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雨の日に恋慕  作者: 早瀬 夏樹
2/11

2.

 本日二度目の驚愕。曲がった先には、彼女がいた。彼女とは、もちろん彼女のことである。つまりは昼間の美人。真っ青な傘をさして長い髪を湿気に濡らし、整った横顔は全くの無表情であった。僕は微動だにすることができない。手の力が抜けて持っている傘がぐらぐらと揺れた。

 まともな思考も行動もできないでいると、不意に彼女が動いた。 こちらを、向いた。

 瞬間、息が止まる。

 彼女は僕に気がつくとそのままゆっくりと近づいてくる。僕たちの周りには誰もいない、つまり二人だけの空間がそこには広がっていた。

「あの、すいません」

 凛とした声が鼓膜を揺らす。

「この住所の家、どこかわかりますか。最近引っ越してきたばかりでわからないんです」

「え、あ」

 彼女は右手に小さなメモを持っている。雨で少し湿ったその紙を、戸惑いながら受け取った。僕の家の住所によく似たものが、紙の上には書かれている。多分この住所は僕の家の目の前を示しているのだろう。この前の土曜日、その家の前に引っ越しのトラックが止まっているのが、僕の部屋から見えた。

「こ、これ僕の家の近くです」

 思わずどもってしまった。声色も普段と違う。

「案内します」

「本当? ありがとう」

 彼女はほっとしたように、微笑んだ。

 なんだこれは。

 花が綻んだようとか、そういうレベルを遥かに越えている。

 なんなんだこれ。

 彼女の笑顔は真っ青な傘が色褪せて見えるほどの色彩を放っていた。

 先程までは後者が有力だと考えていたが、僕がどちらかに恋をしたのだとしたら、明らかに彼女である。しかし、これを恋と呼んでもいいのだろうか。先程まで自信満々に"僕は恋に落ちた"と考えていたが、ただ彼女の美しさに魅せられているだけなのではないのだろうか。これは恋なのか?

わからない。わからないまま歩き出した。


 二つ目の角を左に曲がって彼女は「あっ」と小さな声を上げた。恐らく自宅を発見したのだろう。僕の家の前、つまりは彼女の家の前まで来ると彼女は真っ直ぐにこちらに向いて「ありがとう」と言い、頭を下げた。多分、背中が 雨に濡れた。

 それから彼女は僕の胸のあたりをじっと見つめる。

「あの涛川(なみかわ)高校生ですよね」

 涛川高校とは僕の通っている学校の名前なので、肯定する。

「私も涛川高校なの」

 そう言うと彼女は、「あ」と声を漏らして自分の服装を一瞥してから再び口を開いた。

「制服は今日届く予定なんだけど。名前はオキツ カサ」

「か、さ……」

 思わず呟いた。彼女は何度僕を驚かせるのだろう。

「それじゃあ。案内してくれてありがとう」

 彼女は僕の名前は尋ねることなく、微笑みながらもう一度お礼を言って家の中に入っていった。僕は暫く呆然と立ち尽くした後、ふらふらと家に入った。玄関で傘を閉じて、傘立てに立てる。服は霧吹きを吹いたように濡れていた。

 全く、彼女はなんなんだ。

 わからない。わからないままその日は幕を閉じた。

 これが彼女との出会い。再会はなんと次の日なのだから、笑える。



「とても中途半端な時期なのだか、親御さんの都合で転入してきた生徒がいる」

 一晩中降っていた雨はすっかりやんでしまって、心地のよい朝のホームルームの初っぱなで担任はそう言った。

 オキツ カサだ、と思った。まさか学年とクラスまで同じだとは思わなかった。真実は小説より奇なりとはこのことか。

 ガラリと音を立てて教室のドアが開いた。そこにいたのはやはり彼女。教室がどよめく。担任は黒板に丁寧な字で『沖津 架瑳』と書いた。

 オキツは『沖津』だと予想できたが、カサは『架瑳』と書くのか。どういう意味でこの名が名付けられたのだろうか。

「じゃあ、沖津は……村上(むらかみ)水野(みずの)の席の後ろだな」

 水野とは僕の名字で、席は窓側の一番後ろである。村上はクラスメイトの女子の名字で、廊下側の一番後ろに座っている。この二列にはそれぞれ5人いるが、他の列には6人ずついる。そのため、僕と村上さんの後ろは空席ということになっている。

