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雨の日に恋慕  作者: 早瀬 夏樹
8/11

8.

 今日が土曜日だということに気が付いたのは翌朝目が覚めてからだった。

 昨晩よく寝られなかったせいかひどく頭が重く、なかなかベッドから体を起こすことができなかった。はっきりと覚醒しない、ぼんやりした時間を経てから枕に顔を埋めながら見上げれば、去年福引きで当てたシンプルなアナログ時計の針は丁度11時を指し示していた。階下に降りれば両親からの小言の一つや二つがあっても言い時間帯である。少々の説教は覚悟しつつ無理やりベッドから這い出ようとしたその時、盛大な音を立てて扉が開かれた。

「深くん! 早く起きないとお母さんたち帰ってきて怒られちゃうよ!」

 寝不足の頭に我が妹の喧しい声が響いた。当たり前だが、朝は既にパジャマから着替えており、今は淡いピンクのロングTシャツにチェック柄のキュロットという出で立ちをしていた。

「……帰ってくるって、どっか行ってるの?」

「買い物。1時間ちょっと前に出たからそろそろ帰ってきちゃうよ!」

 のっそりとベッドから起き上がった僕は部屋に何時までも居座ろうとした朝を退散させて、引き出しを開いた一番上にあった服に着替えた。黒の薄手のパーカーに何の味気もないジーンズ。靴下は履こうか迷ったけれど面倒臭かったから止めた。突然誰かが訪ねてきたとしても一応は大丈夫な格好ではあるだろう。

 寝ぼけ眼を擦りながら一階に降り、洗面所に寄ってからリビングに入るとソファーに寝転がってバラエティー番組に腹を抱えて笑っている朝を発見する。彼女のこの天真爛漫な性格は嫌いではないのだが、こういう時、本当に兄妹なのかと疑ってしまう。僕は台所の引き出しにあったいつくかのパンの中から適当に一つ選んだ。どうやらメロンパンだったらしい。

 すっかりソファーを占領していた朝を右半分に追いやってから僕も隣に座りテレビに目を遣った。

「そういや、テストどうだったの?」

 パンのビニール包装を破りながら聞いた。テストは今週の水曜日で終わったはずなので二日間は授業を行ったことになる。恐らく主要教科の結果は返ってきているだろう。

 僕の質問に朝は、わざとらしく「ぎくり」と言って顔を反らした。

「いやね、頑張ったんだけどね、頑張ったんだよ?」

 あははと言いながら遠い目をする彼女の隣でやっぱりねとメロンパンを頬張る。外はさっくり、中はふんわり。

「特に数学が悲惨だったよ……」

 どうやら彼女はやはり僕の妹のようだ。

 まさか一番からあんな問題が出るなんて思ってなかったし、三番なんてあの引っかけはないよ! あとあそこでケアレスミスしなければなぁ、とか何とか。彼女の言い訳じみたぼやきを聞いている間にメロンパンはすっかり僕の胃袋の中に収まってしまっていた。

 ふぅ、と一呼吸置く。

 朝にテストの話を振ったのは、彼女の弁解を聞くためじゃなくて。

「そういえばさ、現代文の話はどうなったの?」

 ここに繋げたかったから。

「現代文……ああ、船の話?」

「そうそう」

 別に、単刀直入に言っても良かったんだろうけど、何か取っ掛かりが欲しかった。

「どうなったって……どうもなってないけど」

 朝はきょとんとしている。どうもなっていない。聞き方が悪かったのか。

「え、まだ授業終わってないの?」

「いや。船の話は終わったよ?」

「それじゃあ、あの問いに対する模範回答、みたいなのは?」

 少しずつ、早口になっていくのが自覚できた。ぐっと握った手のひらにはいつの間にか汗が滲んでいる。

「模範回答? そんなのなかったけど」

 それが、当たり前なのだと、世界の常識なのだと言うように朝は簡単に言ってのけた。予想外の返答に驚きを隠せなかった。

 だって普通授業でやるんだったら、例え抽象的であれ正解が用意されているじゃないか。

「元々単元と単元の繋ぎの話だったし。そんなにがっつり取り組んでないっていうか……」

 朝の話は殆ど耳に入っては来なかった。何故かソファーの黒い小さなシミが異様に気になっていた。

 そうか、あの話には答えなんて元々なかったのか。それ以前に問いが、間違っているんだ。だから、答えなんて出るわけがない。端的にいって僕は絶望していた。教科書に出せない答えを果たして僕が出すことが出来るのか。

