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お嬢様第一侍女マリベル短編集

【連載版あり】お嬢様ああああああああああああああああ!!!!

掲載日:2026/06/25

※本作は、連載版『お嬢様ああああああああああああああああ!!!!』と同じ登場人物・題材を用い、短編として構成と展開を再執筆した作品です。

「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 公爵家の長い廊下を、侍女マリベルの絶叫が貫いた。

 窓ガラスが震えた。

 花瓶を運んでいた侍女が壁際へ退避し、階段を上っていた従僕が手すりへしがみつき、庭では植木を整えていた庭師が驚いて枝を一本多く切った。

 老執事は、騒ぎの聞こえた二階へ顔を上げた。エレノアの私室がある方角だった。


「何事ですかな」


 老執事が呟く。答えはすぐに返ってきた。


「お嬢様が泣いていらっしゃるのでございます!!!!」

「それは一大事ですな」


 公爵家において、公爵令嬢エレノアの涙は非常事態に分類される。

 しかも、その報せを最初に知ったのがマリベルであるなら、すでに非常事態では済まない。

 戦の始まりである。

 エレノアの私室の前では、二人の侍女が中へ入るべきか迷っていた。

 マリベルは、その間を風のように通り抜ける。

 扉の前で一度だけ足を止めた。

 走ってきた乱れを整える。

 エプロンの皺を伸ばし、髪に触れ、呼吸を落ち着かせる。

 どのような事態であろうと、主人の部屋へ入る際には礼節を守る。

 それが侍女である。


「失礼いたします、お嬢様」


 返事を待ち、少々勢いよくマリベルは扉を開いた。

 あくまでも少々である。


 長椅子の前には冷めた紅茶が置かれていた。

 手をつけられた形跡はない。

 その横で公爵令嬢エレノアは膝の上に手を重ねて俯いていた。

 淡い金色の髪が頬へ落ちている。

 いつもなら凛と伸びている背中が、今日だけはわずかに丸い。

 マリベルはそれだけで胸を引き裂かれたような気持ちになった。


「お嬢様」


 呼びかけると、エレノアはゆっくりと顔を上げた。

 泣いた跡があった。

 目元が赤い。

 唇には、無理に笑おうとした名残がある。


「騒がせてしまったわね」

「いいえ」


 マリベルは長椅子の前に膝をついた。


「お嬢様。何があったのか、お聞かせいただけますか」


 事情のあらましは、すでに聞いていた。

 夜会の庭園で、騎士セドリック・ラングレーが見知らぬ令嬢の肩を抱いていたこと。

 目撃した者が公爵家へ報告に来たこと。

 セドリックはエレノアと将来を約束していた。

 正式な婚約の一歩手前とはいえ、両家の間では話が進み、本人たちも互いを大切に思っていると周囲から見られていた。

 少なくともエレノアは、そう信じていた。


「見間違いかもしれないの」


 エレノアが言った。


「報せてくださった方も、遠くから見ただけだと言っていたわ。親しい令嬢を慰めていただけかもしれないし……」

「手を握っていたそうでございます」

「具合が悪かったのかもしれないわ」

「腰へ手を回していたそうでございます」

「倒れないように支えていたのかも」

「耳元で、親しげに何か囁いていたそうです」

「マリベル、私の逃げ道を一つずつ塞がないでちょうだい」

「失礼しました」


 沈黙が落ちる。

 部屋の時計だけが小さな音を刻んでいた。

 やがてエレノアは膝の上で指を組み直し、ぽつりと口を開いた。


「……私が、つまらない女だからかもしれないわ」


 マリベルの中で、何かが軋んだ。


「夜会でも、私は上手に甘えられないし、セドリック様がお疲れのときにも、気の利いたことを言えなかったもの」

「お嬢様」

