落下する夕方
今年は気象庁の予測を尽く裏切る気候だった。桜は平年よりも十日も早く咲き始め、空梅雨という読みを裏切り六月に入った途端に豪雨の日々が続き、冷夏と言われていたのに七月に入るとスイッチが切り替わったかのような猛暑の日々が始まった。
かといってその季節の移り変わりは僕達学生の生活に何かの変化ももたらす事なく、変わらぬ日常が続く。ただカッターシャツの袖が長袖から半袖にしたくらいの変化である。
気候よりも僕を取り巻く環境の方がジワジワと鬱な方向へと日常を染めていく。三年生になって数ヶ月、受験や進路といった無言のプレッシャーが少しずつ確実に存在感を増して重くのしかかる。
僕は進路希望の紙を前に、答えを見つけられないまま悩んでしまう。二年生までは自分のレベルの少しだけ上の大学を適当に書いて提出していれば良かったが、三年生となるとそうはいかない。学費の問題もあるので、僕一人の問題ではなくなり、電話で親と相談する事も多くなった。 といっても、その会話は何処か事務的でよそよそしい。元々ベタベタした付き合いをしてこなかった親子だったが、この物理的距離が益々の心の距離を作ったようだ。
早々に医大への進路を決めている薫や、面白そうな事を学べそうな理工学部のある大学を絞ってきている清水を横に僕は焦りを感じる。
そもそも俺は大学に行き何を学びたいのだろうか? 何を目指しているのだろうか? そう考えると夢もなく、ただ漠然と生きてきた自分が恥ずかしくなる。だからと言って、さあ夢を見つけるぞ! と言って簡単に見つかる訳もない。頭が飛び抜けて良いわけでもない、何か才能がある訳でもない。平凡な僕には未来が見えそうで見えない。
そんな事をウダウダ悩み始めた僕にとって部活は最高の気晴らしの場で、恋人という存在は癒しだった。この二つの空間は、僕を日常から切り離し無邪気でいられた。
部活が終わり、美術部へと向かうといつもと違う空間がソコに広がっていた。それぞれが好き勝手な場所で絵を描いたりお喋りしたりしているのは同じだけど、今日は百合ちゃんの隣に人がいた。椅子の背もたれを抱き抱えるように座って楽しそうに百合ちゃんと話をしているのは薫。
薫のいつになく柔らかい表情で百合ちゃんと向き合っているのを見て、何故かソコに入るのを躊躇ってしまう。クラスにいる時だけでなく、僕や清水と一緒にいる時よりも優しく穏やかな表情に見えるのは気のせいなのだろうか? その表情に胸を締め付けられるような痛みを感じる。薫にとって、百合ちゃんは特別なのだというのが痛い程伝わってきて何も言えなくなる。そこには何故か邪魔したらいけない、薫にとってかけがえのない世界に見えて踏み入れるのに躊躇するものがあった。
同時にその世界を壊して、強引に自分という存在を割り込ませたいという相反する気持ちも生まれる。
その複雑な感情に戸惑っていたら、百合ちゃんがふとコチラに視線を向けてくる。その表情がハジけるように笑顔になり僕を迎え入れてくれた。その純粋な喜一色に染まった表情を素直に嬉しいと思うと同時に、百合ちゃんが薫ではなく俺を選んでくれているんだ、何遠慮する事があるんだ! という暗い優越感も湧き起こる。
「あれ? 薫、今日塾だったのでは?」
僕は一瞬感じた嫌な感情を押し殺して笑顔で二人に近付く。薫は僕とは異なり心の底から親愛の意味で笑っているのであろう笑顔をコチラにむけてくる。その表情がなんか眩しく感じた。
「サボった」
薫は近くにあった椅子を引き寄せ、自分は少し引いてその椅子を置き僕にすすめる。僕と百合ちゃんと薫が丁度綺麗な三角形を作る形となる。
「サボった? 珍しいな真面目なお前が」
座りながら薫を見ると、眉をよせて唇をつきだして返事に困っている。百合ちゃんがその様子をクスクス笑う。
「色々、複雑な事情があってね、今日は行き辛かったんだ。かといって家に真っ直ぐ帰ると怒られそうで……図書館に行こうと歩いていたら百合ちゃんがこの部屋にいるのを見てお邪魔していたんだ」
言い訳という感じではなく、溜息をつきながら愚痴るような口調。あまりにもいつもの薫で、嫉妬していた気持ちも薄れくる。薫は僕とは異なり気に入った相手には誰でも砕けた表情をみせるヤツだった。それを何故、百合ちゃんだけに特別な表情を見せるなんて思い込みをしようとしたのだろうか? つまらない嫉妬の所為だ。