 大切な人のどちらかを選んでも、自分を犠牲にしても、両方正解で両方不正解なのだ。

 テレビから流れる笑い声がいやに大きく響いていた。そんな、どうでもよい事ばかりを気にする視覚と聴覚は突然朝の声によって覚醒させられた。

「あのさ、深くんが何をそんなに問題視してるのかは分からないんだけど。とにかく、何か悩んでるんでしょう?」

 驚いて朝の方を見た。

 嗚呼、泣きそうだ。僕の涙腺はいつの間にこんなにも緩くなってしまったのだろうか。

 いつもの朝からは想像出来ない、穏やかで抱きしめるような声と表情で彼女は言葉を続けた。

「それでさ、深くんは一番正しい答えを見つけたくて、間違えることのない教科書に頼ってるんじゃないかな。いや、それが全てではないんだよね、分かってる、分かってる。でも……でもさ、人生において大切なことは教科書になんて載ってないと思うよ? 人の愛し方も人の救い方も。だから、自分が傷付くのを恐れちゃいけないよ」

 彼女はそれだけ言うと、にへへといつものようにふざけた笑みを浮かべてから、照れ臭そうに頭を掻きながら「あ、命の救い方なら載ってるか」と気がついたように付け足した。

 ――すごい。

 本当に、すごい。この言葉以外ではとてもじゃないけど表すことなんて出来ない。朝はすごい。

 もう無理だ、と思って立ち上がった。

「二階で勉強するわ」

「え、あー頑張って」

 普段と変わらないタイミング、リズムで歩いて、扉を開けた。

「ありがとう」

 折角我慢していたのに。

 涙声になりながら、お礼を一つ言って扉を閉めた。

 廊下に出れば、リビングから漏れてくるテレビの笑い声が扉一枚を越えて微かに聞こえてきてはいたものの、そこは確かにしんと静まりかえっていた。ひたひたと足音をさせフローリングの冷たさを足の裏で感じながら、わざとゆっくりと歩いた。階段を踏みしめるように上がれば正面にいつものように僕の部屋が待ち受ける。

 そこから、少し記憶が飛んだ。

 気が付いた時にはベッドに潜り込み丸くなっていた。一粒の涙がほろりと頬を滑り落ちたと思うとそれを追うようにして次から次へと雫が落ちた。それがシーツに落ちてじわりと滲む。泣いているのだと、自覚してから鼻の奥がじんとする感覚に襲われた。ぽた、ぽた。涙の落ちる音だけがいやに丸まった布団の中で響く。

 一階の朝にも、お隣さんにも決して聞こえることがないように。誰にも届かないように。嗚咽を必死に堪えて、泣いた。

 瞳からは止めどなく涙が流れ落ち鼻水をすする余裕もなかった。押さえようとしてもダムが決壊したみたいに涙は止まらなくて、後から悲しい感情がふつふつと沸いてきた。

 悲しい、苦しい、やるせない。うまく息が出来ない。混沌が、胸の奥に詰まってる。それがじわしわと僕を侵食し、広がっていく。やっぱり、悲しい。

 それでも、取り敢えず。彼女に謝らなくてはならない。

 考えなくても分かってた。彼女は、例えば僕にもあり得てしまうような、そんな最悪な結末を迎えたのだ。架瑳に気になっている人がいるのではないのかと、好きな人がいるのではないかと――ここに限らず前の高校に、という可能性もある――出来る限りの考えないようにしていたが、やはりいつでも心のどこかで蟠っていた。それが現実のものとなる。どれ程のものか、どれ程の辛いことか、今の僕になら少しだけ理解出来たのだと思う。なのに、それなのに。曖昧な態度で彼女を深く傷つけた。僕の選んだ選択肢は最低で最悪なものだったのかもしれない。そんな風に今頃気付いたところで。

 ――ごめんね、アオ。

 こんなものじゃないでしょう。これじゃあ全然足りないでしょう。それでも、ごめん。ごめんね。

 徐々に声を押さえることが難しくなり、嗚咽が布団の中で反響し自分の耳に届いた。例え最初より泣き声の音量が上がったとしても聞こえるのは精々廊下までだろう。これ以上ボリュームが上がらないように注意しながらも心の中で謝り続けた。