「もっと愛らしく笑えたらよかったのかもしれない。もっと彼を頼って、守っていただけるような女性でいられたら――」

「お嬢様」

「私と一緒にいるより、その方といる方が、あの人は楽だったのかもしれないわ」

「お嬢様」


 三度目の声で、エレノアがマリベルを見る。

 マリベルは微笑んでいた。

 美しく。

 完璧に。

 怒りが極限まで達しているとは、誰にも悟らせない笑顔で。


「お嬢様は、何一つ悪くございません」

「でも――」

「悪くございません」

「私にも至らないところは」

「全くございません」

「それは言いすぎではなくて?」

「仮にお嬢様に至らぬ点が一つや二つや三つございましたとしても、他の令嬢と密会してよい理由にはなりません」


 エレノアが僅かに目を見開いた。

 マリベルは続ける。


「不満があったのであれば、お嬢様と向き合うべきでございました。話し合うこともなく、別の令嬢へ逃げたのであれば、悪いのはセドリック卿です」

「逃げた……」

「はい。恋人のお嬢様がいながら、他の令嬢に鼻の下を伸ばしたクソ野郎でございます」

「マリベル」

「失礼いたしました」


 マリベルは胸に手を当てた。


「誠意と節操に著しく欠けた、クソ騎士様でございます」

「言い直せていないわね」


 エレノアの口元が、ごくわずかに緩んだ。

 その小さな変化をマリベルは見逃さなかった。

 だが、笑ってくれたからといって事態が解決したわけではない。

 マリベルは立ち上がる。


「お嬢様。私は少々、外出してまいります」


「どこへ?」

「騎士団詰所へ」


 エレノアの表情が変わる。


「待ちなさい、マリベル」

「ご安心ください。事実確認を行うだけでございます」


 マリベルの右手には、いつの間にか黒塗りの鉄扇が握られていた。


「どうして鉄扇を持ったの?」

「日差しが強うございますので」

「今日は曇っているわ」

「では、不届き者が現れた際の備えに」

「もう日除けではないわね」


 エレノアが立ち上がる。


「マリベル。怒っているのは分かるけれど、乱暴なことをしてはだめよ」

「心得ております」

「本当に?」

「私は侍女でございます。あくまで礼儀正しく、セドリック卿のお話を伺います」

「その言い方をするときのあなたは、まったく信用できないのだけれど」


 マリベルは完璧な一礼をした。


「それでは、行ってまいります」

「待ちなさい」


 エレノアが手を伸ばす。

 だが、マリベルはすでに廊下へ出ていた。

 扉を静かに閉める。


 数秒後。


「ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」


 公爵家全体へ、宣戦布告のような絶叫が響いた。

 エレノアは目を閉じる。


「まったく心得ていないわ……」


 廊下の先では、老執事がすでに道を開けていた。


「騎士団ですかな」

「はい!」


 マリベルは一度も足を緩めず、その脇を風のように駆け抜けていった。

 老執事は遠ざかる背中を見送り、そばの従僕へ告げる。


「公爵様にご報告を」

「止めなくてよろしいのでしょうか」

「君には止められるかね?」

「無理です」

「それから、騎士団へも使いを出しなさい」

「マリベルさんが向かっていると?」

「いや」


 老執事は静かに首を振る。


「訓練場の治療師を増やしておくように、と」


 若い従僕は無言で駆け出した。



 ***



 王都騎士団の訓練場では、午後の鍛錬が行われていた。

 木剣が打ち合う音。

 教官の号令。

 武具の手入れをする騎士たちの笑い声。

 その日も普段と変わらない一日で終わるはずだった。

 正門の前へ、一人の侍女が現れるまでは。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 きっちり結われた髪。

