1.
僕は傘の使い方が下手くそなのだと思う。
きちんとさしているつもりなのだが、いつもびしょ濡れになってしまう。背負ったリュックが雨に当たらないように気を使っていると、前が濡れてしまう。ほんの少しだけ傘を傾けて前方を守ろうとすれば、今度はリュックが無防備になってしまう。そうこうしているうちに、何故か分からないが傘を握っている手までもが雨に濡れてしまう。濡れないように、濡れないように。試行錯誤しながら歩けば、水溜まりに足をつけてしまい靴下までずぶぬれになる。雨はやむことを知らず、容赦なく僕を打ち付けてくる。平等に降ってくる。雨音はこんなにも騒がしいのに僕の周りには静寂が取り巻く。だから雨は憎めない。だから傘が愛おしい。それは魔王を倒す聖剣のように強かで、花瓶に生けた百合のように高貴で、ヒーローもののハンカチのように幼稚で、澄んだ青い空のように美しい。僕にとって傘と雨はイコールで結ばれていて、それほどまでに素晴らしいものなのだ。だから、僕は傘が上手く使えないのかもしれない。
そんなことを前の席のアオに話せば、「深の言っていることはよく分からない」という答えが返ってきた。
「あまりにもポエミーで、聞いてるこっちが恥ずかしいよ」
呆れた顔で首を振るアオを無視して、僕は思うことをそのまま口にする。
「アオは傘みたいだね」
「アオの言うこと聞いてる?」
アオは眉の間に皺をよせて不機嫌そうな顔を作った。
「まあいいや。で、アオが傘? 意味わからないね。アオは傘、嫌いだよ」
「アオって言ったら青色の青がでてくるだろ?青色って言えば、傘だよ」
僕は窓の外に顔を向けて、昼下がりのグラウンドを眺めてみた。僕達の教室は二階なのでここからでも、一人一人の顔がはっきりと見てとれる。多数の男子がサッカーをしている。僕のクラスの男子も数人いるようだ。
「アオは青色の青じゃないけどね……。それになんで青色が傘?」
「傘って青色のイメージがあるじゃないか。ほら、天気予報で出てくる傘マークも青だし。それにアオは性格も傘っぽい。堂々としてて、強くて、幼稚で、かっこいいよね」
「女子にかっこいいはどうかと思うけれど。それに幼稚って誉め言葉なの?」
グラウンドからわあっと歓声が上がった。ハイタッチする者がいれば、項垂れている者もいる。どうやらゴールが入ったらしい。
「幼稚であることは悪いことだと捉えられがちだけれど、そうでもないよ。幼稚園児はどうなるんだ。幼稚な園の児、だよ。僕にとって幼稚園児はある種の憧れの対象でもあるんだ。幼稚は誉め言葉」
「言われて嬉しいものではないけどね」
アオはふぁっと大きな口を開けて欠伸をひとつした。どうでもいい、というように次の授業の準備をする。机の中から数学の教科書とノートを取り出している。僕は現実から逃避しようと思い、まだ準備はしない。空を見上げるとネズミ色の雲が空を覆い、太陽の光を遮っている。丁度その時、ぽつり、と音がして水滴が窓に当たった。そしてそれを合図にしたように一斉に空から雨粒が降り注いできた。
「あーあ、深が変なこというから、雨が降ってきちゃったじゃん」
「断じて関係ない。元々午後の降水確率は70%だったからね」
グラウンドではサッカーをしていた生徒が慌てて校舎の中に走り込んで来るのとほぼ同時に校内に予鈴が鳴り響いた。流石に現実逃避が難しくなってきたので、数学の準備をすることにした。
――なんとなく。
本当になんとなく、窓の外に目を向けた。校門のほうの、ひとつの傘が目にとまった。
青い、傘。それをさした人が校舎の方にゆっくりと歩いてきている。雨の日の象徴みたいな光景がそこには広がっていた。不意に傘が傾いて、中が見えた。
そう、驚愕。ただただ、驚愕。
かつて見たことのないような美人が、そこにはいた。
見覚えのない制服を着た、美人が一人、青色の傘をさしてこちらに近づく。思わず思考が停止して、固まる。暫く動けずにいると、アオが怪訝な顔をして尋ねてきた。
「深?なにしてんの?」
「……は、え、いや」
