ディープブルー
飛鳥は透明のポリカーボネートでできたすっぽりと頭部を覆うヘルメットのハーネスを、顎下でナイロン製のワンタッチバックルを絞めて固定した。その表情はいささか暗い。
「何か不安でも?」
同様に身支度を整えたロビンが問いかける。
「いやそんなんじゃないんですが」
げんなりと振り返る飛鳥の後には、海面から突き出た黒に近いダークブルーの背びれ。
飛鳥の向ける視線に気づいたのか、背びれの持ち主はハンマーのような頭部を海面から持ち上げ、きゅう、と存外にかわいらしい声を上げた。
「その子ならもう大丈夫ですよ?骨折も無いようですし、打撲も治ってるはずです」
「ロビンさんが鐘木竜の治療ができるのもびっくりですがね」
治療にあたったのはこの場で唯一の医者のロビンだった。
「そこはゲームですから。リアルだと麻酔の効果の出方が違ったり薬品に対する耐性に差があったりすることもよくあるらしいですけど」
飛鳥と同じようにヘルメットをつけたロビンが治療を振り返った。
例えば、飼育施設の引っ越しの際に輸送中暴れないよう、海獣に鎮静剤を処方したら効きすぎてこん睡したまま死んでしまった、などという事故の事例もある。ロビンとしては治療薬の効果が適正かどうか不安を持っていたのだが、そこはゲーム的に融通してもらえたようであった。
「ま、ちょっと痕は残ったみたいだけど、それは勘弁ね」
顎竜の歯で傷付いたのであろうか、眼柄部に一本周囲とは色の違う傷跡がはしっている。手を伸ばしたロビンが、その傷跡を指先でつい、となぞった。鐘木竜はわずかに身をよじるが、そこに乱暴さはなく、ただくすぐったがっただけのように見えた。
「始めますか?飛鳥さん。今なら周囲はクリアです。大型の生き物の反応はありません」
そこに船上のメイフェアから声がかかった。
「うぃ。じゃあ、段々速度あげてきますんで。変化があったら教えてください」
飛鳥は沖へと振り向くと、一呼吸おいて泳ぎ出した。数m離れてロビンが追従し、更に鐘木竜も飛鳥を追って動き出した。
「楽しそうですねぇ。あの鐘木竜」
「そうですね。メイフェア様」
メイフェアとクオはその姿を船上から見送った。まだ速度に余裕があるからだろう。鐘木竜は一つジャンプした。
深度70mを超すと、街灯のない新月の夜のようなものだ。肉眼では完全に色彩を見分けることはできない。サーペントは視覚情報をカメラに頼っており、それはかなり高感度なのだが、天然光源たる太陽光は海上の0.1%まで減衰し、長波長光から先に海水に吸収されるためサーチライトの光源無しではブルーグレーのモノクロ映像しか得られない。
『色彩情報の補完を入れてみる?』
『うーん、このままの方が気分は出る気がするが』
アイリスの提案にムラは迷いを見せる。モノクロ画像のままだと距離感が不安になってくるので、色彩が補完できるのならばその方が安全には思えるが、現状も「潜水探査中でござい」という雰囲気があって楽しくもあった。
『だが、どうするんだ?短波長光しか届いてないんだ。色はサーチライト当てないとわからないんだろう?』
『うん、そうやって得た色情報をカメラ映像に合成して見るんだよ』
バズーの質問にアイリスが即答した。サーチライトが当たっている所の色彩をサンプルに色彩を推定、合成彩色処理をすることでカラー映像を作るわけだ。例えば大昔のモノクロ写真からカラー映像を再現するのに似ており、写真を嗜むバダーやバズーには説明を受ければ納得する程度にはわかりやすい。
『ムラさん、ここは気分よりも安全を取ろう』
バダーがムラを説得した。セサミオープナー専属テスターとしての経験上、未知の局面では情報はできるだけ多いほうがいいと思ったからだ。
『まあ、反論するほどの理由もないか。アイリス君、やってくれ』
『はいな。一瞬映像きれるから気を付けて』
今回持ち込んだサーペントはテスト機であり、各種設定をアイリス機からリモート操作できるよう作られている。これはテスト機だけの仕様で、生産型では外される予定の機能だ。直に身につけるスーツの設定を外部からいじるなど、よほどの信用が無いと受け入れられぬだろうし、完全にオミットしなければ悪用もあり得るのだ。
それはさておき、サーペント各機の視野が再びフルカラーとなる。
『海藻がないな』
『あれは違うのか?』
バダーの短い感想にバズーが水流に揺れるシダに似たものを指し示す。
『あれはああ見えても動物だ』
バダーが弟の誤りを正す。シダの枝に似た構造はプランクトンを捕食するための蝕腕だ。
『光が届かないからな。光合成ができない。この深度で生きる植物はないんだよ、バズー君』
ムラがさらに補足の解説を入れた。
『魚は割と普通?まだ深海魚でございって感じじゃないね』
『まだ100mにも達してないから、表層と言っていい深ささ』
目の前をよぎる魚群にアイリスが漏らした感想にもムラの解説が帰ってきた。
『詳しいな、ムラさん』
『予習したんだよ』
あっさりとしたムラの返答に、バダーは学者的だな、と感じたがそれは口には出さなかった。




