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雨の日に恋慕  作者: 早瀬 夏樹
7/11

7.

 久しぶりに学校に行きたくないと思った。このままうやむやになってしまえばいいのに、とさえ思う。もやもやとした不安の塊は新しい朝を迎えても僕の内側から出ていく様子はなく、それに圧迫された気管の通路は狭まって上手に息をすることが出来ない。

 重く動かない体を無理矢理起こして、何とか登校した。青い空に浮かんだフィクションじみて真っ白な雲は僕を無視してゆっくりと流れていった。

 まだ梅雨明けは発表されていないが、雨の降る頻度は確実に減少していた。梅雨が明ければ夏がくる。とにかく暑くて、暑くて暑くて、僕の二番目に嫌いな季節がくる。寒いのはもっと嫌いだから。

 本日の降水確率80%。きっと雨が降るだろう。今日が、勝負なんだと思う。

朝、即ち今、雨は降っていない。そしてこれから雨が降る。帰宅するとき雨が降っているだろう。

 その時、僕には恐怖しかなかった。何に対する恐怖かは分からないが、とにかく、怖い。

 やっとのことで教室の前にたどり着き、目を閉じて一度ゆっくりと深呼吸する。回りの喧騒は映画やドラマのBGMのように僕を包み込んでいた。扉に掛けた震える手に恐る恐る力を入れて、開く。冷たい扉はいつもよりずっしりと重く感じた。

 恐れながらもそうっと目を開けると、昨日までと何一つ変わらない日常がそこには当然の様にあった。当たり前だ。彼らは何も知らないのだから。

 問題は、そう、彼女だ。彼女は既に自分の席についており窓の外をぼうっと眺めているようだった。意を決して歩を進める。彼女の席が徐々に近づいてくる。どうしよう声をかけるべきか、いや、素通りは不味いだろう、しかし、でも。一人で勝手に混乱しながら着実に進んでいく。心臓は大きく暴れ、額には変な汗が滲んだ。緊張が絶頂に達した時。

「あ、おはよー」

 いつもの声がした。

「あ。お、おはよう」

 戸惑いながらも何とか返事をする。余りにも普段通りのアオに拍子抜けした。安心した、というより寧ろ肩透かしをくらったような気分だ。ぐっと握った指先は驚くほどに冷たかった。

「よう、深。おはよー」

 右隣の彼からも声が掛かった。まだ思考の整理が出来ないままに、晴太にもアオと同じようにおはようと小さく返答した。彼はどうやら課題をやっていたようで、数学のノートと参考書が机の上に乱雑に広げられていた。彼は手に持っていたシャープペンシルをノートの上に置き、こちらにスムーズに方向転換してから机に肘をついた。

「なんだ、元気ないな。いや、元からか」

 晴太は僕の変化に目敏く気付いたが瞬時に自分なりの答えを出してしまい、それより、と話を転換させた。

「春木、風邪は大丈夫なのか?」

 彼はアオに視線を遣りながら尋ねる。僕はその隙にリュックを机の左側に掛けて、着席した。

「うん、もう元気すぎるくらい。アオは一日あればどんな風邪も治しちゃうから」

 得意気な顔をして言う彼女に、晴太はそんなわけないだろ、と至極真っ当なツッコミを入れていた。僕がなんとなく、その輪の中に入れずにいると「おはよう」と包み込むような優しい声が鼓膜を揺らした。振り向かなくたって分かる。架瑳だ。