 背筋は美しく伸び、歩き方は淑やかで、表情は穏やか。

 どこからどう見ても、公爵家に仕える品のよい侍女である。

 右手には、黒塗りの鉄扇が握られていた。


 門番はその侍女を見た。

 鉄扇を見た。

 もう一度、彼女を見た。


「何か、ご用でしょうか」

「公爵家侍女、マリベルと申します」


 マリベルは完璧に一礼した。


「セドリック・ラングレー卿にお取次ぎ願います」

「セドリックに?」

「はい」

「ご用件を伺っても?」


 マリベルは顔を上げた。


「ぶっ殺しに参りました」

「通せるわけがないでしょう!」


 門番は反射的に叫んだ。

 マリベルは、はっとしたように口元を押さえる。


「申し訳ございません。言葉が足りませんでした」

「足りないのですか!?」

「正確には、お嬢様を傷つけた経緯を伺ったのち、騎士としての信用と男性としての尊厳を、社会的に丁重に埋葬しに参りました」

「増えたな! 怖い部分が増えましたな!」

「では、お取次ぎを」

「できません!」


 門番が行く手を塞ぐ。


「いかなる理由があろうと、武器を持った者を詰所内へ入れることはできない!」

「武器ではございません」


 マリベルは鉄扇を胸元へ掲げる。


「お嬢様の日除けでございます」

「鉄でできているでしょう!」

「長く使えるよう丈夫に仕立てました」

「頑丈すぎます!」


 門番が槍を構えた。

 マリベルは悲しげに目を伏せる。


「騎士様が、侍女へ槍を向けられるのですか」

「あなたが物騒なことを言うからでしょう!」

「私はただ、お嬢様を裏切った男の尊厳を埋めに来ただけです」

「ただの範囲を超えている!」

「そうですか」


 マリベルは静かに鉄扇を開いた。


 次の瞬間。


 門番の槍が空へ舞った。


「え?」


 槍は弧を描き、少し離れた武器立てへ綺麗に収まる。

 門番の手には何も残っていない。


「ご協力、ありがとうございます」


 マリベルは一礼し、門を通過した。


「していません! 誰か、止めろ! 鉄扇を持った侍女が入ったぞ!」


 訓練場中の騎士たちが振り返った。

 黒い侍女服の女が、真っ直ぐに歩いてくる。


「止まれ!」


 一人の騎士が声を上げた。

 マリベルは足を止める。


「セドリック・ラングレー卿はどちらにいらっしゃいますか」

「先に身分と用件を言え」

「公爵家侍女、マリベルと申します。用件は、お嬢様を泣かせた不届き者への事実確認でございます」

「ここは騎士団だ。勝手なことは許されない」

「存じております」


 マリベルは微笑む。


「ですから、先ほどから大変礼儀正しくお願いしております」

「門番の槍を飛ばしたと聞こえたが」

「整理整頓いたしました」

「人の武器を勝手に整頓するな!」


 三人の騎士がマリベルを取り囲んだ。


「大人しく帰ってもらおう」

「お嬢様を泣かせた方にお会いするまでは帰れません」

「ならば、強制的に――」


 騎士の手がマリベルの肩へ伸びた。

 だが、触れるより先に鉄扇が動く。


 ぱん。


 手甲の留め具が外れる。


 ぱん。


 腰の剣が鞘ごと抜き取られる。


 ぱん。


 膝裏を払われた騎士が、その場へ正座した。


「なぜ正座!?」

「反省の姿勢でございます」


 マリベルは涼しい顔で答えた。


「次の方」

「次の方ではない!」


 二人目の騎士が木剣を構える。

 横から振り抜かれた木剣を、マリベルは鉄扇で受け流した。

 勢いを失った騎士の身体が、くるりと半回転する。

 いつの間にか、首に訓練用の布が掛けられていた。


「危のうございますので、動かないでくださいませ」

「何をした!?」

「汗を拭けるよう、布をお掛けしました」

「なぜ腕まで縛られている!?」

「落ちないよう固定いたしました」

「これは拘束だ!」

「見解の相違でございます」


 三人目はマリベルの背後へ回った。

 鉄扇の陰から、白いリボンが飛ぶ。

 リボンは騎士の足へ巻きつき、結び目を作った。


「待て、これは何だ!」

「蝶結びでございます」

「見れば分かる!」

「大変綺麗に結べました」


