月の瞳
僕たちのキャンバス見学は、思わぬ形で百合ちゃんの行動にも影響を与えた。夏休みに各大学が行っているオープンキャンパス、それに百合ちゃんは参加することにしたようだ。とはいってもそれは志望大学のチェックではなく、絵の勉強の為に美術系大学のイベント。薫が調べてワザワザ勧めて来てくらたという事らしい。
「だって、百合ちゃんに良さそうなイベントだったから!」
薫はそう言って明るく笑う。
確かに百合ちゃんの描く絵はスゴいと思う。 最近美術室で描かれている経過を見られるようになってから特にその凄さが更によくわかるようになった。映画研究部の時に描いているイラストとは違いその絵に対する姿勢が違うともいうのもあるのかもしれない。そこには直向きな絵に対する想いと気迫というのが伝わってくる。絵を描いているときに百合ちゃんは真剣そのもので、静かに絵を見つめ筆を動かす時の表情はビックリするくらい大人びていてドキリとする。
またその描き方も面白く、百合ちゃんの油絵は、最初そこに何が描かれているか検討もつかないくらい有り得ない 色彩で描かれる。先日描いていた桜もそうだった。鮮やか過ぎる程真っ赤な背景に黄色 や茶色いーの何かが散らばり、黒と藍色の物体が中央にあり最初何を描いているのか分か らなかった。それが日を追う毎に赤い背景は 淡い春の空と大地になり、中央の謎の物体は あの日見た桜の木へと変化して、気が付くと絵の中に思い出の公園が蘇っていた。 これは昨年通ったアートスクールで学んだ 技法で油絵は最初に濃いめの色をのせておくとグッと深みのある色を帯びるらしい。その際、見えている風景の奥に潜んでいると感じる色で塗るとシックリした色を作り出せると いうことらしい。感心して聞いていたものの、僕には見えている景色の奥に潜んだ色と いう感覚は分からなかった。僕の目には青空 は青にしか 、桜の花びらは淡いピンクにしか見えない。 しかし百合ちゃんの目には、青空の中に燃え盛る炎のような赤を、桜の花びらの中に深く暗い青の色が見えていようだ。そんな下絵の上に積み重なってあの百合ちゃんの絵独自の突き抜けるような空気感と見ている人を何故か切なくさせるような不思議な深みをもつ世界になっている。これが百合ちゃんから見えている世界なのかもしれない。ただシンプルに綺麗とか圧巻とか単純な感想しか抱けない僕とは違って彼女から見える景色はもっともっと素敵で深い色合いをもった世界なのだろう。僕に見えないからこそ神秘的だし、それが百合ちゃんの目を通して見える世界だったから僕は大好きだった。
僕にとってその絵は百合ちゃんという人物の一部であり、モノで百合ちゃんという人物をより深く広く理解する為のアイテムの一つだった。絵というよりも絵を描いている時の彼女が好きだったと言うべきだろう。
寧ろその絵に夢中になっているのは絵を描いている百合ちゃんよりも薫だった。美術部の人に聞いてた話、あの文化祭の絵もかなり気に入っていたようで何回かやってきて、あの絵の前にずっと立っていたらしい。美術部への転部を強く勧めたのも薫。そしてオープンキャンパスの講座を見つけ薦めたのも薫。
薫とは、二年とチョッと一緒に過ごしてかたけど、僕や誰かにそうすべきという形で強要する事なんてなかった。僕の進路についても、その選択するまでの術を提案したものの何か具体的な大学を行くべきという話をする事は一切なかった。
後になって考えるとこう言う所からも薫の百合ちゃんに対する感情は単なる友達なんかではなかったというのが分かる。
美術部に落ちていたファッション雑誌を捲りながらも、『こんなファッション可愛いよね! 百合ちゃんチャレンジしてみなよ! 絶対似合うから』『この髪アレンジ面白い、今度こんな感じにしてみて!』という話もよくしていた。そして最後に『ビデも、喜ぶと思うよ!』という言葉をつけて、僕の方見て笑う。僕はその言葉に曖昧に頷くという事が多かった。百合ちゃんとのデートで行った美術館も薫が新聞屋から貰ったとか言う招待券だった事も多かった気がする。
百合ちゃんを積極的にプロデュースしようとする薫に、百合ちゃんも時々戸惑いの表情を見せていた。
どちらかと言うと百合ちゃんと穏やかな時間を楽しみたい僕、ファッション・アートとクリエイティブな世界へとアクティブに楽しませようとする薫。
人それぞれといったらそれまでだけど、どちらが、より百合ちゃんを愛しているのだろうか? と馬鹿な事を思うようになったのもこの頃からだった。同時にいままで他人にもった事のない執着心、独占欲という感情に戸惑う事になる。妙な対抗意識を薫に覚え、僕はより百合ちゃんに良い所を見せようと物わかりの良い恰好つけた大人びた行動をするようになる。薫は逆に、誰に対してよりも百合ちゃんの前で子供っぽい部分をさらけ出していき甘えていく、それらを含めて百合ちゃんは楽しそうに見守る。なんともおかしな三人組ができあがっていった。その三人組の状況を僕だけが無邪気に楽しめずにいた。
月の瞳(When Night Is Falling)
1966年 カナダ
監督 パトリシア・ロゼマ
脚本 パトリシア・ロゼマ
キャスト パスカル・ブスィエール
レイチェル・クロフォード
ヘンリー・ツェーニー
ドン・マッケラー
デイヴィッド・フォックス