「えぇ、じゃあ……」

「あの、窓際がいいです」

 先生が結論を出す前に、彼女がはっきりとそう言った。教室は再びざわめく。前の席に座っているアオの肩がぴくりと動いた気がした。

「あぁ、じゃあ水野の後ろ、笹木(ささき)の隣だな。まあ、取り敢えず軽く自己紹介してくれ」

「はい。柄乃木(つかのき)高校から転入してきました、沖津架瑳です。よろしくお願いします」

 一瞬の沈黙の後ぱらぱらと拍手が始まり、あっという間に教室全体に広がった。

 彼女は僕の後ろの席に向かって真っ直ぐに歩き出す。途中ちらりと僕の方を見た気がしたけれど、気のせいかもしれない。

 それから先生はいつも通りのホームルームを行い、最後に「沖津に伝えたいことがあるので、すぐに廊下まで出てきてくれ」と言ってから、教室をあとにした。

 後ろから椅子をひく音がして、人の気配が消えた。彼女はどうやら後ろの扉から廊下に出たようだ。

「ねえ、アオ」

 いつもは休憩の度に僕に話かけてくるアオに動く気配がないので、僕は彼女に声をかけた。

「ん? なに?」

 いつも通りのアオ、に見えるけれど。何かあったのだろうか。

「雨、上がった」

「そうだね。深は雨降ってた方が嬉しいんだろうね」

 アオは椅子に、横に腰かけてこちらを向く。

「まあ、明日も天気悪いらしいけど」

「雨だからね。明日は傘忘れないようにね」

 アオは"傘"のところで一瞬止まってから、悲しそうに微笑んだ。

「覚えてたらね」

 前言撤回。いつものアオなんかじゃない。でも「何かあった?」なんて聞けない。何故かと聞かれても、聞けないんだから仕方ない。それに、聞いたってまともな返答が返ってくるとは思えない。間違いなく、はぐらかされる。

「忘れないように顔に書いてあげようか」

「ちょっと、真面目な顔して冗談言わないでよ。……冗談だよね」

 戸惑ったように顔を強ばらせて、ちょっと慌てていた。

 いつものアオ。

 ふっと笑って「冗談だけど、隙あらば、狙ってるから気を付けてね」と言っておいた。アオは頬っぺたに手のひらを引っ付けて、体を引いていた。頬っぺたがダメならおでこにでも書こうかな、なんて考える。

「アオ、ちょっと昼に相談があるんだけど、いい?」

 彼女は手を頬っぺたに引っ付けたまま、体をもとの位置に戻す。

「なんだそれ。別にいいけど」

 そこで丁度、一限目の始まりを知らせるチャイムが鳴った。いつの間にか後ろの席にはきちんと彼女が座っていた。


 一限目の古典は真面目に授業を受けていたつもりだが、時々考え事をして記憶がすっ飛んだりして、どうも落ち着かなかった。教室を見渡せば一限目から早くも伏せて睡眠をとっている生徒がいたがとうとう最後まで注意する者は現れることはなかった。

「じゃあ、今日はここまで」

 教師はそう言って、号令もかけずに教室をあとにした。扉が閉まると同時に後ろから声がかかった。

「水野くん」

「え、と。何? 沖津さん」

 戸惑いつつも後ろを振り向く。

 数人の生徒が彼女に声を掛けたがっているのがわかる。視線が痛い。先程のアオに倣って、椅子に横向きに腰かけた。

「架瑳でいいよ。いえ、特に用事があった訳じゃないけど。取り敢えず昨日はありがとう」

「いや、別に……」

 顔を直視することが、なんだか気恥ずかしい。目のやり場に困る。だが、視線を逸らして会話するのは失礼だと思い取り敢えず鼻の辺りを見ておく。

そのとき、教室の前の扉の方から「春木(はるき)」と、アオの名字を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、険しい顔をしたアオがゆっくり立ち上がっていた。そのスピードのまま呼ばれた方向に歩き出した。あそこまで様子がおかしいと、流石に心配になる。やっぱり後で理由をきいてみよう。

