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雨の日に恋慕  作者: 早瀬 夏樹
10/11

10.

 躊躇いも不安もなかった。人指し指をぴんと伸ばしてそのままインターホンを押す。ぴんぽん、と柔らかな音が鳴ればすぐに「はい」と聞き慣れた声が返ってきた。名乗れば口調は一転し緊張を孕んだ声で「ちょっと待ってて」と。

 玄関の側には僕の背丈ほどの観葉植物が置いてありクリーム色の背景に映えている。右手には小さな庭が見えた。そこに咲いている名前も知らない小さく可愛らしい花を何となく眺めていると、がちゃりと音を立てて扉が開いた。

 出て来た彼女は上にはシフォンのチュニックに透かし編みのカーディガンを羽織り、下はデニムのショートパンツで足元には踵が踏み潰されたスニーカーを素足のまま履いていた。

 目が合って、柔らかそうな美しい髪が風に靡く。

「……深、どうしたの」

 少し不機嫌そうな彼女は僅かに開いた唇から声を発した。

「あー……いや、ちょっと話があって。散歩でもしない?」

 誤魔化すように頭を掻いて、しどろもどろになりながらもそう言うと架瑳は不意に相好を崩した。

「なにそれ、お母さんとか出てきてたらどうしたの。メールでもくれれば良かったのに」

「え、ああ。確かに。気がつかなかった」

 彼女の笑みを見て安心した僕はつられて一緒に笑いながらも少しだけどきりとした。確かに、架瑳のご両親が出てきていれば面識はあるとはいえいきなり訪ねていけば多少気まずいことになっただろう。折角携帯電話を持っていたのに世紀の発明も宝の持ち腐れである。

「散歩かぁ。雨降りそうだから傘持っていこうかな」

 彼女は上空を見ながら、なんとなく嬉しそうに呟き、傘立てからお馴染みの真っ青な傘をスムーズな手付きで引き抜いた。そして気がついたように不思議そうな顔をした。

「あれ、深は傘持ってないの? まあいいや、降ったらいれてあげるよ」

 え、と無意識の内に口から漏れた。さらりと相合い傘宣言をした架瑳の顔は普段通りで、どうやら冗談ではないらしい。固まって動けない僕に、どうしたの? と首を傾げる始末である。凪いでいた心の海は思いがけず架瑳によって大きな波を立てられてしまったが、まあいい。架瑳はスニーカーから、靴箱から取り出したリボンの着いた白いサンダルに履き替え、家の中に向かってちょっと出るから鍵かけてね、と叫んでから玄関の扉を閉めた。

 西の空に傾いた太陽は、徐々に姿を現した雲によってその光を遮られている。雲の向こう側で光を放つ太陽は、懸命に自分の存在を主張しているようでもあった。

「天気予報見た? 来週はずっと晴れらしいよ。そろそろ梅雨明けかな」

 架瑳は右手に握った傘でかつんかつんと音を立てて地面を鳴らしながら僕の右隣を歩く。

「うん、そうらしいね」

「やっぱり深は知ってたか」

 ふふ、と嬉しそうな声を漏らして微笑む彼女にどうしようもなく胸の奥が疼いた。架瑳は今僕の隣を歩いている。そんな些細な事実が幸せだった。

 ほんの少しだけ低い彼女の横顔をちらりと盗み見る。緩やかに弧を描く唇、長く美しい睫毛。僕の視線に気が付いたのか彼女も僕の方を見て、ん? と首を傾げた。

「何か顔についてる?」

「いや……。取り敢えず土手の方に行こうか」

 視線を外してから誤魔化すために話を変えた。架瑳はふふふと楽しげに笑いながら、いいよと言う。

 架瑳が急いで歩かなくてもいいように僕はいつもの歩幅よりも少しだけ短めに、そしてゆっくりと歩を進めた。徒歩十分ほどの場所にある土手に辿り着くまでに、僕たちの間に殆ど会話はなかったけれどそれが変に気まずい訳でもなく、むしろ穏やかな気持ちで過ごせた。言葉は発していないけれど、彼女の微笑みが、傘が地面に接する音が、僕の歩き方が、体の側面に添えられた手の微妙な動きが、それら全てで会話を行っているような気がした。

 住宅街を抜ければ途端に視界が広がった。左に折れて川沿いに歩く。野球のグローブとバットを担いだ数人の少年、自転車かごに野菜が入ったスーパーの袋を詰め込んでいるおばさん、キャップからウエア、シューズまで揃えてランニングを楽しんでいる青年。すれ違ったり追い越されたりしながら進んでいく。

 上空を見上げれば所々雲が薄くなっており、光の筋が零れ落ちていた。上空で強い風が吹いたのだろうか、よく分からない天気だ。もしかしたらやっぱり雨は降らないのかもしれない。そうなれば少し残念だろうけれど、もう今はどちらでも良かった。

 意を決して、立ち止まる。

 それ気が付いた架瑳も数歩進んだ場所から僕の方を振り向く。

 その瞬間。

 ――丁度その時が緊張の絶頂であった。

 一気に血の気が引いて指先が冷える、足先が痺れる、上手く息が出来ない、苦しい、頭の中がふっと真っ白になる。

 きっとこの告白は――いや、それでも、もしかしたら、どうしよう、ああでも、それでも。

 どうしたの? と無邪気に笑いかけてくる彼女を、無性に抱き締めたくなった。その腕を掴んで引き寄せて胸の中に閉じ込めたい。そんなどうしようもない衝動を落ち着けるために目を閉じて一つ、大きく息を吐いた。それから、そうっと瞼を開くと架瑳はきょとんとして、もう一度どうしたの? と尋ねてきた。対応する余裕はない。

