5.
自覚したからといって、それを言葉や行動に移せるわけではなくて。
あれから2週間経った今でも勿論告白なんて出来るわけがなかった。ただ、アオと架瑳と、三人で居ることが多くなったことは進歩と呼んでいいはずだ。
世の中には何年も片思いを続ける人もいるらしいので、その人達にとってはきっと2週間なんてなんでもないものなのだろうが、僕には嫌になるほど長い2週間だった。なんと言っても、架瑳はモテる。友人との会話を聞く限り彼女に恋人はいないらしいが、見るもの全てを魅了すると言っても過言ではないほどの美貌を持つ物腰の優しい彼女がこれから男子の目に止まらないはずがない。男の嫉妬は醜い、と言われるが、そんなものはしょうがない。自分の感情をコントロール出来るほど僕は大人じゃないから。
「よお、深。なんか喋るの久しぶりだな」
僕が悶々と悩んでいると、いきなり右隣から声がかかった。
「あ、ああ。晴太。そうだね」
声の主は隣の席の、室井晴太という男子生徒であった。5月の中旬に行われた席替えで今の席になり、それから1ヶ月以上“お隣さん”をやっている。最初の席替えは生徒が先生を何度も急かしていたが、今となってはもうどうでも良くなっているらしい。もしかしたら1年間この席のままかもしれない。いや、席替えのことはどうでもよくて。室井晴太について、だった。彼は、一言で言えば“クラスの中心人物”である。学級委員を務めており、どこのクラスにも一人はいるであろう明るく、面倒見のよいしっかり者だ。僕のように若干クラスから浮いている――別に友達がいないわけではないが、誰とも気さくに話せるタイプの人間ではないので、友達を選んでしまうためだと思う――僕を放って置けないらしく、よく話しかけてくれる。僕も彼はどちらかと言えば好きなので話すのは楽しい。故に、 クラスの中では比較的仲のよい方だ。
彼は“久しぶり”と言ったけれど、3日ほど前に会話したような気がする。返事をしてから思い出しても仕方がない。
「そういえば今日、春木はどうしたんだ?」
晴太は短く切り揃えられた黒髪をかき分けるように頭をがりがりと掻きながらアオの席を一瞥して言った。
「今日休みだって。昨日僕が傘貸してあげたのに、なぜか雨に打たれて風邪引いたんだってさ」
晴太は僕の話を聞くと、ははっと声を上げて楽しそうに笑った。
「相変わらず春木は面白い奴だな」
彼は一頻り笑うと、椅子に横に座り直してから至極鷹揚に足を組み膝に肘をつく。それから、まるで今思い付いたというように「ん、そういえば」と呟いた。
「何で春木はいっつも深から傘を借りてんだ? あいつ、降水確率100%でも朝、雨が降ってなかったら傘持ってこねぇよな」
「そうなんだよね。アオには学習能力がないのかと疑っている」
僕はわざと眉間に皺をよせ、顎に手を当てて、ポーズをつくった。
「成績優秀な春木を捕まえてそれを言うか。それには何か理由があるのかと俺は疑っている」
晴太は先程の僕の言葉の使い方や配置を真似するように言う。
「……理由?」
「そう。さらにそれは、誰にも言えない、オンナノコの秘密ってやつ? じゃないのか?」
晴太は男子にしては大きな瞳を歪ませ自然に口許を緩めながら、ふふふと不気味な笑いをわざとらしく漏らした。理解不能なあの行動に理由があるとは到底思えないけれど。
「アオは不思議な娘だからね。よくわからないよ」
「……不思議くんがそれを言うか」
晴太が“不思議くん”とか何とか呟いたけれどよく聞き取れなかった。まあ僕には関係ないだろう。僕は果てしなく普通な男子なんだから。
「そういえば、架瑳も来てないな」
晴太の“架瑳”と言う単語に反応してしまう。僕の意思とは関係なく心臓は一度大きく跳ねて自然と視線は架瑳の席を向いた。いつまでもこんなんじゃいけないなぁとは思うけれど不可抗力が働くのだからどうしようもない。
「架瑳はいつも来るの遅いからね」
意識して落ち着いた声を出す。
「そうか。じゃあこれから来るのかもな」
架瑳は転入当初は割と早めに登校していたのだが、日に日に遅くなって今ではチャイムぎりぎりに教室に着くようになった。
「それにしても架瑳って可愛いよなぁ」
晴太が同意を求めるように言うが、僕は固まる。深く考えないうちに思ったことを口に出してしまう。