 騎士は一歩踏み出し、そのまま転びかけた。


 マリベルは襟首を掴んで助け、その勢いで正座させる。


「お怪我はございませんか」

「誰のせいだ!」

「ご無事で何よりでございます」


 騒ぎを聞きつけ、次々に騎士が集まってくる。


「侍女一人だ! 囲め!」

「武器を構えろ!」

「侍女一人に何人必要なんだ!?」


 訓練場の端で見ていた騎士が叫ぶ。

 その疑問は正しかった。

 しかし五人でも足りなかった。

 十人でも足りなかった。

 剣を抜けば鞘へ戻される。

 槍を突けば柄を軸に回転させられ、そのまま地面へ座らされる。

 盾を構えた騎士は、盾に「反省中」と書かれた紙を貼られた。


「いつ貼った!?」

「隙がございましたので」


 騎士の外套はいつの間にか柱へ結ばれ、兜は大きさ順に並べられていた。

 誰一人、重傷を負っていない。

 誰一人、マリベルへ触れられてもいない。

 ただ、訓練場には美しい正座の列だけが増えていった。


「おかしい……」


 騎士の一人が、痺れ始めた足を押さえながら呟く。


「俺たちは王都騎士団だぞ」

「存じております」


 マリベルは鉄扇を閉じた。


「ですので、もう少しお強いものと期待しておりました」


 騎士たちは一斉に項垂れた。


 訓練場の奥で、その光景を見ていた男がいた。

 金色の髪。

 整った顔立ち。

 侯爵家の三男として生まれ、幼い頃から剣術を学び、女性への愛想だけは騎士団でも一、二を争う男。

 セドリック・ラングレーである。

 マリベルと目が合った。

 彼の顔から、笑みが消えた。


「セドリック・ラングレー卿」


 マリベルは呼んだ。

 声は穏やかだった。

 セドリックは、反射的に一歩下がる。


「公爵家侍女、マリベルでございます」

「知っている」

「お話がございます」

「俺にはない」

「では、私から一方的に」

「それだと話し合いにならないだろう!」


 セドリックは周囲を見回した。

 仲間の騎士たちは正座している。

 助けを求めるような視線を向けたが、全員に目を逸らされた。


「お、お前たち! 立て! 俺を守れ!」

「足が痺れている」

「外套を柱に結ばれた」

「盾に反省中って貼られた」


 役に立たない。

 セドリックは逃げようとした。

 だが、足元に転がっていた訓練用の木剣を踏み、尻もちをつく。

 マリベルが歩み寄る。

 鉄扇を、ゆっくりと開いた。

 黒塗りの扇面には、金文字でこう書かれていた。


『お嬢様第一』


 セドリックの顔が引きつる。


「何だ、その扇は」

「お嬢様への忠誠心を形にしたものでございます」

「形が物騒すぎる!」

「セドリック卿」


 マリベルは、彼の前で立ち止まった。


「昨夜、ロザリンド男爵令嬢と庭園でお会いになりましたか」

「会っただけだ」

「手を握られましたか」

「挨拶だ」

「肩を抱かれましたか」

「足元が暗かったから支えただけだ」

「ロザリンド様の耳元で、親しげに何かを囁かれたそうですね」

「それは、その……彼女を慰めていただけだ」

「手を握り、腰を抱いたまま?」

「だから具合が悪そうだったんだ!」

「ずいぶん念入りな介抱でございますね」


 マリベルは頷いた。


「なるほど」


 セドリックが安堵する。

 マリベルは続けた。


「言い訳の才能もございませんのね」

「納得したんじゃないのか!?」

「しておりません」


 鉄扇の先端が、セドリックの鼻先へ向けられた。


「なぜ、お嬢様を裏切ったのでございますか」

「裏切っていない!」

「では、同じことをお嬢様の前でお話しできますか」

「それは……」

「できますか」

「……」

「できませんね」


 セドリックは黙り込んだ。

 マリベルの笑みが深くなる。


「お嬢様は、ご自身を責めておられました」


 セドリックが僅かに顔を上げる。


「もっと可愛げがあればよかったのではないか、もっと優しくできたのではないか。ご自身が至らなかったから、あなたが他の令嬢へ心を移したのではないかと」

「そんなふうに思わせるつもりはなかった」