はっとしてもう一度グラウンドを見ると、そこに彼女はいなかった。まるでさっき見たものは幻だったかのように、跡形もなく消えていた。ただ、あの真っ青な傘だけが、僕の眼裏に焼き付いているだけだった。殺伐としたグラウンドに映えた真っ青な傘が、目を瞑ればはっきりと蘇った。
それからすぐに本鈴が鳴った。数分後に、教室に教師が入ってきて、直ちに授業が始まり生徒たちはノートを広げて板書を写す。 その波に乗れない僕は窓の外で降り続けている雨を眺めていた。雨は激しさを増し、強く地面を叩きつけている。
――どうしても。どうしても、あの傘が忘れられない。
天気予報で出てくる傘マークのような、メールで"傘"と打てば候補に出てくる絵文字のような、そんな傘が忘れられない。それに、その持ち主。あまりに美人すぎた。鮮明に思い出すことが出来たけれど、それはなんだか幻じみていた。真っ黒なストレートの髪を腰まで伸ばし、少しだけ鋭い瞳と桜色の唇、そしてほどよい高さの鼻が、顔のパーフェクトな位置に配置されていた。
僕は彼女に恋してしまったのだろうか。それとも――"あの傘"をさした人物に恋してしまったのだろうか。うん、そうかもしれない。だけど、どちらでもいいな、と思った。僕がこの雨の日に恋に落ちたという事実は変わらない。ただ、相手が分からないだけなんだ。
数学の授業はするすると頭の中を通過して留まらず、ただ、雨の一定なリズムだけを聞いていた。黒板を書き写すこともせず、ただただ雨を感じていた。
授業終了のチャイムが鳴り、教師が教室から出ていったと同時にアオがこちらを向いた。
「深、ちゃんと授業聞いてた?深はそれでなくても数学出来ないんだから、授業くらいちゃんと聞かなきゃ」
アオは怒ったような顔をして、表紙に『数学 2-D春木アオ』と書かれたノートを差し出してきた。僕の席はアオの後ろなのに、僕が授業を聞いていないことが何故分かったのだろうか。
「ノート、貸したげる」
そう言うので僕は有り難く写させてもらうことにした。
あと一時間。あと一時間で帰ることができる。この、雨の中を。
次の時間は英語だった。別に嫌いな訳ではないけれども、真面目に授業を受けようと思うほど好きな教科ではない。教師の動かすチョークによって、たんたんと黒板は埋まっていく。僕はそれを機械的に書き写す。そのまま、ただそのまま書き写す。授業終了のチャイムが響き渡った。
「はい、じゃあ今日はここまで」
教師はそう言って、教卓で教科書と資料をトントンと揃えた。日直による号令が終わり、再びアオが話しかけてきた。
「ねえ、今日一緒に帰ろうよ」
「え、アオ、部活は?」
僕は部活に所属していないが、アオは歴とした放送部員なのである。もちろんこれから部活動があるはずである。しかしアオは腕を組んで眉を寄せた。
「なんか放送室、点検か何かで使えないんだって。他に自由に使える教室がないらしい」
そういえば、今日は数学の追試と古典の追試が被っていると聞いた。それも関係して、教室が空いていないのかもしれない。ちなみに僕はこの前の数学のテストであと3点なければ、追試にかかっていた。
「なるほどね」
僕は机の中から教科書やノートを取りだし、鞄に詰め込みながら呟くように返答した。
「あとさぁ、深」
「何?」
アオの方を見ると、彼女の顔は気まずそうにヘラヘラした笑顔を作っていた。いきなりパンと両手を合わせた。ちょうど、"頂きます"みたいなかんじに。"御馳走様"でもいいけれど。
僕はアオがこれから何を言おうとしているのか、おおよそ見当がつく。このシュチュエーションで彼女が言う言葉はただひとつ。
「毎度悪いんだけど、傘貸してくれない!?」
やはり。僕の予測は当たっていた。雨が降っていて、アオが下手に出たときは必ずこのお願いをする。僕は雨が降る日は傘を持ってくるし、鞄の中には折り畳み傘が常備されている。
「いいけど。……アオは学習能力がないの?」
彼女はしっかり者のはずなのだが。
「天気予報とか見ないし、折り畳み傘鞄に入れるのも邪魔だしね」
アオは視線を逸らして言い訳じみた言葉を口にする。変なところで大雑把らしい。
ガラリ、と音をたてて教室の扉が開き担任が入ってきた。帰りのホームルームが始まる。