「何かあったの?」
薫は『うーん』とうなってから、もう一度溜息をつく。
「実はさ、別の学校の女子からさ、突然告られてさ。なんか行きにくくて」
薫ならではの悩みというのもあるようだ。
「でもさ、逆にその女の子も今日、気不味くて来てないと思うけど」
僕の言葉に、薫が笑う。
「百合ちゃんと同じ事言うんだな。でも、そういうタイプではないんだ! 塾に何しにきてんだよ! という感じでチャラチャラしているというの? また妙に自分に自信あるのか、断ったのを信じられないとしつこく食い下がってくるし、スゴい面倒なタイプなんだ」
顔が良いと、こんないらぬ苦労もあるようだ。
「彼女いるからって言っとけば良かったのに」
百合ちゃんの言葉に溜め息をつく。
「虚しいなそれ、リア充から言われると」
薫は唇を尖らせて僕らをチラリと見る。僕らは困ったように顔を見合わせ照れて俯いてしまう。
「でも、そう言っとけば楽だったかもね。忙しいとか言ったら、『そんなんじゃダメだよ! 青春を楽しまないと!』と力説してウザいのなんのって……コレから受験という人が何言ってんだか。かなりハッキリと断ったのに帰りもマック行かないかと誘ってきて」
えらく積極的な女の子だったようだ。
「で、ついイライラして『馬鹿嫌いなんだ。あと空気読めないウザいヤツも』って言っちゃったんだよな」
薫はそう言ってから、傷付いた顔をする。
「相手はどういう反応かえしてきたの?」
僕が聞くと『ウ~ン』考える。
「ビックリしてから、怒っていたかな。なんかギャイギャイ言って去っていった……。
てもさ、ああいう感じで手軽に好きとか、付き合おうなんて言う神経って分からない」
薫はフーと息を吐く。
「その子、塾に来るようになってまだ一週間だよ!」
僕はそれを聞いて、『それは……』という言葉しか返せなかった。百合ちゃんも困ったように笑う。
「一目惚れって良く分からない。人が人を好きになるってスゴく大変な事だと思う。回りに様々な人がいる中で、一人の人が気になって、どうしようもなく好きになって……」
薫の言葉を聞きながら、僕は百合ちゃんとの事を考えていた。ただの後輩だった子が、可愛いなと思っているうちにどんどん僕の中で存在感を増していき、かけがえのない人になった。こういう真っ直ぐで真面目なヤツだから、僕は薫という人間が溜まらなく好きなのだという事を再認識する。
「そんな簡単な事ではないものだろ? 人を好きになることは。軽い感じで付き合いたいとか言えるような感情ではないだろ?」
いきなりコチラに質問を投げかけられて、僕と百合ちゃんは動揺するけれど、薫の言葉の通りだと感じたので頷いた。好きだと認識してから、その感情にどれ程戸惑い、そして伝える事を躊躇したものか。
「だよね……」
薫は何故か僕らに嬉しそうに笑った。彼らしい明るく晴れやかに見える笑顔だったのに僕にはその表情が何故か泣いているように見えた。人が少ない為に半分の電灯しか点けてない事で、何処か薄暗い美術室の昭明のせいだろうか?
薫がここ最近何かに深く悩んでいる事は察していた。しかしそれが、百合ちゃんへの恋愛感情だったら? という言葉を聞くのが怖くて、僕は気が付かない振りをしてやり過ごしていた。だからこの時、泣いているように感じた薫の表情を僕は昭明の所為にした。
百合ちゃんは、穏やかに笑い薫の頭に手を伸ばし、優しくポンポンと撫でる。この二人は不思議だ。あるときは薫がお兄さんぽく百合ちゃんを引っ張り、あるときは百合ちゃんがお姉さんな行動をとり薫を甘やかす態度をする。人に甘える事が意外と下手な二人であるが、ごっこ遊びの延長で、そういった行動を互い取り合い楽しんでいるようだ。
薫は子供のような幼い感じで俯いた。俯いていたけど、突きだした唇が、どこか照れて嬉しそうにしていたのに僕は気付いたけれど、そこは指摘出来ず、ただ笑みだけを浮かべその様子を見つめる事しか出来なかった。
落下する夕方
1998年 日本
監督 合津直枝
出演 原田知世
渡部篤郎
菅野美穂
国生さゆり
中井貴一