溝の中の月
蝉の鳴き声もヒグラシへと変化し夏の終わりを告げる頃、僕はまた三人で遊ぶ為に渋谷の待ち合わせ場所に向かっていた。
自分の気持ちに気が付いたからって、僕の生活の何が変わるというわけではなかった。相変わらず、三人で仲良く出かけている。
変わった事といったら月ちゃんへのメールを前よりも悩んでジックリ考えて送るようになったことと、前よりも自然に月ちゃんと話が出来なくなったという事くらいかもしれない。
意識しなければいいのに、ドギマギして前のように自然に上手く話せない。とはいえ二人っきり状態の事が少ないので気まずくなることがないのはいいけど、月ちゃんと薫が無邪気に楽しそうに話をしているのを見るのもなんか嫌だった。
複雑な気持ちを抱えながら、待ち合わせとなっているLOFTの入り口を見ると、珍しく早めに来ている薫の姿が見えた。一見笑っているようだけど目付きがいつもよ何か怒っている感じで周りを囲っている女の子を見下ろしている。周りにいる女の子は、いかにも渋谷らしくコギャルという感じで明るい髪の毛に、露出の激しい洋服もまた派手で明るい色彩をしている。その女の子はイチャモンつけているという感じでも、逆ナンしているという感じでもなく、どちらかというと戸惑っている様子。薫はというと、一人の女の子の肩を手に守るように抱き寄せている。それが青ざめた顔をしながらも囲んでいる女の子たちに挑むようににらみつけている月ちゃんだった。
「どうかしたの?」
なんかただ事ならない様子に、僕はつい何も考えず近づき、声かけてしまった。全員の視線がこっちを見て僕はいささかビビる。ふと、薫と月ちゃんを囲んでいた女の子の一人が俺の顔をみて顔を硬くする。その顔に記憶があった。先日部室を訪れた北野のクラスメイトの近藤とかいう女の子だ。
「別に、ヒデも来たからもう百合ちゃん行こう! こんな馬鹿ブスほっといてさ」
薫がビックリするほど酷い事をいってそのまま、先に店の中へと月ちゃんの肩をもったまま入ってしまった。僕は訳わからず追いかける。振り返ると気まずそうな顔をした五人のコギャルがブツブツ文句いいながら反対側へ逃げるように去っていく。ただ一人あの近藤さんという子だけ怯えたように僕らを振り返って見ていた。
僕は我に返り、置いていかれないように追いかける。
僕らはとりあえず、フランチャイズ系カフェに三人で入った。顔色の直らない月ちゃんを落ち着かせたかったから。
店の隅の目立たない席をとり、僕は月ちゃんを薫にまかせ、三人分の飲み物を買いに走る。トレイに適当に頼んだ飲み物をもって戻ると、薫の慰めで月ちゃんもかなり落ち着いたようだけど顔色はまだ悪い。
「月ちゃん大丈夫、アイス珈琲と、シトラススカッシュと、ゆず茶スカッシュどれがいい?」
月ちゃんは小さい声でお礼を言い、ゆず茶スカッシュを受け取る。
「何かあったの?」
表情の硬い月ちゃんには話しかけられず、薫に訊ねる。
「あいつら、月ちゃんにイチャモンつけて囲んでいたの」
今時渋谷の真ん中で、そんな事があるものなのだろうか?