僕は横に掛けていた鞄を膝の上に置いてチャックを開けた。中を探って紺色の折り畳み傘を取り出して、それを右手で弄ぶ。やっぱり傘は青がいいな。でも、この歳であの傘を持つには少し勇気がいる。目立つし。
ぼうっとしているといつの間にかホームルームは終わっており、気がつくと号令も済んだ後だった。座ったままだったけれど、僕の席ははじっこだから教師に気づかれなかったのだろう。
「深、帰ろ」
アオはにこりと綺麗に、自然に笑いかけてきた。首を少し傾けて肩までの髪の毛をフワリと揺らした。
「うん」
アオはクラスメイトと話しているときはあまり感情を表に出さないが、僕には時々笑いかけてくる。彼女は別に人付き合いが下手なわけでも人見知りなわけでもない。友達もたくさんいるし、みんなから信頼されている。
ただ感情を表すのが苦手なだけなのだろう。特に笑顔が苦手らしい。幼馴染みの僕や家族には様々な表情をみせる。彼女の笑顔は美しい。まるで澄みきった空のように。
「……アオは傘の色の青じゃなくて、青空の青なのかもね」
階段を降りながら考え、行き着いた答えを口にした。
「また変なこと言い出したよ、なにそれ」
「……そのままだよ」
口で説明したってきっと伝わらないから、そんな返答をする。
ひとつ深呼吸してみる。すうっと空気を鼻から吸い込むと雨の匂いが体に染み込んできた。
「アオの青は青空なんかじゃないよ」
微妙なタイムラグの後にアオはポツリと呟いた。
「はい?」
状況が掴めなくなって聞き返す。
「アオは青空みたいに純粋じゃないもの。ちょっと不純物を含んだ青。その輝きは宝石みたいにチープなんだ」
アオの言葉が何を指しているのか分からなくて、どんな返事をするのが正解なのか分からなくて、黙っていた。ただ、いつもと違うその口調に戸惑っていた。
「なんてね。傘貸して」
脱靴場に辿り着いて、前を歩いていたアオはくるりと振り返りいつもの表情を見せた。床は湿気で濡れており、いつもと違う幻想的な雰囲気を醸し出している。
「え、ああ……」
左手で持っていた折り畳み傘をアオに渡す。彼女は靴に履き替えたあとに傘のカバーを外して、ばさっと音をたてて傘を開いた。僕はその間に傘立てから傘を引き抜き、上靴を履き替えた。外は先程と変わらず、雨が降りしきっている。脱靴場から出ると同時に僕も傘を開いた。
「あ、そういえば今日、数学のテストの追試あったよね。珍しく深はかかってないんだ?」
「ああ、危なかったけどね」
「どうせボーダーラインから3、4点でしょ」
アオはにやりと悪戯な笑みを浮かべた。それにしても何故僕の点数が分かるのだろうか。少し意地をはって「そうでもないよ」と答えておいた。
「まあ、アオはボーダーラインがあと20点高くてもセーフだったけどね」
得意気に胸を反らして言う。傘が揺れてアオの袖口に雨がかかった。
「アオは数学得意だもんね」
僕は今日も試行錯誤する。雨がかからないように、かからないように。アオの折り畳み傘の方が僕の傘よりも小さいのに、何故か僕の方が濡れている。おかしいな。それから僕は雨に濡れないように秘かに奮闘しながら、アオと他愛ない事を語り合った。近所にできた本屋さんのことや自分の一番好きな駄菓子の魅力なんかについて。それがとてつもなく幸せな時間であったということは、きっと言うまでもない。
アオを家まで送り届けたあと、僕は家路を急いだ。といってもアオの家は学校から僕の家までの道中にあるので、送り届けたという言葉が的確なのかわからない。
雨は相変わらず地面を均等に叩きつけている。ラジオのノイズ音のような雨音が僕を包む。しかしラジオのそれとは違い、不快にはならず、むしろ心地よい。
雨粒が傘に当たってばりばりと音をたてて五月蝿い。五月蝿いのに静かだ。雨の日にはこの表現がぴったりなのだと思う。
僕は突き当たりを左に曲がった。僕の家はこの先の交差点を右に曲がり、さらに二つ目の交差点を左に曲がったところにある。
――なんとなく。
本当になんとなく、そこで予感がした。
この交差点を曲がれば、僕の運命が変わってしまうような、そんなありきたりでいくらでも無視出来てしまう類いの予感が、確かにあった。