 こんなものに何の意味もない。どうしようもなく無意味だ。分かってる、それでも。

 ――ごめん、ごめん。

 何度も何度も謝罪の言葉を繰り返すうちにいつの間にか涙は止まっていた。目尻に溜まっていた涙を袖で乱暴に拭ってからベッドからのっそりと起き出す。

 こんなに泣くのは記憶に有る限りでは初めてで、今自分の顔がどんな風になっているかは検討がつかなかったけれど、自室には鏡という物がないので確かめようがない。ともかくこの顔で両親に会うのは不味いだろうと思い、学習机の上に置いておいた携帯電話をジーンズのポケットに突っ込んでからに洗面所へ向かった。既に両親は帰宅しており、どうやら朝と共にリビングにいるらしい。

 洗面所に入ると、現在の顔の悲惨さを確認するのも忘れて蛇口から流れ出てきた冷水を両手で掬っては顔に打ちつけた。やっと鏡で自分の顔と対面したときには、目が少し腫れていたもののほぼ普段と変わらない顔つきになっていた。

 ふわふわの洗いたてタオルで顔を優しく叩くようにして拭いたあと、いつもと変わらない様子を心がけてリビングに入り、朝の挨拶――実際は昼を回っていたが、一応形式的に――をしてからソファーに座る朝の隣に腰を掛ける。テレビ画面には先程とは違うバラエティー番組が写し出されている。

 両親はダイニングの方にある普段食事を食べるテーブルの方についていた。

 僕は何気ない仕草でポケットからするりと携帯を取りだし、慣れた手つきでメール作成画面を立ち上げた。宛先に名前を入れてただ一言書いて送った。

『今から会えない?』

 返信はほんの数分で返ってきた。

『いいよ』

 僕は画面を見つめ、携帯を握る手に少しだけ力を加える。待ち合わせ場所を指定してから、立ち上がり再び携帯をジーンズのポケットに押し込んだ。

「ちょっと出掛けてくる」

 両親にそう告げると彼らはテレビに夢中のようで、目線は固定されたまま、わかったとだけ返事を返した。

「深くん」

 リビングから出ようとする僕を引き止めたのはシンプルに僕を呼ぶ、朝の声。

「がんばれ」

 ――彼女は。彼女はどこまで理解しているのだろうか。何でも知っているような錯覚を起こすけれど、きっと何も知らないのだろう。知らなくても、僕が一番求めているものを知っているのだろう。

 あら、戦いにでもいくの? とあながち的外れでもないことを母が言うのを横目に僕は何も言わずに退出した。一度自室に戻り靴下を履いてから家を出る。

 空には真っ白な雲が漂っており、いやになるほど晴れわたっていた。透き通るような淡い水色を仰いでから歩き出す。

 ――好きだよ。友達じゃなくて――

 ――何で、ちゃんと見てあげないの。アオと向き合わないの。私を真正面から見つめてくれたみたいに、どうしてアオに出来ないの――

 ――人生において大切なことは教科書になんて載ってないと思うよ? 人の愛し方も人の救い方も。だから、自分が傷付くのを恐れちゃいけないよ――

 甦る言葉たちが僕の背中を強く押す。

 言うべき言葉は見つからないけど、伝えるべき気持ちは知っている。本当は、ずっと前から知っていた。



 待ち合わせ場所に指定した僕の家から徒歩五分の、ブランコと鉄棒があるだけの小さな公園に辿り着いたがまだ彼女の姿は見当たらない。ここの公園は酷く狭い上に遊具が少ないので普段から余り人気(にんき)がないのだが、お昼時の今の時間帯はさらに人気(ひとけ)がないようで土曜日だというのに人っ子一人見当たらなかった。

 僕はペンキの剥げた鉄棒に寄りかかりながら告げるべき言葉を探していたが、見つからないうちに彼女が道の向こうからゆっくりとした歩調で現れた。

 淡い青色の、可愛らしいレースがあしらわれた半袖のワンピース。ふわりと揺れる肩までの茶色い髪の毛。混沌を知る瞳。

「やあ、深」

「やあ、アオ」

 例え見つからなかったとしても、それでも、選んで伝えなければならない。



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