「ですが、思わせたのでございます」

「……エレノアが、そんなことを?」

「あなたの不誠実な行いが、お嬢様にそう思わせたのでございます」


 マリベルの声から、笑みだけが消えた。


「お嬢様は、ご自身の痛みより先に、あなたの事情を考えられました。あなたを責めるより、自分に足りないものを探そうとなさいました」


 鉄扇を握る指へ、力がこもる。


「そのお嬢様の優しさへ甘えたことが、あなたの罪でございます」


 セドリックは何も答えられなかった。

 ただ、鉄扇を見つめる。


「すまなかった」

「何に対してでございますか」

「エレノアを傷つけたことだ」

「他には?」

「ロザリンド嬢と会ったこと」

「他には?」

「……彼女を軽く扱ったこと」

「他には?」

「まだあるのか!?」

「私が納得するまでございます」

「いつ納得するんだ!」

「お嬢様が笑われるまで」


 セドリックの表情が固まった。

 マリベルは鉄扇を閉じる。


「命は取りません」

「本当か?」

「はい。私はただの侍女でございますので」


 セドリックは大きく息を吐いた。


「ただし」


 マリベルが微笑んだ。


「お嬢様の名誉を傷つけた件については、社会的にきっちり死んでいただきます」

「結局殺すんじゃないか!」

「社会的に、でございます」

「違いが分からない!」

「後ほど、嫌でもお分かりになるかと」


 そのとき、訓練場の入口から低い声が響いた。


「誰か、この状況を説明しろ」


 王都騎士団長ヴィクターが立っていた。

 彼は訓練場を見回す。

 武器は地面へ並べられている。

 兜は大きさ順に積まれている。

 若い騎士たちは、ほぼ全員が正座している。

 数名は柱へ繋がれ、盾には反省中の紙。

 その中央には、黒塗りの鉄扇を持った侍女と、尻もちをついたセドリック。

 ヴィクターは眉間を押さえた。


「侍女殿」

「はい」

「何をしている」

「セドリック卿にお話を伺っております」

「話を聞くだけで、なぜ騎士団員が整列している」

「皆様、率先して反省の姿勢を取ってくださいました」

「違う! 取らされたんだ!」


 騎士たちが声を揃える。

 ヴィクターはセドリックを見た。


「何をした」

「俺が聞きたいです!」

「侍女がここまで来た理由を聞いている」

「それはその……エレノアと少し行き違いが……」


 マリベルが口を挟む。


「恋人の公爵令嬢がいながら、他の令嬢と庭園で密会なさいました」

「行き違いではないな」


 ヴィクターは即答した。


「団長!?」

「セドリック。後で詳しく聞く」

「その前にこの侍女をどうにかしてください!」

「そうだな」


 ヴィクターは正座している騎士たちを見渡した。


「お前たちは、まずその姿勢を解いて持ち場へ戻れ」

「はい……」


 騎士たちは痺れた足を押さえながら、のろのろと立ち上がる。

 ヴィクターはマリベルを見た。


「公爵家の侍女殿」

「はい」

「君の行動を全面的に認めるつもりはない」

「承知しております」

「セドリック。この騒ぎについては、後で詳しく説明してもらう」

「だ、団長……」

「それから」


 ヴィクターは訓練場全体を見た。


「この騎士団は鍛え直す」


 騎士たちの顔色が変わった。


「団長、それだけは!」

「侍女にここまでされた以上、反論はあるまい」

「私はただの侍女でございます」


 マリベルが付け加える。


「あなたは黙っていてくれ」

「失礼いたしました」


 そのとき、正門の外から馬車の車輪の音が聞こえた。

 公爵家の紋章が入った馬車である。

 老執事が先に降りる。

 続いて、公爵令嬢エレノアが姿を見せた。


「お嬢様!?」


 マリベルが初めて、明らかに動揺した。

 鉄扇で騎士団を制圧していた者とは思えないほど、目を見開く。


「なぜ、こちらに」

「あなたを止めるためよ」


 エレノアは訓練場を見渡した。

 正座する騎士。

 外套を柱に結ばれた騎士。

 反省中と書かれた盾。

 腰を抜かすセドリック。

 鉄扇を持つマリベル。


「遅かったようね」

「申し訳ございません」


