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第三章

第三章


 明夫が綾乃と出会ったのは、都会から外れたところにある、小さな町での事だった。出会った、とは言っても明夫は綾乃とは幼稚園の頃からの仲だった。明夫の両親は彼を出産して間もなく、彼女の住む田舎町に引っ越してきた。彼らはちょうど同じくらいの歳だったので、さらにその町に子供が少なかったこともあり、すぐに仲良くなった。まるで兄妹のように毎日を共に過ごし、彼らは小学校、中学校と進んで行った。

 しかし明夫が高校に上がって間もない頃、父親の働いていた町工場が倒産してしまうのである。これによって彼の家は稼ぎ手を失い、明夫も高校へ通うのを断念せざるを得なくなった。父親は新しい仕事を探そうと躍起になったが、さすがにその歳で見つかる仕事は無く、日に日に疲れだけが溜まっていくだけだった。母親も家事の合間に暇を見つけては内職に励んだ。しかし母の内職の稼ぎだけでは家庭が養えないという事もあり、ついに彼は高校を中退して都会に働きに出る事に決めた。16の夏の出来事である。

 出発の日の朝、両親だけでなく綾乃の父と母も駅まで見送りにきてくれた。明夫は内心不安や心配で押しつぶされそうだったが、綾乃の前ということもあって、平気なふりをして見せた。

「体には気をつけてね」

「大変だろうけど、しっかりやれよ」

「忘れ物は無い?」

「ちゃんと飯は食うんだぞ」

 世話好きな綾乃の両親が交互に話しかけてくる中、綾乃は少し離れたところに立って、じっと明夫の方を見ていた。

 電車が到着すると両親と二言三言かわしてから電車に乗ろうとしたが、車内に足をかけたところで綾乃が駆け寄ってきた。彼女は明夫の前までくるとさらに一歩踏み出して明夫を見つめた。いきなりの事に戸惑っていると彼女はふっと俯いて言った。

「・・・明夫」

「えっ?お、俺?」

「また帰ってくる?」俯いたまま、彼女は続けた。

「えっと・・・、多分な」困ったように頭を掻きながら明夫は応えた。「まあその頃にはお前もどっか行っちゃってるかもな。あははは」

 少しでも明るく務めようとした明夫の虚しい笑い声が、小さなプラットホームに響き渡る。場の雰囲気は相変わらず重いままだ。

 明夫が耐えきれずにじんわりと嫌な汗をかき始めた頃、ふいに綾乃が口を開いた。「・・・るから」

「え?今、何て・・・」

 明夫が聞き返すと彼女はいきなり顔を上げ、まっすぐに明夫を見つめて言った。


「私、待ってるから」


 それだけ言うと彼女は後ろを振り向いて、足早に駆けていってしまった。その背中を、綾乃の母親が苦笑いを浮かべながら見送る。父親の方は、どこへいくんだーっ、と叫んで娘を追いかける。そんな彼らの様子を明夫は呆然と見守るしかなかった。

 ジリリリ、と発射を告げるベルが明夫を急かすように鳴った。閉まり始めたドアに急いで飛び乗ると、向こうに立っている両親の方を見た。16年という、長いようであっという間な時間を過ごしたこの場所と、真摯に愛情を注いでくれた両親との、しばらくの別れになる。言葉は交わさなくても、ドア越しに見える彼らの眼差だけで十分だった。電車がゆっくりと動き出す。

 車内に入って座席に座る。そろそろホームを出る頃だ。自分の生まれ育った故郷を見ておこうと窓を見ると、線路沿いの道に誰か立っているのを見つけた。綾乃だ、と思った瞬間、彼女の父親が走ってきて綾乃の肩を抱いた。すると、どうやら明夫を見つけたらしく、彼は大口を開けて手を振り始めた。明夫がそれに応えて手を振っているうちに彼らの姿は流れていてしまった。

 座席に座り残して前を向き、深くため息をつく。列車がトンネルに入り、窓の外を暗闇が包み込む。

 明夫は今さっきの綾乃の姿を思い出していた。彼女は泣いていた。彼女の父の手でよく見えなかったが、朝日に光る一筋の線を綾乃の頬に見た時、見ている世界がスローモーションになった。確かにあれは涙だった。

 

 複雑な気持ちで都会に出た明夫の生活は多忙を極めた。いつか両親の元に帰ろうと思っていたが、そうするための時間が作れずにいた。結局、都会に来てからの三年間を、彼は一回も実家に帰らずに働きつめた。

 しかし四年目に入って早々彼が受け取った知らせは、彼を実家に帰らざるを得なくした。もともと肝臓を悪くしていた父の様態が急変した、との事だった。

 約4年ぶりに故郷に帰ると、前までは活気に満ちていた町が、心なしか寂れて見えた。やはり若い人たちは皆、町を出て行ってしまったのだろうか。

 小高い丘の麓あたりまで行くと、辺り一面にすすき畑が広がっている。明夫の家は、その端にポツンと建っている。久しぶりに見る実家は、想像よりもだいぶ小さく、どこか頼りなかった。出迎えた母は明夫を見ると顔を輝かせた。

「遠いところをよく帰ってきたねぇ。仕事はどうだい?」

「まあ順調だよ」母の嬉しそうな顔を見るのは何年ぶりだろう、と明夫は思った。しかし、今は父親の様態の方が心配だった。

「父さんは大丈夫?たしか危ない、って聞いたけど・・・」

 明夫が聞くと、母の顔は途端に険しくなった。

「・・・奥にいるから、挨拶してきなさい」そう言うと母は、明夫を座敷の部屋の前まで連れて行った。目の前の障子の向こうに父がいる。ひと呼吸置いてから障子をあける。

「父さん・・・?」

 父は縁側の方を向いて寝ていた。その背中にもう一度声をかける。

「えっと、久しぶり」明夫はそう言って布団の横に座った。「大丈夫?」

 すると父がゆっくりと明夫の方を向いた。その顔は暗く、落ち窪んでいた。昔のような覇気は無く、今はかろうじて命を保っている、という印象を受けた。

「明夫か・・・」彼は目を薄く開けて囁くように言った。「大きくなったな・・・」

「何言ってるんだよ、親父」明夫はニッコリと笑って言った。「まだまだ伸びるぜ?」

 元気そうな息子の顔を見て安心したのか、父は少し顔に生気が戻ったように見えた。

 しかし次の瞬間、彼は体を丸めて激しく咳き込み始めた。隣で静かに座っていた母が、慌てた様子で父の背中をさする。父は尚も咳き込んでいたが、手で口元を覆うとよりいっそう苦しそうな声を上げ始めた。すると、何かが彼の両手からこぼれ落ちた。その赤い何かを見た途端に母は台所へ飛んでいって、濡らしたタオルや錠剤らしき物を持ってきた。

 母に言われて最寄りの病院に電話をかけるまで、明夫は何が起こっているのかいまいち把握できずにいた。しかし母の慌てぶりや、父の苦しそうなうめき声からして、事態はかなり深刻そうだった。

 結局父は入院し、明夫と母は病院で一夜を過ごす事となった。一晩中父のベッドの横で看病している母の健気な姿は、なぜか熱く、滲んで見えた。

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