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雨の日に恋慕  作者: 早瀬 夏樹
4/11

4.


 翌朝はアオが言っていたように、雨が降った。早朝から降っているので今日アオが傘を忘れることはないだろう。湿気に濡れた廊下を上履きで歩けば、時々甲高いスキール音が響く。自分のクラスの前までやってくると、いつものように静かに扉を横にスライドした。教室に一歩足を踏み入れた僕の目に飛び込んできたのは、架瑳とアオが仲良さげに談笑している姿だった。

 一瞬、混乱する。

 え? いつの間に仲良くなったんだ?

 いつまでも教室の入り口で立ち止まっている訳にもいかず、足に力を入れて自分の席、つまりは架瑳とアオの元へ向かう。アオは僕の席に座って後ろを向いていた。

 ぶつからないように机と机の間を器用に通っていると、前を向いていた架瑳が僕に気がついた。

「あ、おはよう、水野くん」

 アオも振り向いて、「おー、おはよ」と言う。

「おはよう。ええと、二人はいつの間に仲良くなったの?」

「気の合う女の子が仲良くなるのに時間はかからないものだよ」

 架瑳は長い髪をさらりとかき揚げて、楽しそうに笑った。

「あ、そうなんだ……」

 なんとなく納得のいかないが、取り敢えず曖昧な返答をしながら、背負っていたリュックを机に置いた。

「そんなことより、架瑳。深のことを水野くんなんて呼ばなくていいよ。深でいいよ。ねぇ、深」

 アオは僕に肯定を求めるように、微笑みかけた。いつの間にか架瑳を呼び捨てにしている。

「ああ、別にいいけど……」

「そう?じゃあ次から深って呼ばせてもらうよ」

 架瑳は真っ直ぐに僕を見つめてきた。僕も彼女の純粋で美しい瞳を見つめ返す。このまま時が止まればいいとさえ思ったが、それは叶わず無情にもチャイムが鳴った。

「あ、鳴った。そういえば一限目は数学だね」

 アオがげんなりさせるようなことを言ってから、自分の席に戻る。

担任が教室に入ってきて、いつもと同じように朝のホームルームが始まった。

 じめじめした空気を振り払うようにはあっと大きくため息をつくけれど、この後に待ち構えている数学のことを考えると憂鬱な気分はより一層深まった。雨は好きだけれど、雨の日の湿気に満ちた空気を好きになることは出来ない。雰囲気、とかそういう意味ではなく空気そのものを。

 不快指数は急上昇。

 雨の中、傘をさして立っていたい。それなら、湿度の高さなんて、気にならないのに。ずっとそうやって過ごしていたい。

 叶わない夢を諦めるために、もう一度深いため息をつく。

「そんなにため息ついてると幸せが逃げるよ」

 ふわりといい香りが漂ったかと思うと、架瑳の声が耳元で小さく響いた。

心臓は過去に例を見ないほど跳ね上がる。

 ただ単に吃驚したのと、架瑳に囁かれたことにより、ドクドクと心音が聞こえてくるくらい緊張していた。感づかれないように平静を装って、前を向いたまま返事をする。

「ため息と一緒に幸せが逃げていくなら、僕の回りは幸せで一杯だね」

 架瑳は、声を押し殺したように、クスクスと笑い「じゃあ、深のそばにいれば、幸せが貰える訳だ」と言う。

 僕も小さく微笑んでから「そうかもね」と返答した。確かに僕の回りにには幸せな空気が取り巻いている。ため息と一緒に吐き出された幸せに、感謝。

 いつの間にか担任からの連絡伝達は終わっており、学級委員の号令がかかり、慌てて席を立つ。別に立たなくても教師に気がつかれることはないと思うけれど。

 そのあと一時間目が始まり、話をきちんと聞いているかは別として、真面目に板書を写していると授業の中盤くらいに前から机の上に紙片が送られてきた。綺麗に四つ折されたノートの切れ端をそっと手にとって開く。そこには見慣れた字で『今日昼休憩、用事あるから。カサと弁当でも食べれば~(笑)』と書かれてあった。

 アオはよくこのように授業中、手紙を回してくる。他愛もない話題から比較的重要な話題まで、その内容は様々だ。何時でも直接話せるのに、と僕はいつも言うが、何故か彼女は辞めようとしない。今日も例によってこの手紙が回ってきたわけだ。昼に何かあるらしい。部活か、委員会の用事だろうか。考えたけれど分からなかったから、紙片に『わかった』とだけ書いて前に返した。

 それにしても最後の文は余計だ。架瑳は隣の席の笹木さんとも仲良くなっているらしいし、僕が誘っても迷惑かもしれない。なんて自虐的なことを考えてみる。少し息苦しくなるけれど、この苦しさも悪くない。

 彼女に関する感情に嫌悪を抱く種類のものはない。全く。

 さあっと雨が遠退く音がした。 そろそろ授業に意識を戻さなければ、と思い視線を黒板にやろうとしたその時、不意に、前席に座るアオのスカートのポケットからはみ出した緑色の紐が視界に入った。瞬間、血液が逆流したような嫌な感覚に襲われる。