 マリベルは深く頭を下げた。

 エレノアは静かに呼ぶ。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「これは何ですか」

「お話を伺った結果でございます」

「話し合いの結果、外套を柱に結びつけられることはないと思うの」

「お話の最中、落ち着きがなかったものですから」

「正座している方々は?」

「落ち着きを取り戻していただきました」

「盾に貼られた紙は?」

「反省の意思を可視化いたしました」


 エレノアは、しばらくマリベルを見つめる。


「帰ったらお説教です」

「はい」

「長いお説教です」

「はい」

「夕食の前と後に分けます」

「はい」

「反省してる?」

「お嬢様を泣かせた方へ事実確認に参ったことについては、反省いたしかねます」

「マリベル」

「ただし、騎士団の訓練を妨げた点につきましては、少々」

「少々ではありません」


 エレノアは深く息を吐いた。

 それから、セドリックへ視線を向ける。

 セドリックはゆっくりと立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、結局地面へ座ったままだった。


「エレノア」

「セドリック様」

「これは誤解だ」


 マリベルの鉄扇が開きかける。


「マリベル」

「はい」


 エレノアに呼ばれ、マリベルは鉄扇を閉じた。

 エレノアはセドリックを見る。


「ロザリンド様と夜会の庭園で会っていたのは、本当ですか」

「会ってはいた。だが、君が思うようなことではない」

「では、どのようなことですか」

「彼女が悩んでいたから、相談に乗っただけだ」

「手を握る必要があったのですか」

「それは、慰めるためで」

「肩を抱く必要も?」

「彼女が不安定だったからだ」

「ロザリンド様の耳元で、親しげに何かを囁かれたことも、相談の一部だったのでしょうか」

「……」



 セドリックが言葉に詰まった。

 エレノアの顔に、悲しみが浮かぶ。

 だが、もう俯かなかった。


「セドリック様」

「違うんだ、エレノア。君が嫌いになったわけではない」

「では、なぜ?」

「君はいつも完璧で……俺がいなくても、何でも一人でできるだろう」


 エレノアの指先が、僅かに動いた。


「君の前にいると、自分まで立派でいなければならない気がして、息が詰まるときがあった。ロザリンド嬢は俺を頼ってくれた。俺が守らなければと思わせてくれたんだ」

「つまり」


 エレノアはゆっくりと言った。


「あなたが私を裏切ったのは、私があなたに頼らなかったからだと?」

「そういう言い方をするな!」

「そう聞こえました」


 セドリックは立ち上がろうとする。


「俺は君を愛している。ロザリンド嬢とは、ほんの気の迷いだった」

「気の迷いで、私の気持ちを踏みにじったのですね」

「謝っているだろう!」


 その言葉が訓練場へ響いた。

 エレノアは静かに目を伏せる。

 マリベルの鉄扇が、ぱきりと鳴った。

 ヴィクターも険しい顔をする。

 セドリックは自分の発言に気づき、慌てた。


「違う。今のは――」

「セドリック様」


 エレノアが顔を上げる。


「私は、あなたに誠実であろうとしました」

「分かっている」

「分かっていなかったから、今ここにいるのではありませんか」


 セドリックが黙る。


「あなたが苦しかったのであれば、話してほしかった。私が頼らないことが寂しかったのであれば、そう言ってほしかった」


 エレノアは胸元で手を握る。


「けれどあなたは、私と向き合う代わりに、別の方から必要とされることを選んだ」

「エレノア」

「あなたは私を嫌いになったのではなく、私に誠実でいることから逃げたのです」


 訓練場が静まり返る。

 セドリックは、何も答えられなかった。

 そのとき、正門付近から女性の声がした。


「セドリック様?」


 皆が振り返る。

 桃色のドレスをまとった令嬢が、焼き菓子の箱を持って立っていた。

 ロザリンド男爵令嬢である。


「今日は訓練の後にお会いできると……」


