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雨の日に恋慕  作者: 早瀬 夏樹
3/11

3.


「それで、相談って何よ?」

 弁当の中身が空になり、弁当箱を元の形にして箸を箸入れに戻すタイミングでアオが何気ないように聞いてきた。先ほど自販機で買い、丁度今飲んでいた緑茶の入ったペットボトルの蓋をしっかりとしめる。

「うん。なんていうか、アオは一目惚れとか信じる?」

 出来るだけ、真意を悟られないように。躊躇いなくまるで他人事のように話を切り出した。

 アオは空気を思いっきり吸ってから、はあっと肺の中の空気を一気に吐き出すように深い溜め息をついた。

「したことないから、分かんないけど……。分かることが一つだけある」

 ぴしり、と僕の目の前に人差し指が差し出される。

「なに?」

「深は架瑳ちゃんに恋をしちゃった」

 アオは至極真面目な顔をして、そう言った。

 刹那、呼吸の仕方を忘れる。自分の目が見開かれるのが分かって、慌てて瞼に力を入れる。真意を悟られてしまった。

「なんで……」

 とても驚いていたけれど、なんとか喉の奥から声を絞り出した。

「なんでって……。タイミングといい、深の挙動といい……全てが物語っているよ」

 アオは目を閉じてから、まあ架瑳ちゃん美人だしね、いい子そうだしね、とブツブツ言いながら、うんうんと頷いている。僕が何も言えずにいるとアオはいきなり顔を勢いよく上げて、僕の瞳を覗きこんだ。

「それで?」

「え? 何が?」

 僕はちょっと体を反らしてから、反射的に答える。

「いやいや。だから、何をアオに相談したいのさ」

 アオの顔が呆れたように脱力していた。

 そういえば、そうだった。僕はアオに相談をしたかったのだった。あまりに驚いたために全部すっ飛んでしまっていた。漸く平静を取り戻しつつある 僕は、一度浅く空気を吸ってアオに正対する。

「アオの言う通り、どうやら僕は架瑳のことが好きらしい」

 初めて口にした『好き』と言う言葉。それは僕の胸をいっぱいにした。

だけど。

「だけどね、納得できないんだ」

「納得?」

 アオは水筒の蓋を開けながら、意味がわからないという風に首を傾げた。

「だって、まともに話してもないんだよ? 好きってこんなに簡単なの?」

 こんな相談をするなんて、恥ずかしい。しかし、アオになら躊躇いなく話せる。彼女はこんな僕を笑ったりなんか、決してしないから。

 アオは一口お茶を飲んでから、口を開いた。

「好きって簡単だよ」

 それから柔らかに微笑む。彼女の微笑みは春を連想させる。暖かな日だまりのような優しさの中に僅かな哀しみと不安が見え隠れする。今は6月。出会いと別れの季節は、とうに過ぎている。

「好きになるのは簡単だよ。難しいのはそれを継続させること。偽物の"好き"はすぐに淡く消えていくけれど、本物は決して消えない。消えることは、ない」

 いつの間にかアオの顔から笑みは消え、真剣な瞳が僕を貫く。純粋ではない。だが、混沌を知ってもなお、真っ直ぐ進もうと直向きに努力する。そんな眼をしている。

「消えない……」

 僕の胸を熱くする、僕を突き動かす、この感情は本物なのだろうか。

「ま、もうちょっと様子見すればいいんじゃない?」

 アオはどうでもいいという風に、興味なさそうな表情をする。この表情が彼女の本心でないことは十年以上一緒に居れば流石にわかる。きっと僕のことを親身になって考えてくれているけれど、気恥ずかしいだけなのだ。

「そうだね。ありがとう」

 微笑んでから、お礼を言う。

「ん、じゃあ帰ろうか」

 アオは音をたてて椅子を引き、お弁当箱と水筒を持って立ち上がった。僕も立ち上がり、二人並んで歩き出す。

「あ、そういえば」

 ふと、アオの不機嫌そうな顔が思い起こされた。

「えと、アオ。なんかあった?」

「は? なんで?」

 アオは眉をひそめて不思議そうな声を出した。

「いや、なんとなく。なんか不機嫌そうだったからさ」

 アオは表情を固めて変えないまま、暫く黙っていた。

「アオ……?」

 だんだん心配になってきて声をかける。アオは、んーと低く唸ってから、小さく呟いた。

「ねこ……」

「はい?」

 意味が全く分からず、聞き返す。

「ほら、私、筆箱にネコのキーホルダーつけてたじゃん。あれ、なくしちゃって」

 確かにアオの筆箱にはネコのキーホルダーがついていた。というより、あれは小学生のときに僕が誕生日にあげたものだった気がする。気のせいかもしれないけれど。緑の紐に猫と一緒に変わった形の虹色の石がついているキーホルダーである。