 まさか、まさか。

 紐の先には、見覚えのある石がついている。虹色に、なんとなく不気味に輝いていた。どうやら、嫌な予感は当たってしまったらしい。

 アオは、キーホルダーなんか無くして、いない。

 なぜ、嘘をついたのだろう。きっと誤魔化すため。僕に知られたくない何かを誤魔化すために嘘をついたんだ。

 アオは基本的に嘘をつかない。長年一緒にいる僕でさえ、嘘をつかれた記憶がない。――ただ単に気がつかなかっただけかもしれないが。

 そのアオが、他でもない僕に嘘をついた。そこまでして隠したかった何か。僕には到底分からない、考えるのはよそう。彼女が隠したがっているのなら僕が詮索してはいけない。

 遠ざかったと思った雨音は再び強く地面を打ち付け始めた。降りしきる雨のせいで、前が見えない。



 昼下がりの上空には雨雲なんてなくて、朝の出来事は夢のような気さえする。

 嗚呼。

 今、目の前には架瑳がいて、色とりどりの弁当を机に広げている。

 嗚呼。

 しっかりと、噛み締める。極上の幸せを。

 昼休憩、僕は架瑳と二人で例のテラスにいた。

 雨は3限目の終わりには止んでしまって、今では雲の間から青空が見えている。テラスの机と椅子は、ベニヤ板で作られた簡素な屋根の下にある濡れていない数個の内から適当に選んだ。

「そういえば、架瑳は昨日何部に見学に行ったの?」

「ん?ああ、放送部」

 架瑳は弁当に向けていた目を持ち上げて、僕の方を見た。かちっと音をたてて目が合う。でも、僕はもう以前のような気まずさは感じなくなっていた。むしろ、架瑳の瞳に入り込むように、でも悟られないように出来る限り 自然に、見つめる。

「え、放送部って……アオと一緒だね」

「うん、そう」

 架瑳はブロッコリーを箸で持ち上げながら頷いた。お弁当の中はすでに空になりかけていて、あとは卵焼きが残るのみとなっている。僕の昼食はすでに終了しており、購買で買ったパンが入っていた紙の袋は綺麗に折り畳まれ、お茶のペットボトルの下敷きになっている。

「放送部に入るの?」

「そうかもね、只今考え中」

 架瑳はそう言ったあと最後の卵焼きをポイッと口のなかに放り込んだ。もぐもぐ、と十数回咀嚼し、飲み込んだあと何故かニヤリと笑った。

「なにか不都合なことでも?」

「……え、いや。別にそういうのはないんだけど」

 ただ、予想外なだけだ。架瑳が放送部に、というより、アオと同じ部活に入ることは何故だか上手く想像できない。

 架瑳は、ははと笑う。透き通るような瞳がきらきらと光る。彼女の瞳は限りなく純粋に近い。すかんと奥までよく透き通っている。真っ青な空とか傘とか、あとはビー玉に川のせせらぎとか。そんな物を連想させる。

「ねぇ」

 架瑳に声を掛けられて、はっとした。じっと瞳を見つめてしまっていた。しまったしまった。でも、目を逸らそうという気にはならなくてそのまま「なに?」と聞いた。

「深は目を逸らさないよね」

 たった今意識していたことを指摘され、少し動揺する。

「え、普通のことじゃない?」

 悟られないように、いつものトーンを意識して話す。

「普通、なのかな」

 架瑳は憂いの感じられる微笑みを浮かべた。

「私にとっては普通じゃないかも」

「……ええと、なんで? って聞いてもいいのかな?」

 架瑳の笑みの種類が変わり、眉を下げて吹き出すように笑った。彼女は、笑いに連動するように揺れる長い髪を右手でそっと掬って耳にかける。

「そういう風に聞くのは狡いよ」

「……ごめん」

「いや、それが深のいいところだよ」

 どういう意味だろうか。分からなかったけれど、何故か尋ねることができなかった。

 架瑳は空になった弁当箱を丁寧に片付けながら、いつもより少し低い声で話し始めた。

「会ったばかりの深に話すのは変かな、と思うけど……。深とは仲良くやっていきたいと思ってるし、なんて、言い訳じみるけど」

 “仲良くやっていきたい”という台詞に敏感に反応してしまう。友達として、だ。分かってる。分かってるけど溢れてくる期待を自分でコントロールするには、僕は幼すぎる。

 架瑳は僕の葛藤など気づいていない様子で――気付かれても困るのだけど――話を続けた。

「とにかく。私とちゃんと目を合わせて会話してくれる人ってなかなかいないのよね。全くいないわけじゃないのよ。ちゃんとこっちを見てくれる人もいる。でもね、なんか自分を見てくれてないっていうか……ううん、意味わかんないよね。ごめん」