 ロザリンドは訓練場の様子を見回す。

 正座する騎士たち。

 柱に外套を繋がれた騎士。

 鉄扇を持った侍女。

 そしてエレノア。


「何がありましたの?」


 マリベルが微笑んだ。


「昨夜の今日で、差し入れとは大変お元気でいらっしゃいますね」

「マリベル」

「失礼いたしました」


 エレノアはロザリンドへ一礼した。


「エレノア・アルヴァインと申します」


 ロザリンドの顔色が変わる。


「アルヴァイン公爵令嬢……?」

「はい。セドリック様と将来についてお話を進めていた者です」

「将来……」


 ロザリンドはセドリックを見る。


「どういうことですの?」

「ロザリンド、落ち着いてくれ」

「あなたは、親同士が勝手に決めた縁談で、心はすでに離れているとおっしゃいましたわよね」

「それは……」

「公爵令嬢との関係は形だけで、いつか正式に断るつもりだとも」


 エレノアの目が僅かに揺れた。

 マリベルの鉄扇が開く。


「冷たい縁談」


 声が低くなる。


「お嬢様との関係を、そのように?」

「マリベル」

「はい、お嬢様」

「今は私が話します」


 マリベルは唇を結び、一歩下がった。

 エレノアはセドリックを見る。


「私たちの関係を、そのように説明していたのですか」

「違う! ロザリンド嬢に心配をかけないために、少し話を――」

「嘘をついたのですね」

「だから、その場の雰囲気で!」

「あなたは先ほどから、随分と雰囲気に流される方なのですね」


 エレノアの声は穏やかだった。

 だからこそ、セドリックは何も言えなくなった。

 ロザリンドは焼き菓子の箱を抱えたまま、唇を噛む。


「私、婚約者に苦しめられているお気の毒な騎士様だと思っておりましたのに」

「ロザリンド、俺は本当に君を」

「今度は私に愛しているとおっしゃるの?」


 ロザリンドは冷たく言った。


「先ほど公爵令嬢にも同じことをおっしゃっていたのではなくて?」


 セドリックは黙った。


「ただの浮気男ではありませんか」


 マリベルが深く頷く。


「まったくもって、その通りでございます」

「マリベル」

「失礼いたしました。あまりにも的確でしたので」


 騎士団長ヴィクターが前へ出る。


「セドリック・ラングレー」

「団長」

「公爵家との関係について虚偽を述べ、別の令嬢へ接近したこと。騎士団の制服を着たまま私的な逢瀬を重ねたこと。すべて正式に調査する」

「俺の恋愛に、騎士団は関係ないでしょう!」

「公爵家の名を利用して同情を引いた時点で、ただの恋愛問題ではない」

「しかし――」

「それ以上の話は事情聴取で聞く」


 ヴィクターの声に、セドリックは黙るしかなかった。

 エレノアは彼を静かに見た。


「セドリック様」

「エレノア、待ってくれ。俺はやり直せる」

「私はもう、あなたがどちらの令嬢を選ぶのかを待つつもりはありません」

「違う。俺が選ぶのは君だ」

「私は、選ばれるのを待つ品物ではありません」


 セドリックの顔が強張る。


「これまでの時間については感謝いたします」

「なら――」

「ですが、これで終わりです」


 エレノアは一礼した。


「どうか、ご自身の行いと向き合ってください」


 そして背を向ける。

 その姿は凛としていた。

 けれど、歩き始めた一歩目だけは、ほんの僅かに揺れていた。

 マリベルはそれに気づく。

 すぐに駆け寄りたい。

 セドリックに反省文を千枚ほど書かせたい。

 だが、今はエレノア自身が歩こうとしている。

 だからマリベルは、半歩後ろへ下がった。

 主人の歩みを遮らない距離で寄り添う。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「帰りましょう」

「はい」

「それから」

「はい」

「帰ったら、お説教です」

「はい」

「騎士団の方々を正座させた件について」

「皆様がご自身で反省なさった結果でございます」

「外套を柱に結ばれている方は?」

「立ったまま反省していただきました」

「反省していないのは、あなたの方ね」

「お嬢様を泣かせた方へ会いに来たことについては、反省いたしかねます」

