序章
序章
いつもは冷たく頬を突き刺すビル風がその日だけはやけに生暖かく、心なしか少し湿っていた。空を見上げると、そこにはまるで夜空を覆い隠そうとするかのように暗雲が重く立込めている。
一雨降る前に帰ってしまおう、そんな事を考えながら西田雄一は足を速めた。といっても家に着いたところで、暖かく迎えてくれる父や母は彼にはいない。
十月中旬にしては珍しい湿った風は街全体を駆け巡り、人々は少しの間、過ぎ去った夏に想いを馳せた。
そういえばあの日の風も今日のように湿っぽかった——。雄一はバスの待合所のベンチに腰掛け、遠くの自動販売機から漏れる淡い光を眺めていた。
金曜日の午後十時と言えば、サラリーマンやOL達は残業か飲み会で忙しい時間帯だ。そのせいか、いつもは会社帰りの疲れた中年達の姿がちらほら拝める待合所には、雄一しかいなかった。薄暗い蛍光灯に群がる蛾の、ハタハタ、という寂しげな羽音が時折耳に耳に入る。
あの日からどれ程の月日が経ったのか、彼には分からなかった。実際彼はその日の出来事を明確に記憶している訳ではなく、ただ漫然と、「何かがあった」、ということしか覚えていないのである。その「何か」は時々雄一の胸に浮かび上がり、小さな違和感を残して消え去って行くのだ。
今回もそれについて特に深く考えようとせずに、雄一は時々通る電車の平坦な音になんとなく耳を傾けていた。そうしてしばらくの間ぼんやりと座っているうちに彼の家の近くまで行くバスが到着し、雄一はあわてて定期入れを探った。
雄一は写真でしか父親と母親の顔を知らなかった。彼らの事について教えてくれる人は誰もいなかったので、彼らは死んだのかもしれない、と勝手に想像していた。例えそうだったとしても、一緒に過ごした記憶が無いので、あまり悲観的にはならずに済むだろう。
中学を卒業するまで、彼は児童養護施設に入れられていた。高校に入るにあたって名義上の問題から、雄一は安いアパートの一室を借りて一人暮らしを始めたのだ。
その日の空はますます重みを増し、溜め込んでいた物を一気に吐き出すかのように激しい雨を降らせた。バスに乗ってすぐに眠ってしまった雄一は、後二十分もすれば到着のアナウンスに起こされ、土砂降りの雨の中、傘を学校に置いてきた事に気付く、なんて事は夢にも思わずに熟睡していた。暗さを増していく空の下、雄一を乗せたバスはいきなりの雨に戸惑う人々を尻目に夜の闇へと消えていった。
そんなとある秋の季節、確実に「何か」が起ころうとしていた。そう、確実に——。
「ただいまー」佐々木結衣は玄関先に座り込み、廊下に向かって声をかけた。ずっしりとした疲れが全身を覆っていた。
「おう、お帰り」少し遅れて父の明夫がリビングから出てきた。愛煙家の彼のことだ、どうせ庭で一服でもしていたのだろう。
「どうした、ずぶ濡れじゃねぇか。傘は持っていかなかったのか?」
結衣はその場で制服の裾を絞って水をきりながら、朝はあんなに晴れてたから、とはにかみ気味に答えた。彼女が力を込めるたびに、しっとりと濡れた栗色の髪が結衣の顔の前ではらはらと揺れた。
まあな、と明夫は頷き、「さあ、さっさと風呂に入れ。今飯の準備してやるから」と台所に消えていった。
結衣は彼の後ろ姿に頷くと、顔にかかった髪を払い、のろのろと靴を脱ぎ始めた。玄関に上がると、彼女は重い体に気合いを入れるように短くため息をつき、風呂の支度を始めた。
結衣は彼女の母親、綾乃は彼女を生むと同時に亡くなった、と聞かされている。母親についてそれ以上の事を聞こうとすると、親戚や、明夫ですら不機嫌そうに話を変えようとするのだった。そのような周囲の反応から、結衣は母親に対してあまり良い印象を抱けずにいた。
しかしそんな彼女を、明夫は母親がいなくても不自由ないように一生懸命育ててくれた。結衣が小さい頃から彼は朝早くに起き、朝食と夕食の支度を済ませ、夜は遅くに帰ってから洗い物を済ませておいてくれた。彼の作る料理は決して美味しいものではなかったが、夕食の時、結衣は毎回おかわりをした。明夫はそんな彼女を疲れたように微笑みながら見ていた。何年か前の明夫の誕生日に、お小遣いを貯めて携帯灰皿を買ってあげたら、それから一週間はニコニコと笑っていた。結衣はそんな彼の笑顔を見るのが好きだった。
湯船につかると、少し熱めの湯が冷えきった体にしみた。
そういえば、と結衣は換気扇の方に流れていく水蒸気を目で追いながら、今日見かけた少年について考えていた。彼女は帰り際に見かけた、無人の待合所に座っていたその少年の横顔に、どこか見覚えがあるような気がしたのだ。毎朝公園を走っていた彼かもしれない。スーパーでよく見かけた彼かもしれない。たくさんの「彼ら」が結衣の頭の中に浮かんでは消えていった。残念ながらどんなに考えても、「彼ら」と「少年」は一致しなかった。しかし、待合所の少年が「彼ら」と同じように、近いようで遠い存在である事はどことなく感じていた。
「まあ、いいか——」結衣はしばらくの間天井から滴る水滴を眺め、諦めたように小さくため息をつくと、それ以上考えるのをやめてしまった。
ようやく勢いを弱めた秋の豪雨は、いつの間にか冷たい霧雨に姿を変えて街全体を包み込んだ。冷え込んだ空気は約一ヶ月程、その街を漂い続けた。