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雨の日に恋慕  作者: 早瀬 夏樹
6/11

6.

 息を吸う。鼻からゆっくりと、苦しくなるのをちょっと我慢して。胸に雨の匂いが充満しているのを感じながらほんの一瞬息を止め、それから溜め息をつくように一度に吐き出す。

 雨の日のその行為が、ちょっと素敵すぎるのではないかと僕は思う。きっと誰にも伝わらないけれど。

「ほら、また幸せが逃げるよ」

 隣を歩いていた架瑳は差した青い傘をくるりと回した。彼女のローファーが濡れた地面を踏みしめ、ぱしゃりと水が跳ねる。

「別に今のは溜め息じゃないよ。ただの呼吸」

 その水滴を避けるように小さくジャンプする。またぱしゃりと跳ねる。

「私には溜め息にしか聞こえなかったけど?」

 そう言う架瑳の声はどこか楽しげであった。もしかしたら僕の声にも隠しきれない喜びが表れているのかもしれない。もういっそ、伝わってしまえばいいとも思う。いや、やっぱり困るかな。

 今日はいくら雨に濡れても構わないと思った。架瑳は僕より傘を上手に使っていて、制服も鞄もほとんど濡れていない。

 やっとアオの家に辿り着いたときその差は歴然としていた。門をくぐって玄関で傘を閉じると同時に、架瑳は眉を下げて、深、濡れすぎだよと笑った。彼女の言う通り、ズボンは色の違いがはっきりと見てとれるほど湿っていた。リュックの中からタオルを取り出して、軽く拭いて、それからやっと扉の隣にあるインターホンを鳴らす。

 直ぐに、はいと返答があった。アオの声とアオの母親の声はよく似ているので、その声の主が誰だったのか判断は出来なかったが取り敢えず、水野ですとはっきり答えた。扉の向こうから微かに足音が聞こえたと思うと、ガチャリと扉が開いた。

「あ、深……と、架瑳」

 出てきたのはジャージ姿のアオだった。

 その時の、彼女の表情を、何と形容したらいいのか。

 簡単に言ってしまえば、プラス、マイナス、プラス、みたいな。

 きらきらした瞳が飛び込んで来たと思えば、一瞬、ほんの一瞬だけ深い影が差してまた瞳に光が戻ったようであった。あまりに早すぎる変化に僕でさえもついていけなくなりそうだったのだから、きっと架瑳は気づいていないだろう。

「アオ、大丈夫? プリント届けに来たんだけど」

 僕はその不思議な現象には触れずに、伝えるべきことを口にする。

「ああ、もうピンピンだよ。絶好調、絶好調」

 そう笑うアオの顔色はいつもと変わらず、その言葉は事実であることを物語っている。

「あ、うち上がる?てか上がってってよ。今日暇で仕方なかったから何か話聞かせてよ」

 いつもより若干饒舌なアオに多少の違和感を覚える。

「じゃあ、少しだけ。架瑳はどうする?」

「私はこれから用事があるから……ごめんね」

 架瑳はすまなそうにそう言うと体に気をつけてね、と言い残して真っ青な傘を差して足早に帰っていった。

 僕はアオに催促されて廊下の奥に進んでいく。扉を開ければ見慣れた光景が広がる。左手にダイニングキッチン右手にはリビングがあり、大きめのテレビと、その正面にはオレンジのクッションが乗ったシンプルな白いソファーが置いてある。散らかされた様子はなく、雑誌ははみ出ることなく本棚に納められ、部屋の角には観葉植物が置いてある。まるでカタログのようなそれは僕が覚えている限り3年ほど前から変わっていない。

 何か飲む? とアオは尋ねてくれたけれど、病み上がりの彼女に無理をさせるわけにはいかないので断っておいた。ソファーに座って鞄からアオに渡すべきものを取り出す。担任から預かったプリントと表紙に『英語Ⅱ 2年D組春木アオ』と書かれたノート。明日の授業で英語は予習が必要なので今日教師から返却されたノートを一応届けておくことにしたのだ。予習していなくても休んでいたアオが咎められることはないだろうが。

「はい、これ」

「ありがとう。ノートとプリント……あー、教科選択か……」

 彼女は、苦笑いをしてプリントを受け取り、ダイニングキッチンの方にあるテーブルの上にそれを滑らせてから、僕の隣に腰を下ろした。

 特にどちらかが口を開くわけでもなく、気まずい沈黙が訪れる。普段は例え双方が黙っていたとしても気まずくなんてならないのだけれど、今日は何故だか、空気が違った。その表現が正しいのかわからないけれどとにかく今まで感じたことのない異様な空気が、僕たち二人の間には流れていた。原因はわからない。

 そこで、ふとあるものが頭に浮かんだ。何の脈絡もなく。

 先送りにしていた問題ともいえるが、いや、僕は彼女にそのことを尋ねるつもりはなかったわけだで、だがしかし不思議なことに猛烈に今、問わなければならない気がして仕方がないのだ。

「ねぇ、アオ」

「……ん、何」

 微妙なタイムラグ。反応の遅れ。

「あのキーホルダーは、見つかった?」

 アオの肩が微かに揺れて、涙の匂いがした。焦って彼女の顔を覗きこむけれど、その頬は濡れてなどいなかった。

「まだだよ。どこにもないの。でもね、アオが一生懸命探せば出てくる気もするし、その努力は水の泡になる気もするから、捜索活動は一時中断してたの」

 どこにもないわけないのに。無くしてすらいないのに。

「そろそろ、はっきりさせようかと思って」

 彼女は眉を下げて困ったように笑う。彼女の言葉の意味が分からない。まるで現代文の小説を読んでいる気分だ。なんとなく、共感はできるけれどその人の意図や思いを上手く言葉にできない。他人に説明できないということはつまり、自分の中でよく理解できていないという意味なのである。そう、そんな感じで彼女が分からない。胸のあたりがぐるぐるしてもやもやして頭の中はごちゃごちゃで、思考することさえも苦痛になる。段々気分が悪くなってきた。