「え、もしかして、架瑳のことが……」
「は? いやいや、そういうつもりで言ったんじゃなくて、ただの一般論」
最後まで言う前に遮られ、笑い飛ばされてしまった。
「ああ、成る程」
密かに胸を撫で下ろす。クラス内で気楽に雑談できる男子を敵にまわしたくはない。なにより他の男子が架瑳を見ていると言うことが面白くないのだ。すると晴太はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「もしや深の方こそ、そういうのなんじゃないかい?」
思わず呼吸をするのを忘れた。バレないように気をつけていたのに、何故か見抜かれてしまった。何故だろう、何故だろう。いや、そんなことより誤魔化さなければ。
「……そういうのって、どういうのだよ。僕は何も……」
「いやいや、全くもって誤魔化せてないけど」
またしても途中で遮られる。
「好きなんだねぇ。甘酸っぱいねぇ。青春だねぇ」
晴太は満面の笑みを浮かべながら、つらつらと恥ずかしい言葉を並べていった。
「いやいや……だから、違うくて」
僕の最後の抵抗は意味を為していないようで、その言葉を彼は無視して、うんうんとわざとらしく頷いている。
「まあ、架瑳は可愛いもんねぇ」
からかうように言う晴太に腹をくくって質問してみる。
「……やっぱり、晴太もそう思う?」
「ん? 何が?」
「だから、架瑳が可愛いとか美人とか」
晴太は頭を掻きながら、ううんと短く唸った。
「まあ、頭一つ抜けて可愛いと思うけど。クラスで一番ってレベルかなぁ。学年でも……まあトップクラスだとは思うけど」
予想よりも低評価だったことに拍子抜けする。町内一と言っていいのかと思っていたけれど。どうやら見るもの全てを魅了すると言うのは言い過ぎだったようだ。
「そんなものなのか」
「そんなものかな。もちろん可愛いのには変わりないんだけど。ほら、3組の白神さんとか5組の向井さんとかが専ら学年トップと言われてるかな。ファンクラブもあるみたいだし。その内、架瑳のファンクラブも出来るさ」
どちらも知らない名前だ。まあ僕は顔は広くないので不思議でも何でもないのだが。それにしてもファンクラブと言うものが実在していたとは知らなかった。あれはフィクションの中だけのものではなかったのか。ただ、最後の部分は聞き流せない。架瑳のファンクラブが出来るだなんて、絶対に嫌だ。
「まあ好きな娘だから余計可愛くみえるんじゃない? ……っと、噂をすればなんとやらだ」
教室の前方の扉が音を立てて開き、噂をしていた彼女が入ってきた。あと1、2分でチャイムが鳴ってしまうだろう。
「まあ、好きってことなら、外見なんて関係ないんじゃない?」
架瑳が友人と挨拶を交わしている間にポツリと晴太が言い残した。
その言葉が、なんとなく、引っ掛かった。
僕は架瑳に一目惚れしたんだ。なら、外見が好きなのか? 一体僕は彼女のどこを好きになったのだろうか。
「深、おはよう」
気がつくと架瑳は目の前に立っており、いつもと変わらぬ眩しい笑顔を振り撒いていた。
「ああ……おはよ」
架瑳は顔だけ晴太の方に向けて、「室井くんもおはよ」と言った。
「俺は深のついでかい。まあいいや。おはよー」
晴太は苦笑いで、語尾を伸ばし返答をする。丁度そのとき聞き慣れたチャイム音が鳴り響き、生徒達はゆっくりと自分の席へ向かう。架瑳も後ろの席へ着席する。 どうやら今日の欠席者はアオだけのようだ。
僕は中断された脳内の議論を再開させる。僕は架瑳のどこが好きなのか。もちろん、性格も顔も、その考え方も、この二週間で知った全てが好きだけれど好きになったのは初めて会った時なのだ。つまり僕はそれほど架瑳について詳しくなかった。いや、殆んど何も知らなかったのだ。ただ、釘付けになるほどの美しい外見をしていること。また、真っ青な傘を持っていたので気が合いそうだということ。それだけしか知らなかった。
今架瑳を好きだということは、声を大にして言える。僕は架瑳が好きだ。
では、どこが? なにも知らない状態でなぜ恋に落ちたのか?
いや、昔のことは関係ないのでは? 今、架瑳のことを知っていて、それで好きならいいのでは? では、僕はどれ程彼女について知っている?