「そうだったんだ。それで不機嫌だったの?」

 なぜか、一瞬だけアオの顔が少し歪んだ。泣き出す直前の迷子みたいな表情を僕は見逃さなかった。そこでやっと気がついた。あ、やっぱりはぐらかされたんだって。きっとアオの不機嫌の原因は他にある。

 だけど、その表情はあっという間に消え去ってしまった。

「まあね。そこそこ気に入ってたし」

 結局僕は、見逃さなかっただけで、その原因は分からなかった。苦しい。彼女を理解することが出来ないのは辛い。

 一番大事な友達だから。

 世界で二番目に大事な人だから。

 上を見上げると一筋の飛行機雲が真っ青な空に描かれていた。明日も雨が降るんだろうな。



 その日の放課後は一人で家路についた。アオは勿論、部活である。因みに架瑳は部活の見学に行くらしい。

 まだ陽は沈みかけてもおらず、5時だというのに昼間の様な明るさを保っていた。5時と聞くと、山の向こうに沈んでいく真っ赤な夕日を連想するものだけれど。

「ただいま」

「あ、深くん。おかえり」

 自宅に到着し玄関の扉を開けると、丁度妹の(アサ)が階段から降りてくるところだった。

「朝、帰ってくるの早いな」

「今日からテスト週間なんだよ! 深くん数学教えて!」

 朝は中学二年生で、陸上部に所属する活発的な少女である。今はすでに制服は着ておらず、長袖のTシャツに短パンという出で立ちである。ショートカットで脚や腕には程よい筋肉がついており、誰が見てもスポーツ少女だ。部活に打ち込み過ぎているためか、あまり頭の出来はよくない。

「僕は国語以外出来ない」

「えー、中学数学くらいなら出来るって! あとついでに古典と英語と理科も!」

「ついでが多いな」

 朝をあしらいながら、取り敢えず手と口を洗ってからリビングに入った。特にここに用はないのだが、なんとなくソファーに腰をかけて、側にどさりと鞄を置いた。朝が教えてよーと言いながら隣に座る。僕は無視して鞄から携帯電話を取り出してメールを確認する。まあ、普段僕の携帯に届くのは家族かアオからのメールか、迷惑メールくらいなのだが。クラスメイトの男子から来ることもあるが、頻度は一週間に一回程度だ。暫く朝は隣で駄々をこねていたが、いきなり、「あっ」と声をあげた。

「そういえば! 向かいに女の子が引っ越してきたよね。深くんが好きそうなきれーな娘」

 朝はにやにやしながら僕の顔を覗き込んでくる。別に僕は面食いな訳ではないし、そんなこと誰にも言われたことない。そのまま無視を続けてもよかったけれど、朝にからかわれるのはあんまり良い気分はしないし、あとから架瑳と知り合いであったことがバレればもっと面倒くさいことになるだろうから、僕はしぶしぶ口を開く。