 そして僕は諦めた。

「うん、そうなんだ」

 何の疑問を投げ掛けるでもなく、彼女の言葉を否定するわけでもなく、ただ肯定して受け流した。 結論を出すことを諦めた。

 アオは何の返事もしなかった。とてもじゃないけど彼女の方を見ることが出来なくて、ただ空を見つめていたから彼女がどんな表情だったかなんて見当もつかない。知りたくもない。

 最近、アオの意図が理解できなくて、考えを汲み取る事ができなくて、もどかしくて、イライラして。以前なら彼女が自分から意思を僕に伝えてくれていたけど、上手くいかない。昔のままではいられない。

「……そろそろ帰ろうかな」

 重苦しい空気に耐えられなくなって立ち上がる。

「そっか」

 まるで表面張力でなんとか溢れずに済んでいるコップに張った水のような、そんな不安定な雰囲気のまま手荷物を持ち、先程来た道を戻っていく。アオも何も言わずに後ろから着いてきた。玄関をくぐり、それじゃと言うと彼女は口元だけ微笑んで、ばいばいと力なく呟いた。

 黒い金属の門を開き敷地内から出ようとしたとき、再びアオの声が鼓膜を揺らした。

「深……」

 空耳かと思いながらも振り返ると。それは、それはそれは悲しそうな、悔しそうな、怒り出しそうな、負の感情をめいいっぱい詰め込んだ表情のアオが、ゆっくりと口を開けていた。

「好きだよ」

「……え?」

「友達じゃなくて」

 彼女はそれだけ言って固く冷たい扉を音を立てて閉めてしまった。はっきりと、ではないけれど聞こえた。

 彼女が何と言ったのか。

 彼女が何を言ったのか。

 ふと、郵便受けが目に止まった。そこには春木家全員の名前が連なっていた。混乱した脳はただ文字だけを読み取る。

 春木 貴碩、おそらく父親の名だろう。緑、これは母親の名だ。そして残るは――碧。

 そう、彼女の名前だ。

 ――アオは青空みたいに純粋じゃないもの。ちょっと不純物を含んだ青。その輝きは宝石みたいにチープなんだ――

 彼女の言葉の意味が、少しだけ分かる気がする。

 そして、もうひとつ。彼女がノートに名前を漢字で書かない理由が、分かる気がする。

 碧――光沢のある玉のような石、青い色の美しい石。

 青空のように純粋でない、宝石のような、チープな輝き。

 それはきっとそんな下らない理由。そんな、無関係でどうしようもない理由。

 まともに思考も出来なかった僕は、家に辿り着いたときびしょびしょに濡れていた。玄関で遭遇した朝に、深くんどうしたの!? と動揺されたが返答することは出来なかった。

 そのまま雪崩れ込むようにして自室に戻り、ベッドに飛び込んだ。

 もう、何も、考えたくない。

 でもそんな訳にはいかないんだ。



 ――あれはいつのことだったか、正確に思い出すことは出来ない。アオが半袖を着ていたような気がするから多分夏だろう。僕の家のリビングだということはよく覚えてる。

「ねえ、深は雨が好きなんだよね」

 彼女は今より少しだけ長い髪の毛を揺らす。

「そうだよ、今更?」

 その頃のアオも僕が雨好きなことくらい知っていただろう。何故彼女がこんな質問をしたのかが不思議でたまらなかった。

「いや、知ってたけど。それじゃあ、晴れは好きじゃないの?」

「そんなことないよ。大好きだよ」

 このタイミングで何か飲み物を飲んだ気がする。たぶん麦茶か何かだろう。

「晴れの日の青空も、傘や雨に負けず劣らず綺麗だから」

「じゃあなんで雨好きだけを公言してるの。青い空も好きだよーって言えばいいのに」

 そうだ、確かこれは小学校中学年の頃だ。アオが着ていたブルーのワンピースが思い浮かぶ。彼女がこれを好んで着ていたのはその頃だった。

 そして、僕は彼女の質問に淀みなく答えた。

「一つに決めた方がかっこいいじゃないか。あれもこれもって欲張りは良くないよ。そして僕は青い傘の方が圧倒的に好きだ」

 何とも微笑ましい回答。今の僕にこんな返答が出来るかちょっとわからない。

 問題は、次の質問。

「じゃあ、宝石は?」

「え?」

 突然の話の飛躍についていけなかった。

「ほら、サファイアとかあるじゃん。青い宝石」

 少しまくし立てるようになるアオを今の僕なら容易に想像が出来る。

「ああ、そういうこと。そうだな、嫌いじゃないけど、好きではない、かな」

「……どうして?」

「ああいうのって安っぽく見えるから。いや勿論それ自体はすごく高価なんだろうけど。……きっと僕の基準は、どうしようもないくらい青い傘なんだよ」

 悲しいアオの表情も、今の僕なら容易に想像が出来る。

彼 女の気持ちを100%理解することは出来ない。それでも、少しだけ、ほんの少しだけ分かった気がするのは、只の自惚れなのだろうか。

 明けない夜はない。当然のように朝は来た。


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