 声のした方向を見れば予想通りの人物が、最近やっと見慣れてきた笑顔を浮かべて立っていた。今日の登校時間は普段より五分程早い。僕達三人はほぼ一斉に挨拶を返す。

 すると何の前振りもなくアオが立ち上がり、僕と晴太の間を何か吹っ切れたような顔をして通り架瑳の横に立った。

 その様子を見て、何の根拠もなく焦った。

「架瑳、ちょっといい?」

 いつものトーンで淀みなく話す彼女。

「ん、何?」

「あー、ちょっと廊下いい?」

「なんだなんだ。俺らは聞いちゃいけないお話か」

 晴太が愉快そうに顔を歪ませながら口を挟む。何がそんなに面白いのか僕には分からない。

「そうだよ。女の子の秘密の話。男子禁制なんだよ」

 アオも晴太と同じような笑顔をわざとらしく顔に張り付けていた。

「じゃあ架瑳、行こうか」

 アオは架瑳の手を取って半ば強引に席から立たせて、後ろの扉から教室を出ていった。その時の軽快な足取りもやはり、僕には何故か偽物じみて見えた。どこか空元気でわざとらしい。僕はそれを呆然と眺めていることしか出来なかった。晴太は女の子の秘密って響きがいいよね、と呟きながら再びシャープペンシルを手に取って数学の課題を始めた。

 僕は机に右肘をついて段々と怪しくなる雲行きを眺めながら考える。

このままでいいのか。まるで何も無かったかのように振る舞い続けて、いつか記憶の彼方に消えていくことを待っていて、いいのか。いや、いいはずがないんだ。そんなこと分かっている。分かっているけれど、決着をつけなければいけないのだけれど。

 このままでいたいのだと、臆病な心が叫ぶ。

 何故だか分からないけれど涙が出そうだった。無性に泣きたかった。

 僕が彼女を愛すことが出来れば良かったのだろうか。馬鹿げた考えだがそう思わずにはいられなかった。でも、僕の気持ちはどうしようもなく変わらない。昔も今も、そして――未来も。

 確実なものではないのかもしれない。それでも変わらないのだと、心のどこかにそんな確信がある。

 これは僕の意思で変えられる類いのものではない。僕が水野深であるように、彼女が沖津架瑳であるように、また彼女が春木碧であるように。そんな風に決まりきった物なのだと思う。

 何が正解なのだろうか。どのような行動をとるのがベストなのだろうか。僕にはとてもじゃないけど解答は出せそうにない。誰か、誰か。

 唐突に、架瑳が僕の左側の視界に入った。慌てて振り向くとどうやら女の子の秘密の話とやらは終わったようだ。気になるのは架瑳の表情。なんだろう、何とも形容しがたい、苦しいような、痛いような、悔しいような。取り敢えず良い心情でないのは分かる。僕の訝しげな視線に気がついたのか、彼女は取り繕うように美しく笑みを浮かべた。

 だから、何も聞けなかった。困ったように微笑んでくれれば、もしくは悲痛な表情を続けてくれれば、何か問いかけることが出来たのだろう。無理矢理にでも綺麗に笑うから。

 もっと、もっと彼女に近づきたいと、こんな状況で望むの僕は無神経で残酷なのだろう。

 窓の向こうの太陽を遮る雲はますます厚くなり、照明は殆ど蛍光灯の頼りない光のみとなってしまった。



 4限目の情報が終わり、コンピュータ室から帰ってきたタイミング。

「今日の昼は他クラスの人と集まるから二人でお弁当食べなよ」

 そんな風にアオはさらりと言ってのけた。

 机の中に教科書を仕舞っていた手を、思わずとめる。

 僕はどんな顔をしてこの言葉を受け止めればいいのだろうか。自分の顔を見ることは出来ないが考えている間はきっと、ひどく困ったような表情だっただろう。架瑳の方を盗み見ると不思議なことに彼女もどうすれば良いのかという風に困惑した様子だった。視線はゆるゆると宙を舞い、指で細く柔らかそうな髪の毛を弄っていた。「分かったよ」

 それでも彼女の口から発せられた言葉ははっきりとしていた。

 アオはそれを聞くと大層嬉しそうににこりと笑って頷いた。そして僕の横を掠めたと思うと、小さな、小さな声で呟いた。

 ――そんな顔しないでよ。

 ああ本当に。本当に、僕はどうすればいいのだろうか。早い内にはっきりとけじめをつけなければ、余計に彼女を悲しませる。でも、どうしても。アオの泣き顔なんて見たくないんだ。僕は余りに無力だ。一人の女の子の悲しみを取り除くことさえできない。


