をついて、空いている椅子に鞄を置き、上着を脱いでかける。

困惑した顔で見つめるエコデの視線を、レイルは静かに見やった。

「お前はもう寝ろ」

「レイルさん、は?」

「俺は、食べてから寝る」

目を瞬かせるエコデから視線を外し、レイルはきっちり締めていたネクタイを緩めた。 食器に手を伸ばしかけた瞬間、ぱっとエコデが食器を手に取る。

「すぐ温めますからっ。待っててください!」

少しだけ嬉しそうに笑ったように見えた。キッチンに慌ただしく駆けていった姿に、レイルは見えないように、小さく息を吐き出す。

質素ながらも久しぶりの家庭の味に、少しだけ安堵しながら。


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