9.
僕は凭れかかっていた鉄棒から体を起こして、真っ直ぐ歩いてきたアオに正対した。少しの間、見つめ合う。
どこからともなく吹いてきた柔らかな風がざわざわと木々を揺らしたのを合図にしたように僕は単刀直入に話を始めた。
「アオ、ごめんね」
僕の言葉を聞くと彼女は軽く顔をしかめた。
「それってつまり、アオの告白に対して?」
「いや、この謝罪はそうじゃなくて」
訳がわからない、と言う風にアオは首を傾げる。決して目を逸らそうとはしないで真っ直ぐに僕を見つめる彼女に押し潰されそうになるけれど、息苦しさを我慢してなんとか声を出す。
「逃げた、こと」
一言、言ってしまえば考えなくても後から言葉は続いてきた。
「変わるのが怖くて、アオから逃げてたこと。本当は僕が弱いだけなのに、何かに責任を押し付けようとしたこと。取り敢えず、ごめん」
手のひらにかいた汗を握りしめながら発した言葉は、情けないことにも震えていた。僕は、どうしようもなく、弱い。
彼女は僕から目を離さないまま唐突に、ははっと乾いた笑い声を上げた。それから、そっかといつもの明るい声で言って再び口を閉じてしまった。その口は仄かな微笑みの形をしている。
決心はついたはずなのに。言葉にするのが怖い、辛い。ぐっと唇を噛む。心臓がどきどきとうるさい。心がずきずきと痛い。
一つ、息を吸う。
「アオ」
変えることの出来ない事実を空気にのせる。
「僕は架瑳が好きだ」
変えることの出来ない気持ちを伝える。
「あの雨の日、どうしようもなく恋に落ちてから、架瑳が好きなんだ」
その声はもう震えてなどいなかった。しっかりと、はっきりと伝えなければいけないことを伝える。
アオは動かない。体の横にそっと添えた手も、長い睫毛も、サンダルを履いた足も、微笑みの形をした唇も。微動だにしない。ただ時間だけが、規則正しく進んでいた。止まらない時を繋ぎ止めるように渇いた唇を嘗めた。
だから、と言葉を続けようとした時やっと彼女が動いた。視線を落とし指を後ろで組んでから小石を蹴るように足をつき出した。
「知ってるよ。答えなんて分かってた。“だから、アオの告白には応じられない”でしょう? 知ってたんだって」
小さく蹴り上げた足は重力に従って落ちていき、元あった場所に戻ってしまった。揃えた足の爪先をじっと見るように動かないアオはやっぱり仄かに笑っていた。
彼女はここにいない気がした。ここにいるのに、いなくて、何も伝わっていない気がする。言葉はいくらでも嘘で固めることが出来る。だからといって僕には彼女に何か伝えるために、言葉以外の方法を持ち合わせていないのだ。
「……うん、そう、そうなんだ……」
何を言えばいいのか、分からないままだった。彼女に伝えたいことは沢山あるのに、喉の奥でつっかえて上手く言葉ににならない。
不意に、アオの視線が戻ってきた。彼女の顔に浮かぶのは、今にも消えてしまいそうな、壊れてしまいそうな淡い微笑み。思わず目を逸らしてしまいそうになる。
ねぇ、と小さく彼女の唇が動く。
「ねぇ、深。本音を言ってもいいかな。ほんの十分でいいから」
そう言った声はまるでドラマや舞台の台詞のようにフィクションじみていた。偽物、嗚呼、完全なる偽物。
「……うん」
いいよ、なんて僕が許可を出すようなことでもない。僕はアオの本当の気持ちを、正直な言葉を聞くために今ここにいるのだから。
本当は、怖い。とても。それでもいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
時間は消えることなく降り積もっていくけれど、いつかは雪のように溶けて、大きな流れに加わっていく。受け止めるための猶予期間はもう十分な程に与えてもらった。進み出さなければいけない。
しっかりと見つめ合ってから、彼女はぽつりぽつりと話はじめた。
「キーホルダーは、なくしてなんていないよ。そんなわけないじゃん。深から貰ったのに。深も気づいてたよね。なんでそんな嘘ついたか、分かる?」
アオは尋ねるように首を傾げる。その件についてはいくら考えても検討もつかなかったが、黙っているのもいけないかと思い何か言おうと口を開いた。
「いいの」
しかしアオが言葉を発する方が早かった。どうやら彼女は僕に返答など期待していなかったようだ。
「あんなの、分かんなくていいの。アオにもよく分からない。何かあった? って聞かれて、誤魔化そうとしただけなんだけどね。今考えたら、ちょっとでも怒ってほしかったのかも」
「怒る?」
「そう。あれ深が誕生日にくれた物でしょ? だからなくしちゃったことを少しでもむっと思ってほしかった。後は、そうだな、気がついてほしかったから。アオのことを、理解していて欲しかったから。今考えてみると、すごく変。アオにも、アオのことが分からない」
彼女はそう言うと眉を下げてふふっと声を漏らして笑った。それから、気が付いたらその顔から笑みは消えていた。
「傘を借りてたのはおまじないみたいな物だった。深の大好きな傘を借りることができるって特別なことだと、アオは勝手に思ってた」
真剣な、鋭く尖った瞳に貫かれ、息をするのもままならなかった。気がつかれないように肺の中の空気を静かに吐き出す。
「昨日借りなかったのは、借りられなかったから。借りたくなかったから」
アオの言葉、一言々々が脳内に響く。それはただの断片であるにも関わらず全体が見えてしまうようであった。口調が、素振りが、瞳が。補正して追加して完全に近付けている。