「……僕と同じクラスの人だよ。沖津架瑳って名前」

「おき、つかさ?」

 さっきまでの勢いはどこへやら、朝の口調は随分戸惑ったものだった。

「いや、沖津が名字で架瑳が名前」

「かさ……また、深くんの好きそうな名前だね」

 傘。うん、大好きだ。でも、架瑳は名前だけじゃない。そんなこと言えるはずもなく、曖昧にうんと呟いておいた。

 ふと、気になっていたことを思い出し朝に聞いてみることにする。

「そういえばさ、アオの筆箱にネコのキーホルダーがついてるの知ってる?」

「え? ああ、知ってるよ。つい最近、私に勉強教えに来てくれたとき着いてた」

 朝とアオは仲がいいので別段不思議な事ではないが、最近アオがうちに来ていたなんて知らなかった。なんとなく敗北感。

「あれ、僕が誕生日にあげたやつじゃなかったっけ?」

「ええっと、あれって私も深くんと一緒に選んだやつだったような……。うん、確かにそう! あれは深くんがあげたんだよ」

 朝は胸をはって自信満々に答える。それから不思議そうな顔になって、「それがどうしたの?」と聞いてきた。

「いや、別に。ちょっと気になっただけ」

 朝は疑るような表情で、ふーんと言ってから、架瑳の話のときにしたにやにやした顔に戻った。よくそんなに表情を変えて疲れないな、と密かに感心する。

「それにしても、確かあれ深くんが小六の時にあげたやつなのに、今でも大事に持ってんだねぇ」

 また僕の不利な状況に持っていかれそうだったので、「勉強教えて欲しいなら今すぐ教科書と課題を持ってこい」と半ば脅して、朝を退散させた。朝にはよくアオとの事でからかわれるが、彼女とはただの幼馴染みで特別な感情を抱いたことはない。アオが彼女だったら楽しいだろうな、とは考えるけれど、万が一そのような関係になっても今までと何一つ変わらないと思う。アオと抱きしめあったり、キスしたりするところが上手く想像できない。なんて考えていると段々と顔が暑くなってきた。まあ、それはあり得ないことなんだけれど。僕には意中のあの娘もいるし。あの娘が彼女だったら、きっと僕は幸せだ。楽しいと幸せ。違いはそんなものなのだ。楽しかったら幸せで、幸せだったら楽しいものだと思う人もいるかもしれないが、僕はそれに明確な違いをつける。似て非なるもの。そこには歴然とした差がある。それは生まれる前から決まっていて、僕にはどうしようもない類いのものだ。

 階段の方からドタドタと駆け降りて来る音がした。すぐに両手一杯に教科書やノートを抱えた朝がリビングに入ってくる。どうやら肘で扉を開けたようだ。

 ドサッと重そうな音をさせて、ソファーの前にあるテーブルに手に持っていたものを放り出した。そこには何故か保健体育や美術の教科書まで紛れている。

「数学と古典、理科、英語、じゃなかったっけ?」

「まあまあ。そんな堅いこと言わずに」

 主要教科でさえ、記憶が曖昧なのに副教科を教えられる自信なんてない。それでなくても勉強はできないのだから。

「それじゃ、まずは数学から!」

 よりによって僕の一番苦手な教科を選んだ。僕に恨みでもあるのだろうか。

「えっとねぇ図形のとこがよくわかんなくてね……」

 僕は朝に気づかれないように小さくため息をついてから、覚悟を決めた。僕の大事なフリータイムを妹の為に使うというのはそれほど重大なことなのだ。

 それから二時間、僕は朝に可能な限り勉強を教えてやった。結局数学の一単元分と古典を少ししか出来なかったのだが。6時頃に母親が帰ってきて、夕食の準備を始めたために、よい香りに朝の集中力が途切れラスト30分で「腹がへった」と騒ぎ始めたが、「夕食が出来るまでの辛抱だ」となんとか宥めてやった。

 夕食まで勉強を続けた朝は、最後にふと思い出したようにこんな話をした。

「今さ、現代文でやってる話なんだけど。ある船が事故に遭って、自分は荒波の中に放り投げられるんだ。もちろん船のなかにいた人も全員。それで、なんとか漂流していた木にしがみつくんだ。すると自分の大切な人が二人、溺れかけているのを見つけるの。でも木は小さくて、あと一人しか乗れない。その時貴方はどうしますか、みたいな話。私が犠牲になって二人を助ける、って答えたいけど、実際そんなことがあったら無理だろうなって思うんだよね。私は、そんなに出来た人じゃないし。多分戸惑って、悩んで、迷って、それからどちらか一人を選ぶんだと思う。どちらかを切り捨ててしまうんだと思う」

 ありふれた倫理学の思考実験だ。トロッコ問題や冷たい方程式といった、命を天秤にかけるお話が有名であろう。不可算な命を数える、滑稽で無意味で絶対に答えがないのに考え続けなければならない命題だ。

 自分を平気で犠牲にする人を"出来た人"と形容するのことが正しいのかは分からないが、きっと僕も朝と同じで、自分を諦めることが出来ないだろう。どちらかを選んでどちらかを切り捨てる。そんな非情で残酷なことができてしまうのだと思う。それが間違いだとは思わない。自分が助かりたいと思うのは自然な感情なのだから。

 なぜ朝がこんな話をしたのか分からないし、本当に現代文でこのような話を学習しているのかも怪しいところだ。

 考えてみたけれど、結局僕は朝に「そっか」としか答えることが出来なかった。


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