好きな音楽は? 好きな季節は? 朝食はパン派? ご飯派? 心動かされる物って何? どんな物を見て、綺麗だと感じる? どんな物を見て、涙を流す?
僕はどれ程彼女について知っている?
それなりに彼女と会話を重ねてきたけれど、きっと今もあの時とそれ程変わっていない。これから彼女の知らない部分を知って、それでも好きでいられるのか? 僕は何を知ったら彼女を好きでいられなくなるのだろう。
ああ、頭がこんがらがってきた。僕は何をこんなにも問題視しているんだっけ? 論点を見失ってしまった。
少し開いた窓の隙間から不意に夏の匂いをした風が吹き込んできて我に返る。初夏特有の生暖かいのに爽やかで、すっと背筋が延びるような気持ちの良い風。前を見るとすでに担任は教卓の向こう側に立っており、連絡事項を伝えていた。全く聞いていなかったから、誰かに教えてもらおう。
僕の視界には嫌でもぽっかりと空いたアオの席が入ってくる。ああ、じゃあ僕はアオのことをどれだけ知っているというのだろう。少なくとも架瑳よりは知っている。しかしアオに恋愛感情を抱くことはない。知っているからといって、愛さなければいけないわけではない。知らないからといって愛してはいけないわけではない。そういうことにしておこう。論点はぶれ、最重要な点は霞んでしまったけれど僕に今すぐ出せる結論なんてこんなものだ。
聞き慣れた声で「水野」と僕の名前が呼ばれたのは、思考の海から脱出した丁度その時だった。教室の前方から担任が僕の席に近づいて来ていた。いつの間にか朝礼は終わっていたらしい。話を聞いてなかったことや号令の時に立たなかったことがバレたのかと内心ヒヤヒヤしていたが、それは全くの検討違いだった。
「春木が今日風邪で休んでるからこのプリントを届けてやってくれないか。ちょっと急ぎなんだ」
彼は、すっと一枚のザラ紙を差し出して言った。
「あ、はい。分かりました」
ほっとしながらプリントを受け取った。クリアファイルにそのまま入れるにはちょっと大きなその紙を二つに折ってから、ぐしゃぐしゃにならないように注意してからファイルに挟む。
「ねぇ、深」
席着くと後ろから愛しい声が聞こえてきたので、「なに?」と振り返る。
「アオ、休みなの? 大丈夫かな」
彼女は至極心配そうな、不安そうな表情を浮かべている。
「大丈夫だよ。只の風邪だから。熱はそんなに高くないみたいだし。そうだ、一緒にお見舞い行く?」
架瑳は、うんと深く頷く。心配そうな表情は拭い切れないものの、少しだけ安堵の感情も見てとれた。
――ああ、僕は彼女のこういう所が好きなんだ。只の風邪でも、友達を本気で心配してしまうような所が。もちろん、それはほんの一部でしかないのだけど。
それに僕だってアオを心配していないという訳では断じてない。そこは大事なことなので、しっかり主張しておく。
「ああ、でも今日用事があるからちょっと顔見せたらすぐに帰らなきゃいけないんだけど……いいよね?」
再び顔を曇らせて、上目使いで尋ねてくるから。
「も、勿論」
きっとその仕草も無意識なんだろうけどなぁ。不謹慎なのは分かっているけれど、照れずにはいられない。
「あ、そういえば今日は部活ないの?」
あれから架瑳は一通り悩んだ後やはり放送部へ入部することにしたらしい。一週間ほど前に、アオが架瑳と肩を組んで僕のところに「ふふふ、架瑳は我が放送部の一員になったのだ」と報告に来た。半ば強制的に肩を組まれた架瑳は少々戸惑った表情だったが、それと一緒に浮かべられた笑顔は紛れもなく本物であったので特にアオを咎めることもなく、そうなんだと形式的な返答をしておいた。
目の前の架瑳もあの日と同じように本物の笑顔を浮かべる。
「いや、活動はあるけど。用事があるから休むって部長には伝えてあるよ」
そっか、と言おうとして口を開いたときにチャイムが鳴った。まだ授業の準備をしていないことに気がついて急いで机の中から教科書とノートを取り出す。
不意に、カタカタと風が窓を叩いたので空を見上げてみる。梅雨が明けきらない空はネズミ色に塗りつぶされ、どんよりと淀んでいた。
アオは今何をしているのだろうか。
僕と彼女の距離、約2キロ。声はどうやったって届かない。
僕と彼女の距離、約50センチ。耳をすませば囁きだって聞き取れる。