「深、どこで食べる?」

 走り去っていくアオの背中を何も出来ずに見送る僕に、隣に立つ架瑳は遠慮がちに声をかけた。僕は教科書を机の奥までしっかりと押し込みながら答える。

「……テラスで食べようか。天候も何とかもちそうだし」

 なんとなく、ここにいたくなかった。何処かへ歩き出したかった。彼女と二人きりになりたかった。

「うん、いいよ」

 移動中は僕も架瑳もどこか上の空でまともな会話はなかった。授業疲れたね、うん。早く帰りたいね、そうだね。雨降りそうだね、ああ。そんな、ありふれた、どこの世界にでもあるような定型的な会話を交互に繰り返して、一言の返答で満足し合っていた。

 テラスに辿り着くと席は殆どが空いており、生徒は数えるほどしかいなかった。僕たちは人を避けるように周りに誰もいない席を選んだ。

 食事中も大した会話はなく、あまりに薄っぺらで言った端から消えていくような言葉をひたすらに紡いでいた。まともな、僕と架瑳だけの世界の会話が生まれたのはそれから15分以上経った後、丁度昼飯を食べ終えた時だった。

「あのさぁ、深」

 その呼び掛けは僅かな緊張を孕んでいた。何気なく、といった口調でも、声色は若干上ずっていてリズムは微妙に早かった。彼女は意を決したようにゆっくりと口を開く。

「あの、深はさぁ、好きな女の子とかいる?」

 ――何かが、ぷつりと、切れた気がした。

 今、何て言った?

 深は、好きな女の子、いる。

 架瑳の口から吐き出された“好き”と言う単語に、緊張の糸のような何かが、確かに切れた。

 嗚呼、何だか全てがどうでもいい。

「架瑳だよ」

 無意識のうちに、口から出ていた。

 架瑳は湿り気を帯びた目を見開いて微かに頬を朱に染め、「え」と一言漏らして固まってしまった。僕はたっぷり10秒は思考して、やっと事の重大さに気が付いた。

「い、いや、今のは……」

 違うんだ、と言おうとした。しかし、言えなかった。それ以上、声を発することさえできなかった。

「なに、それ」

 先ほどまでの表情は、綺麗さっぱり消えていた。怒りが、占領している。この約10秒の間に何があったのかは分からない。

「アオは、どうするの」

「え」

 何を言っているのかが分からなかった。

「告白、されたんでしょ」

 嘘だ。分かってた。

「まだ、答えてないんでしょ」

 何故彼女がそのことを知っているのか、考えてみればすぐに思い当たった。今朝の呼び出しだ。

 ――そこで、普段はまともな活動も見せない僕の脳みそが今日に限って、無駄に働いた。

 アオと架瑳、双方の言動を総合して考えて、ある結論にたどり着く。すごく、すごく嬉しいのに、何故今なんだろう。

 勘違いでなければ。

 架瑳はきっと――。

 いいや、今考えるべきことはそれじゃない。怒りの表情を緩めない彼女に正対する。

「うん、まだ返事をしていない」

 口から出た声はひどく頼りなく、小さく震えていた。情けない。

「何で、ちゃんと見てあげないの。アオと向き合わないの。私を真正面から見つめてくれたみたいに、どうしてアオに出来ないの」

 顔は怒っているのに、瞳も声も泣いているようだった。

「その告白は受け取れない」

 それだけきっぱりと言い残して、彼女は立ち去ってしまった。

 ――向き合う。

 向き合っているつもりなんだよ。だけど、どれだけ探したって答えはないんだよ。

 断るしかないんだよ。でも彼女を悲しませたくないんだ。言葉にすれば、残酷なほどに事実を突き付けてしまうから。

 もう一度、考えて考えて、考えてみたけれど、駄目だ、と思って立ち上がった。道が、一本しかない。

 分かってる、道は一本しかないんだ。何て、情けない。

 取り敢えず、教室に入ってから、机に伏せて動かない架瑳と放送室から帰ってきて隣の席の友達と談話するアオの間の席に戻るのが辛かったと言うだけだ。

 それから暫くして降り始めた雨もいつもなら嬉しくて堪らないのに今日は僕を憂鬱にするしかなかった。

 今日は、やっぱり最悪だ。





 アオが僕に傘を借りることはなかった。



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