 困ったように俯いた彼女の横顔は哀愁に満ちていた。僕が救ってあげられればと思うけれど難しいだろう。難しいからといって諦めるつもりはないが。

「いや、なんとなく、わかる気がする。でもそういう意味の“目を合わさない”なら、他の人もそうなんじゃないかな」

「そうなのかな。でもやたら目を逸らされるんだよね。それって結構傷付く」

「その人達の気持ちも分からなくもないけど……」

「え、それどういう意味?」

 架瑳は焦ったように身を乗り出し僕の方に顔を近付けた。白く、肌荒れなんて一切みうけられない顔がぐんと接近し、ふわりと良い薫りがして心臓が跳ねた。

「いや、あの」

 どういう意味、と聞かれても答えにくい。というか恥ずかしい。しかし不安そうな大きな瞳に見つめられ、黙っているわけにはいけないと腹をくくった。

「ああ……、だから。架瑳は、綺麗、だからね……」

 だんだんと声のボリュームは下がっていく。それに反比例するように体温が上がっていくのが分かった。ああもう恥ずかしい。

 架瑳の方を覗くように見ると、口をぽかんと開けたまま硬直していた。  ゆっくりと口の形が変化していったかと思えば、力の抜けた、えとへの間みたいな声を洩らす。この間、僕はとにかく緊張していた。ひたすら架瑳のアクションを待つしかなく、いやに張りつめた空気に耐えきれなくなりそうだ。手には汗をかき、いつの間にか下唇を強く噛んでいた。色々な事が限界に達しそうになったときにやっと彼女が反応を見せた。

 架瑳は照れ臭そうに頬を掻きながら、すとんと椅子に腰をおろした。

「いや、いやいやいや。綺麗とか……なにいっちゃってるの、ははは」

 視線はふらふらと落ち着かず、そわそわしている。彼女の動揺している様子を見ていると何故だか僕の方は落ち着いてきた。

「誰もが思うことだと思うよ」

 追い討ちをかければ、架瑳はむむむと低く唸ってから、頬をほんのり朱に染めて、小さな声で「そりゃどうも」と言った。

 ――ほら。

 こんなにも彼女が好きなのに、どうしてこの気持ちが失われてしまうのだろうか。こんなに大切なのに、どうして無くしてしまのだろうか。絶対にないと、言い切ることができる。きっと証明するのは、とてもとても大変で、僕の人生を懸けるだけでは足りないかもしれない。でも、だからこそ、ずっと傍にいて証明し続けたい。

 僕が黙っていると架瑳はこの空気に耐えられなくなったのか、慌てたように口を開く。

「ええ、っと!ああ、もう教室に帰らなきゃね!」

 架瑳はお弁当と水筒を持ち、椅子をガタガタといわせて勢いよく立ち上がる。まだ昼休みは15分あるし、架瑳の声は明らかに上ずっている。動揺していることがばればれなのだが、敢えて指摘はしないでおこう。これが僕の優しさなのか、意地悪なのかは僕自身にも分からない。

 しかしまあ、僕もいつの間にこんなに余裕が出てきたのだろうか。最近までは、いや、ついさっきまでは彼女の一挙一動にいちいち反応して、振り回されていたというのに。これは彼女に近づけた、という証拠なのだろうか。そう思うことにして、心の中でガッツポーズ。

「ほら! 早く帰ろう!」

 架瑳に急かされて僕も水筒とパンの入っていた袋を持って立ち上がった。袋はすぐ近くにあった赤いプラスチックのゴミ箱に捨て、彼女に追い付くために小走りする。

「……深は、なんで部活に入ってないの?」

 追い付いたのとほぼ同時に架瑳が聞いてきた。頬はまだ少し赤いが、声はいつもの落ち着いたものに戻っていた。彼女はわざと足を擦らすように、音を立てて僕の隣を歩く。

「なんでって……入ってないのは変?」

 僕は質問の意図が分からず聞き返す。

「いや、変じゃないけど。てっきりアオと同じ部活に入ってるんだと思ってた。ほら、アオと仲いいから……」

 そう言った架瑳の表情には、どこかで見たことのあるような色をした影が落ちていた。どこからか柔らかな風が吹いてきて、優しく架瑳の長い髪を撫でる。

「うーん、放送部にそこまで興味はないかな。中学の時も帰宅部だったし」

「あ、そうなんだ」

「うん。架瑳は何部だった? 中学の時」

 架瑳はにこりと笑ってみせる。いつものように、それはもう魅力的な笑顔で。

「陸上部だよ」

「あ、運動部だったんだ」

「うん、そう」

 架瑳は不意に空を見上げ、何かを見つけてぱっと顔を輝かせた。

「あ、飛行機雲」

 ――愛しい。こんな、なんでもない会話も。二人きりの空間も。きっと、僕がどうしても好きになれない、あの雨の日の湿気に満ちた空気だって。

 彼女と二人でいれば、なんだって愛しい。

 好きだ。好きだ。

 彼女が、好きだ。

 ――偽物の“好き”はすぐに淡く消えていくけれど、本物は決して消えない。消えることは、ない。

 アオの言葉が蘇る。アオ、これは本物だよ。この気持ちは、疑いようがないほどに、本物だ。



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