そして僕はその時既に気がついていた。アオの変化に。声色が少しずつ変わってきていることに。彼女の声は微かに揺れている。
「多分、ただの意地。下らなくて、どうしようもない、意地」
きっと僕と同じだ。怖いんだ、結末に向かっていくことが。
「アオは架瑳と闘う資格もないの」
決定的だった。
泣いていた。彼女の瞳からは涙がほろほろと零れていた。それがつるりと頬を伝って顎に溜まっていき、限界に達したときキラリと光ってまるでスローモーションのように落ちていった。しかし落下した先は地面ではなかった。到達地点には両手のひらが用意されており、その上にぽたり、と。手の中で跳ね返り、また光る。そのまま顔を覆う。
決定的だ。
――僕は世界で一番彼女を救うことが出来ない。
手を伸ばしてもギリギリ届かない距離でアオは一人で泣いている。
ここまで来ても尚、やはり彼女を好きになれば良かったのではないかと考えずにはいられなかった。いくら考えたところで答えは出ないのに。あの倫理学の思考実験のように。正解は存在しないから、どうしようもない。
何をしたって彼女を救えない。ただ、悲しませることしかできない。
分かっていた。でも、それでもここに来たんだ。このまま傷付け続けることなんて出来ないから。これは、思考でも実験でもないんだ。紛れもない現実で、そして僕の人生なんだ。正解が無いのだとしても諦めてはいけない、考えることを。
手のひらで顔を覆ったまま彼女は大きく空を仰ぐ。はぁーっと深く息を吐き出す音が聞こえたと思うと乱暴に涙を拭って僕の方に向き直り、真っ直ぐな瞳が再び僕を見つめた。
「アオは青い傘の青でなければ、青空の青ですらないの、碧なの」
顔を大きく歪め、発する言葉は涙に濡れていた。見えない手によって首を絞められているように上手く呼吸が出来なかったけれど、無理矢理に声を出す。
「……そんなの、関係ないよ。そんなの――」
「分かってる」
低く、響くような声。それは僕を黙らせるのに十分な迫力を持っていた。
「無意味でしょ、無関係でしょ。知ってるよそんなの」
何も、言えなかった。そんな事僕に言われなくてもアオは理解している。彼女が一番分かっている。そんなことは、下らない偶然なんだって分かっている。
理解した上で無視しなかっただけ。
彼女は流れ続ける涙をもう一度乱暴に拭き取ってから、両手で頬をぱんぱんと叩いた。こちらに向いたアオの顔は穏やかで、最初は偽物なのかと疑った。しかし彼女の口から出た言葉は。
「好きだよ」
疑うのは馬鹿馬鹿しすぎた。
「昨日学校休んでベッドの中で一人でずっと考えてた。もうこのままじゃいけないって。だから告白した。どうしてもね、諦められなくて。でも、今日ここで、やめようと思う。深を好きなのをやめるのは、まだちょっと難しいけれど、取り敢えず、諦めてみる。……だから、これからも親友でいてほしい」
もう、彼女は泣いていなかった。淀みのない声は一直線に僕の耳に届き反響した。
アオは、伝えてくれた。これは彼女の本当の、本当の願いではないのだろう。それでも伝えてくれたその言葉は、きっと本心。泣いてはいけない。今度は僕の番。
「それは、僕の台詞だ。僕はアオの一番の親友でありたい」
そう言い終われば、僕達を静寂が取り巻く。どこかで車のクラクションの音が鳴り響いた。どこかで子供が泣いている。どこかで鳥が囀ずっている。
ここは二人だけの世界だ。
僕の言葉が彼女を傷付けるかもしれない。何度も悩んだけれどやっぱり、伝えたい言葉がある。お膳立てされた世界で僕は静かに口を開いた。
「アオの告白を聞いて、戸惑ったし困ったし悲しかったけど。それでも、やっぱり――」
拳を握り直す。唾を飲んでもう一度言葉を心の中で反芻してから、言葉にのせた。
「――嬉しかった。ありがとう、アオ」
アオは目を見開き潤んだ瞳を丸くした。
また一瞬顔を歪ませたけれど、それを振り払うように大きな微笑みを見せた。
「知ってた!」
満面の笑みで明るく元気な声で嬉しそうに、そう言った。つられて僕も微笑んで、ただ笑いあっていた。それは、端から見れば微笑ましい、平和的青春の一ページかもしれないが、僕はどちらかと言えば悲劇だと思う。今は、まだ。
未来に笑って語り合うことが出来ればいい。そうすることが出来るようになれば、それは既に思い出だ。今はまだ悲しい出来事でいい。
「深、頑張って」
「うん、頑張る」
もうこれ以上の言葉はいらない。僕達は、一歩進んで親友に戻る。
じゃあね、と綺麗な笑顔で立ち去ったアオを見えなくなるまで見つめていた。彼女はこの後泣くのかもしれない。考えたって仕様の無いことだった。
彼女を見送った後、僕は鎖の錆び付いたブランコに乗って暫く空を眺めていた。先程まで綺麗に晴れ渡っていた上空にはいつの間にか雲の塊が押し寄せていた。風に流され、ゆっくりと、でも確実に。
僕はブランコから小さく飛ぶようにして降りてから、銀色に鈍く光る車止めをすり抜けて公園を出た。
また今日も雨が降るのかもしれない。昨日の予報では降水確率50%だったが、今日は新聞もテレビニュースも見ていない。人一倍天気を気にする僕でも流石に今日はそこまで気が回らなかった。
その時の。僕の心中は驚くほどに穏やかだった。清々しく、自分に正直であった。もう躊躇わない、迷わない。
言うべき言葉も伝えるべき気持ちも、あまりにシンプルで明瞭であるから逆に難しいかもしれない。それでもやはりアオに背中を強く押されたのだから、行かないわけにはいかないじゃないか。
向かう先は決まっていた。