「大変だったね、月ちゃん」
僕の言葉に、月ちゃんは頷き弱々しく笑う。
「薫先輩が、助けてくれたから」
僕はその言葉に頷きながら、くだらないけれど薫に嫉妬を覚える。
「でも、アレ、何? 月ちゃんの知り合いにも見えないけれど」
薫はまだ腹立てている様子で大きく息を吐く。
「北野のクラスの子だよね? 一人は」
僕の言葉に月ちゃんはビクッとする。
「え! ウチの学校にあんな頭悪そうなヤツいる?」
驚いた様子の薫に、月ちゃんは小さく首をふる。
「……他の子は違います。中学校時代の同級生です。中学校の時もずっとあんな感じで……」
月ちゃんがポツリポツリと中学校時代の話を始める。中学校から関東に来た月ちゃんは、方言が原因で虐められていたようだ。はじめは言葉だけだったのが、そのうち物隠されたり、閉じ込められたりと、様々な嫌がらせを受け続けたらしい。そんな事女の子がするのか? といった内容に僕は言葉を失う。あえてそんな内容を、淡々と言う月ちゃん。薫も聞いていて、思いっきり眉を顰める。学校や教師が動き出したのも、月ちゃんが突き落とされて怪我してからだったようだ。
そんな酷いイジメが実際に身近な人の身に起こっていたという事実にショックをうけてしまう。だから、先日部室に近藤って女の子がやってきたとき、あんな表情になっていたんだと納得する。
「そういう事なら、あんなに穏便に済ませるんじゃなかった」
薫が怒りを込めた声で物騒な事つぶやく。
「月ちゃん、今は大丈夫なの? 近藤って子は同じ学校だけど」
でも僕は、別の事が気になった。
「クラスも違うし、一人だけだから、もう何もありません。
月ちゃんはそう言って少しニコリと笑う。僕はその言葉に少しホッとする。
「それにしても一生懸命勉強して、あの子らが絶対来られないレベルの聖徳高校にきたのに、まさか一人くるのは計算外でしたよ。落ちることを祈っていたのに、まさか補欠で滑り込んでくるなんて」
そういって、溜息をつく。その瞳は時々月ちゃんが見せるあの冷めた目だ。
「ああいうヤツらはつるまないと何も出来ないからね! それにもし月ちゃんにその近藤って子が何かしてきたら、僕にいってよ! 怒鳴り込みにいくから」
薫は明るい顔で、月ちゃんにそんな事を言った。月ちゃんはその笑顔につられるようにフフフと笑い頷く。
「でも、さっきの薫先輩、格好よかった! ドラマみたいでしたよ」
月ちゃんの言葉に薫は、嬉しそうに笑う。僕もようやくいつもの表情に戻ってきたのでホッとした。
「格好いいのは元々だから! それに可愛い妹が虐められていたら、お兄ちゃんとしては立ち上がるでしょ!」
薫は威張るように胸をはる。格好いいと自分で言ってギャグにならない所が薫の凄いところだろう。正義感が強くて行動的で、月ちゃんを迷いもせずに助けにいく。もし自分の方が早くついていたらどうしていたのだろう、あんな立ち向かうことは出来ず、ただ月ちゃんを連れて逃げただけかもしれない。
「頼りにしています、お兄ちゃん!」
月ちゃんも、薫の遊びにのって、妹を演じる。そんな遊びをしている二人を僕はぼんやりと見ていた。そんな月ちゃんが、ふと僕の顔の方を見つめてくる。
「星野先輩、今日は変な所みせてすいませんでした」
そして真っ直ぐ僕を見てから頭を下げる。僕は慌てて首を横にふる。
「そんな、月ちゃんは何も悪くないし、本当に今まで頑張ったんだね。えらいよ。今度から一人で戦わなくてもいいから」
月ちゃんは眼を真ん丸くして、僕を見返してくる。その黒目が潤んで揺れる。僕は月ちゃんが泣き出すのではないかと一瞬慌てるけれど、彼女はヘラと笑う。瞳を潤ませたままで。
「先輩達に話せて、なんか吹っ切れた気がします。気持ちが楽になりました」
その言葉の通り、心の中でしまってきた事を人に話したことで彼女は嫌な思い出から少しは解放されたのかもしれない。先程無理して笑っていた表情と違って晴れやかに見えた。一人で耐えて頑張って戦ってきた事、そしてそれをも乗り越えてこうして笑っている事、その健気さに愛しさがさらに深まる。僕はその小さい頭をそっと撫でた。月ちゃんの顔がチョット照れ臭そうなものに変わった。僕はそんな表情のチョットした変化も見逃さないほどズッと月ちゃんを見つめていた。月ちゃんもジッとコチラを見上げているために僕らはしばらく見詰め合ってしまう。ここが何処かも忘れて。
近くでズズっと音がして、僕らはハッとしてその音のする方に視線をやると。シトラススカッシュのグラスをもった薫が『あっ』という顔をしていた。
「ワルイ」
薫は困ったような顔で謝って、目をあさっての方向にむける。 月ちゃんは何故か顔を赤く顔を僕ら二人からそらした。
なんとも微妙な空気も喫茶店を出るといつもの三人に戻ることができた。
一緒に映画をみて、一緒にはしゃいで、三人で笑って。
とんだ事件にあってしまった月ちゃんだけど、こうして辛い過去も僕らと共有したことで癒され、もうこの問題はすっかり終わったモノだと、単純に思っていた。でも事態は思った以上に複雑で、月ちゃんがこの後さらに嫌な思い出を重ねることになるなんて考えもしなかった。まあこの時は月ちゃんもそんな事になるなんて思ってもいなかったようで、無邪気に僕らと笑い合っていた。
溝の中の月(La Lune dans le Caniveau)
フランス映画
監督:ジャン=ジャック・ベネックス
キャスト:ジェラール・ドパルデュー
ナスターシャ・キンスキー
ビクトリア・アブリル