 視線を元の方向に戻すと、先には架瑳がいてばっちり目が合ってしまった。逸らしたくなる気持ちを押さえて、取り敢えず何か話そうと口を開いた。

「あー……架瑳って変わった名前だよね。何か由来があるの?」

 架瑳は少しの間僕を見つめたあと、ふっと微笑んで視線を落とした。正直、ほっとした。

「もちろん、あるよ。架瑳の"架"はお父さんの名前の"(かける)"からとったの。それで、"瑳"はお母さんがどうしても入れたい漢字だったんだって。色の鮮やかなさまとか、愛らしく笑うさまとか、そういう意味があるらしいの。その二つを組み合わせて"架瑳"」

「ふぅん。すごく素敵な名前だね」

 彼女の微笑みに動揺するがそれを必死に隠しつつ、思ったことをそのまま言った。

「でしょ。だから"架瑳"って呼んでほしいの」

 彼女は綺麗な笑顔のままそう言って、もう一度僕の方を見た。

「そっか」

 何故だろう。この笑顔を真正面から見た時自然に、本当に自然に微笑んだ。思わず、零れた。

 さっきまでの。ついさっきまでの、目を逸らしたい、なんて感情は気がついた時には消えていた。逸らしてはいけない。見逃しては、いけない。


 それから、僕たちはいつものように退屈な一時間を過ごした。次の休憩の時には架瑳の周りには沢山のクラスメイトが集まっていて、僕はその中に加わることはせずアオと二人で会話した。アオは架瑳と話してみたいかな、と思ったけれど彼女にそういう素振りは見られなかった。アオと架瑳の席の位置関係は席に着いたまま会話するのには向いていないだろうが、比較的近くなのだからいつでも話ぐらい出来るだろう。

 架瑳が転入してきたからといって、時間の速度が変化することなど勿論なくて、適切な時間が経過した後にやっと昼休みがやってきた。昼休みの始まりの独特な雰囲気が教室に漂う。きちんと四時限分の授業を受けたにも関わらず、ホントに昼休みだよね、と不安になったり、もうこれから部活の気分だ、と午後の授業を勝手になくしてしまったり、やっと昼休みだ! と胸を踊らせてみたり。目に見えない時間の区切りを示してくれるような昼休みの、この雰囲気が嫌いではない。

「深、テラスでお弁当食べない?」

 アオがくるりと勢いよく振り向いてきた。

「いいよ」

 校舎のそばの小さな石畳のスペースに、いくらかのプラスチックの机や椅子が置いてある場所がある。アオが言う"テラス"はそこのことだろう。

アオは水色の袋に入ったお弁当と、お茶の入ったペットボトルを持って立ち上がり、足早に出口に向かう。僕も黒い弁当箱を持ってアオのあとを着いていく。教室を出るとき、架瑳の方を一瞥した。隣の席の笹木さんと机を引っ付けている。他にも数人が架瑳の周りに集まって昼食を一緒にとろうと試みていた。

 架瑳の人気ぶりに、僅かに嫉妬する。勿論、架瑳にではなくて、周りに集まっている人たちに、である。大分浮かれているなと思う。でも、悪くない。

 扉を出てから急いでアオの後を追う。階段に差し掛かった時に彼女はこちらをちらりと見た。それから、踏み外さないようにという風に足元を見つめて、ゆっくりなリズムで階段を降り始めた。

「転校生の……架瑳ちゃん、だっけ。彼女と知り合いなの?」

「え、ああ。昨日道を聞かれたんだよ。驚いたことに僕の家の目の前に住んでるらしい」

 アオは、ふうんと溜め息みたいな返答をした。階段を降りる、彼女のリズムが少しだけ乱れる。

「どんな人なの?」

「僕も会ったばっかりだからよくわからないけど……食べ物に例えるなら、お吸い物」

 アオは足元を見つめたまま吹き出した。

「なにそれ。訳わかんない。じゃあ、アオは食べ物に例えるなら何なの?」

「アオかぁ……」

 悩む。自分の意見をはっきり言うし、サバサバした感じだけれど、女の子らしくて可愛い一面もある。

「サラダかな」

 アオはもう一度吹き出してから「悪くない」と、僕に笑顔を見せた。

 一階まで辿り着いて、靴を履き替えるために下駄箱に向かう。

「架瑳ちゃんと仲良くなれるといいなぁ」

 アオが清々しい顔をしてそう言うから。迷いのない笑顔でそう言うから。

「そうだね」

 何の疑いもなかった。




――「きっと無理だけれど」

 アオがそう呟いたことに、僕は気がつかなかった。

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