プライベートレッスン
『本能』というのは、心理学上では「特定の種の全個体に見られる行動パターンのことで、生まれながらに持っていて、意思や感情の力でも変更がきかない」というモノの事を指す言葉なようだ。欲に絡められたり、直感的な行動に対して使われる一般的に考えられている『本能』とは、かなりかけ離れたものなのだ。
大学の一般教養の科目だった心理学を教えていた先生が講義の中でこういう話をしていた。
『人間においては本能的行動といえる行為はただ一つしかない。赤ん坊が母親のおっぱいを吸う時舌を乳首に沿わせて丸める、というこの行動だけ。何故この行動を赤ん坊が誰からも教えられず出来るのかは謎だ。それ故にこれが本能によるものと定義されている。そして他の事は全てあらゆる形で個々が学んだ事の結果に過ぎない』
分かるような分からないような言葉である。『苦い』というモノを『不味い』と感じる事は『本能』のように思えるが、学習によってその概念を変えることが出来るのでコレは違うらしい。
『本能というなら、セックスは本能そのものだろ!』
すると学生の一人が、とニヤニヤとした顔でそう茶化してきた。その言葉を先生は怒るわけでもなく苦笑して首を横にふる。
『お前は本当にそう思ってるのか? 性行為なんてソレこそが学習しないと出来ない行為だ。人間は性行為は教えられなければ行う事が出来ない。社会生活を過ごす中で何だかの形で学ぶから行える行為なのだと。お前は最初からセックスを上手くやれたのか? そうでないだろ?』
茶化した学生が、少し顔を赤らめ気不味そうに顔を逸らした。先生はその後あえて追求はせずに言葉を続ける。
『実際問題、特殊な隔離された環境に置かれた子供は、その概念すら理解出来ずに育ってしまうという例は数多い、例えば――』と説明を続けた。
人間には本当に本能といえるものが他にないのかはともかく、性行為が学習しなければ出来ないという事は本当である。セックスは学んでいくものである。事実僕も学校の性教育だけでなく、小説、映画、聞こえてくる言葉の端々からその存在を認識し、愛する存在と出会い、今度はその相手と試行錯誤をしながら二人で学び実践していった。互いにどうしていった方がより楽しめるのかを身体を重ねていきながら経験で覚えていくのだ。
最初の方は技能不足という事に加え、互いに異性の裸体というモノにドキマギして、自分の裸を相手にさらしてしまっているという事にアタフタしていたように思う。しかし慣れてくると、互いの事を落ち着いて見る事ができ、ちゃんと向き合う事もできるようになった。お風呂とかの裸の付き合いという言葉があるが、男女のこういう場面でも同じ効果があるのかもしれない。裸体を晒してしまった相手には、心もさらけ出しやすくなるのかもしれない。月ちゃんは僕に甘えるようになって、僕も彼女にのめり込んでいった。
「こうしているのって、一番好き」
何度目か身体を重ねた後で、月ちゃんはベッドの上でのんびりしている時にそんな事を言ってきた。
「ん?」
「こうやって二人でまったりと抱き合っているのが」
そう言いながら抱きついてくる。僕がそこまで上手とも言えず、セックスにおいて月ちゃんを満足させているかというと自信がないだけに気をつかっているのかとも勘ぐってしまう。しかし意味が違ったようだ。
「なんか、未だに抱き合っている時はドキドキしすぎてイッパイイッパイになって自分の事で精一杯になってしまうの」
月ちゃんは唇を少し突き出して、顔をチョット赤くする。
「こうしている時の方が、一番先輩を落ち着いて感じられる。私がここに存在しているんだと思える」
僕は月ちゃんを抱き寄せ背中を撫でてやる。
「月ちゃんはズッといたよ! 去年の四月からもの凄くインパクトある存在として」
僕の胸の所にいた月ちゃんは、顔をあげチロリと僕を見上げてくる。少し目が不安そうだ。
「そんなに、私変でした?」
僕は慌てて否定する。
「イヤイヤ、面白い子だな……凄くカワイイなと」
そういえば、最初に部室の前で月ちゃんを見つけたのは僕だった事を思い出す。部員募集のチラシを撮影したらしい携帯画面を見つめながら部室の前に立っていた。
僕が声をかけると、一生懸命自分がどれ程映画が好きなのかを語り、『映画検定とかは資格はないんですが大丈夫ですか?』と不安げに見上げてきた。
その時いた僕と清水は思わずその言葉に大爆笑してしまった。
『いやいや、流石にそれは僕らももってないよ、映画が好きな人というのだけが条件だから! その点君はバッチリだね。歓迎するよ、ようこそ映画研究部へ』
そう答えた僕の言葉に心底嬉しそうな顔で笑った。すごくその笑顔を眩しく感じたのを覚えている。
「初めて会った時の事もよく覚えているよ。月ちゃんは?」
月ちゃんは甘えるように僕に身体を寄せてくる。
「覚えてます。緊張でガチガチになっていた私を、先輩の優しい笑顔が迎えてくれたから、ホッとしたの」
清水は隣でいつもの人の悪い笑みを浮かべていたのだけは分かったが、優しい笑顔だったかどうかは、自分では良く分からない。
「あの時緊張してたんだ! 凄く元気だったから」
月ちゃんはンっと少し身体を離し僕の顔を見る。そして困った顔をする。
「なんか緊張すると、テンパってしまってテンション高い子のように見えてしまうんですよね」
そのチョット膨れたような顔が可愛くて思わず笑ってしまう。付き合いだして一番変わったのは、月ちゃんがこういった表情を見せてくれるようになった事なのかもしれない。だんだん分かった事だけど、月ちゃんは他の人に対しては意外に素顔を晒していない。以前はちょっとした拍子にしか見られなかった月ちゃんの素直な表情に僕は嬉しくなる。月ちゃんが素で接してくれているという事と、僕だけが知る月ちゃんが増えていく事に。
「僕も、ニヤニヤ笑ってしまうみたいで、不真面目に思われてしまうんだよね」
月ちゃんが小さく顔を横にふる。月ちゃんの髪が僕の胸を擽る。
「違いますよ! 先輩の笑顔は優しさです! 相手への気遣いや思いやりの!」
自分自身は嫌いだった『誤魔化し笑い』をそのように表現してもらえて僕は少し救われる。
「その笑顔で、空間がホッとしたモノになるの。最高に居心地の良い場所に……私の大好きな場所に」
「ありがとう……僕の世界は、月ちゃんが現れてから色を持ち始めた気がする。銀杏の黄色とか、桜の桃色とか、月ちゃんが僕の世界に色をつけていく」
月ちゃんの言葉に比べ、僕の言葉は何言っているのか分からない微妙な言葉だったけど、真面目にそう思い語ってた。月ちゃんと会ってからいろんな感情を覚え、戸惑う事も多かった。しかし平淡で最悪に大変な事もないけれど最高に面白い事もない生活が、色々想う事でリズムを持ち彩度が上がり、味わい深い世界になった。とてつもなく甘くて、優しくて、心地良い世界。一見おぼつかない世界のようで、僕にとってこの世界こそが求めた世界だった。身体を繋げて、こうして他愛ない言葉を繋げてていきながら、二人だけの世界が僕のエデンだった。