 暫く時を待つ。

 自転車に乗った中学生くらいの女の子が前方からやってきて走り去った。それにつられるように背後をちらりと見るとそこには一本道が続いているだけで、今すれ違った彼女以外には誰も見えなかった。もう一度架瑳の方に向き直る。前方から来る人もいない。

 最高の、シチュエーション。

 ふわりと吹いてきた風に後押しされるように、言った。

「好きだ」

 ただ、それだけ。

 伝えたいことは、これだけ。

「僕は架瑳が好きだ」

 眼前の彼女は僕の言葉を聞いて表情をぴたりと固まらせてしまった。少し意外な反応で動揺する。だって昨日の事があったのだから、この呼び出しが告白であることを予想できてしまうのでは、と考えていたのだが、いや今となってはそんな些細なことどうだっていい。

 全身に無駄な力が入ってしまい、それにより緊張の度合いが増しているような気がする。力を抜こうとするけれど、やり方が分からない。どの筋肉を使えば力を抜くことが出来るのだろうか。

 どきんどきん、と大袈裟なくらいに鳴る心音。

 架瑳は微塵もアクションを見せず、僕は何だか泣き出したくなった。だめだ、やはり最近涙腺が緩い。

 今度は彼女のいる方向から柔らかな風が吹いてきた。握りすぎて感覚が分からなくなった拳を震えながら開いた、その時。

「え……」

 やっと架瑳の唇が動いた。

「あ、や、ごめん」

 ――え。

 血の気が、さっと引いた。

「あ! 違う、そのごめんじゃなくて、吃驚したっていうか。今日はその、アオの話だと思ってて、予想外で!」

 彼女は大きくかぶりを振って、詰まりながらも叫ぶように言った。それから手のひらをこちらに向けて、ちょっと待ってと上ずった声を発する。すぅ、はぁ、と鼻で息を吸って口から吐く。

 何度か繰り返す間に黒いジャージを着た女性が僕たちの隣を走り去っていった。軽快なリズムを刻む足音が徐々に小さくなり、消えた、と思った瞬間。

「私も、すき……だと思う」

 架瑳は頬を赤らめつつ、消え入りそうな声でそう言った。

「……おもう?」

 ――正直、複雑な心境だ。

 拒否、されたわけでもなく。かといって完全に受け入れられたわけでも……ないのだろうか。

 よく分からない。焦れったい。緊張と不安に加えて、得たいの知れない、名前のつけがたい感情が溢れてきた。

「どういう意味?」

 少し食いぎみに次の言葉を急かすように言う。

「自信が、ない」

 俯き、呟くように酷く悲しそうに。

「だってまだ二週間しか経ってないのに。昨日、告白されてよく考えて、分からなくなった。いいの? 間違いだったらどうするの? この感情に、確証はないのに」

 ――そう、言う彼女を見て。

 思わず笑みが零れた。それは決して彼女を嘲笑ったりするような種類のものではなく、純粋に、僕と似ていると思った。

「そういうことじゃないと思うよ?」

 架瑳は弾かれたように顔を上げる。困ったように眉をハの字にさせた。

「そういうことじゃないんだよ。僕が聞いているのは架瑳の、たった今の気持ちだ」

 僕のこの感情だって、確証なんてない。言葉にしたって行動に移したって、気持ちをそのまま伝えることなんて出来ないし、ましてや未来に絶対的な約束をすることも出来ない。

 それでも、“たった今”のこの気持ちを信じることはできる。これを信じずに何を信じるのだろうか。

 架瑳の濡れた瞳が僅かに揺れる。

「小さな恋心を積み重ねて愛にしていけばいい」

 刹那、世界が止まった気がした。

 暴れだしそうな期待と不安を抑えて可能な限り穏やかな口調で、普段の僕であればたとえ心の中にあったとしても、決して口に出しては言わないような言葉を何の躊躇いもなく言ってみせた。

 変わらない。

 僕の気持ちは変わらない。あの、雨降る特別な日に恋に落ちた時から。

 その白く細い腕も、柔らかそうな頬も、真っ直ぐで艶やかな髪の毛も、真っ青な傘が色褪せて見えてしまうほどの、その笑顔も。彼女のものであれば全て守ってあげたいと思う。彼女の喜びも、悲しみも、怒りも。全ての感情を愛したいと、そう思う。

 この気持ちは萎むどころかどんどんと膨れ上がっていく。今、この瞬間だって。

 そう。

 あの雨の日から。

 あの、雨の日に。

 架瑳が綺麗に笑ったら、世界は再び動き出した。






 ――――さあっと。雨が降りだした。上空に雨雲は見られず、白い雲だけがゆっくりと流れている。

「あーあ、これで、終わりか」

 少女は一人で呟いた。








 ――――太陽の光によって、天から落ちる雫が光る。きらきら、きらきら。多数の波紋を揺らめかせる川の側を、一組の男女が一つの傘をさして歩く。

 真っ青な、傘をさして。





雨の日に恋慕 了


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