第五章
第五章
雄一は小さなアパートの一室で、布団にくるまりながら今日の出来事を思い返していた。結衣とのぎこちない会話に、あの笑顔。しばらく考えていると、何がそんなに自分を惹き付けたのか何となく思い出してきた。たしか7年程前だったろうか。叔父や叔母と親戚の集まりに行ったときに、彼女を見かけたような気がする。その集まりの事は全く覚えていなかったが、彼女のあの笑顔だけは妙にはっきりと思い出せた。始めは大人達ばかりでつまらない、と思っていた雄一も、そのうち彼女を見ていると心が落ち着くことに気付いた。あんなに退屈だった時間もあっという間に過ぎ去り、いつの間にか親戚達に車に乗せられて家に向かっていた。このような不思議だがどこか心の温まる感覚は初めてだった。
今だから分かる、と雄一はゆっくり目を閉じた。自分はあの少女に恋をしていたのか。気付くと同時に何となく気恥ずかしくなり、さっさと向こうを向いて目をつむってしまった。
その日の夜はますます冷え込み、雄一の部屋にか細いすきま風が吹き抜けた。なかなか寝付けないのか、彼はもぞもぞと何度も寝返りを打った。寒い夜だというのに体が火照ってしょうがなかった。
この日、彼女との再会によって、彼の心に忘れていたはずの感覚が今一度芽生えた。
午後十一時。会社を出ると、夜空を見上げてその人物は深くため息をついた。上着の内ポケットに手を入れて手紙が入っている事を確認すると、注意深く辺りを見回してゆっくりと歩き始めた。自分で選んだ決断とはいえ、なるべく身に降り掛かる危険は避けたかった。去年のような失敗は出来ない。
とりあえず今日は、無事に帰宅せねば。
目標の相手が会社から出てくるのを確認すると、男は木陰の暗がりに身を寄せた。ここで気付かれたら元も子もない。
どうやら目標も警戒しているようだ。そわそわと辺りを見回している。やがて安心したのか、ゆっくりと、それでいてしっかりとした足取りで歩き始めた。30メートル程の距離が開いたのを確認すると、男は暗がりから出て目標の後ろ姿を見つめた。すぐにはその背中を追わず、彼はむしろのんびりとした動作でタバコの箱を取り出し、一服し始めた。目標の男が50メートル程先の角を曲がったのを見届けると男は吸い殻を路上に捨てようとしたが、寸でのところで思いとどまり、慌てた様子で常に持ち歩いている携帯灰皿に投げ入れた。
コツコツ、とようやく歩き始めた男の足音が無機質なコンクリートに反射されて、寂しく響き渡った。随分と冷える夜だ。
結衣は不安げな顔で髪にドライヤーを当てていた。いつもならもう帰ってくるはずの明夫が、いつまで経っても帰らない。彼は残業や飲み会で遅くなる事はしょっちゅうなのだが、その際は必ず事前に伝えてくれる。したがって、今晩のように何の前置きも無く遅くなるという事は滅多に無かった。彼には聞きたい事がたくさんあっただけに、結衣はますます明夫が帰らない事に焦り始めた。彼の身に、何かあったのだろうか。
少しでも気を紛らすためにテレビをつけると、どこか郊外の温泉のリポート番組がやっていた。リポーターの大げさなリアクションや無駄なエフェクトが耳に障る。結局彼女はテレビを消して、自分の部屋に籠ってしまった。
ベッドに横たわり天井を見上げていると、今日会ったあの西田雄一という少年を思い出した。やはり彼は自分の兄なのだろうか。だとしたら、これからの生活は彼を含んだ物となるのだろうか。確かに、実際彼と話しているとどこか落ち着いてくるような感じがした。しかしいくら兄妹とはいえ、今までほとんど関わりのなかった人物とともに生活をするのは生理的に受け入れられなかった。
そういえば、と結衣は思い出した。最初に彼を見かけたときに感じた、あのどこか懐かしい感じは一体なんなのだろう。やはり兄妹という事であれば、過去にそれなりに交流があったのかも知れない。
まあどうせそこまで重要なことでも無いだろう、と半ば強引に自分を納得させ、結衣は未だ帰らぬ明夫の身を再び気にし始めた。
そんな風に結衣が延々と悩んでいるうちに夜はふけ、結局その日は明夫が帰宅する事は無く終わってしまった。あれ程雄一や、明夫の消息が気になって眠れなかった結衣もさすがに疲れに負けたのか、気付けばすやすやと寝息を立てていた。
冷たく街を照らしていた三日月は、どこからか流れてきた黒雲に覆われて、鈍く光を放っていた。
彼は焦っていた。ハアハア、と荒い息づかいをしながら路地裏を縫うように進んで行く。怯えたような顔で後ろを振り返りつつ、積んである段ボールやゴミ箱を次々と倒しながらひたすら彼は走り続けた。
「ちくしょう、何でこんな事に・・・」街頭が薄暗く通路を照らす中、自分でもどこへ向かっているのかも分からずに彼は駆けていく。
そうして5分程走り続けると、手前の角からわずかにネオンが放つようなチカチカと点滅する光が漏れているのを見つけた。大通りに通じる道だろうか。彼は胸を撫で下ろした。これで助けを呼べる。
ほとんど転がり込むように彼はその角を曲がり、その光に救いを求めて顔を上げる。
そこには暗く、無機質なコンクリートの壁が目の前広がっていた。壁の両端にそびえるビルとビルのわずかな隙間から細く、か弱い光が力なく漏れていた。
一筋の希望も打ち砕かれた彼はその場に力なくへたり込んでしまった。背後から冷酷に響きわたる靴の音が聞こえてきた。
ああ、と絶望を込めて、彼は角を曲がってきたその男の方を向いた。その男、佐々木明夫の方を。