「マリベル」

「ですが、次回からは正座用の敷物を用意いたします」

「次回を作らないで」


 エレノアは呆れたように息を吐いた。


 馬車の前まで来ると、彼女は足を止める。

 訓練場を振り返った。

 セドリックは、騎士団長の前で項垂れている。

 ロザリンドは、焼き菓子の箱を抱えたまま彼から離れていた。

 エレノアはしばらくその光景を見つめたあと、小さく呟く。


「私、あの方に嫌われないようにすることばかり考えていたわ」

「はい」

「自分があの方を好きでいられるかは、考えていなかった」


 マリベルは黙って聞く。


「今日のあの方を見て……少し、目が覚めました」

「お嬢様」

「まだ悲しいけれど」


 エレノアはマリベルを見た。


「もう、自分が悪かったのだとは思いません」


 マリベルの胸が熱くなる。


「それでよろしゅうございます」

「ありがとう、マリベル」


 その一言で、マリベルの膝から力が抜けかけた。

 だが耐えた。

 侍女なので。


「もったいなきお言葉でございます」

「でも、騎士団へ殴り込んだこととは別です」

「殴ってはおりません」

「鉄扇で叩いていたでしょう」

「姿勢を整えただけでございます」

「人を鉄扇で整えないで」


 エレノアは、とうとう笑った。

 涙の跡が残る顔で。

 それでも、確かに笑った。

 お嬢様が笑った。

 ならば、今日の戦は勝利である。



 ***



 公爵家へ戻ると、玄関広間には屋敷中の使用人が集まっていた。

 誰も事情を詳しく聞いてはいない。

 それでも、主人が傷ついて帰ってくると知り、皆が待っていた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 一斉に頭が下がる。

 エレノアは驚いたように目を瞬かせた。


「皆、どうしたの?」


 老執事が答える。


「お嬢様がお戻りになると伺いましたので」

「それだけで?」

「十分でございます」


 エレノアの目に、再び涙が浮かぶ。

 マリベルは素早くハンカチを取り出した。

 今度の涙は、止めなくてよい。

 エレノアは泣き笑いのような顔で、使用人たちを見る。


「心配をかけてしまったわね」

「いいえ」


 マリベルが言った。


「お嬢様は、何も恥じることはございません」

「でも、私は騙されていたわ」

「信じたことは、恥ではございません」

「自分を責めたわ」

「それほど相手を大切にしていた証でございます」

「泣いてしまったし……」

「大切なものを傷つけられたのです。当然でございます」


 エレノアはハンカチを受け取る。


「私、本当は怒っていたの」

「はい」

「悲しいだけだと思っていた。でも、大切にしていた気持ちを軽く扱われたことが、悔しかった」

「はい」

「怒ってもよかったのね」

「もちろんでございます」


 マリベルは胸を張る。


「お嬢様が怒れないときは、私が代わりに怒ります」

「あなたの場合は、少し控えてほしいのだけれど」

「善処いたします」

「絶対にしない顔ね」


 広間に、ようやく笑い声が生まれた。

 その日の夕食は、いつもより品数が多かった。

 料理長は「食材が余っていたので」と言い張ったが、デザートにはエレノアの好物ばかりが並んでいた。



 ***



 その日の夜。

 マリベルがエレノアの髪を梳かしていると、鏡越しに声をかけられた。


「マリベル」

「はい、お嬢様」

「私、しばらく恋愛はお休みするわ」

「賢明なご判断にございます」

「でも、いつかまた誰かを好きになることがあったら」

「はい」

「あなたにも、その方を見てもらおうかしら」


 マリベルの手が止まった。


「お嬢様」

「なあに?」

「そのお役目、命に代えても務めさせていただきます」

「命は代えないで」

「では、相手の命で」

「マリベル」

「冗談でございます」


 エレノアは鏡越しに疑わしげな目を向ける。

 マリベルは完璧な笑顔を返した。

 侍女なので。



 ***



 翌朝。

 王都騎士団から、公爵家へ正式な書状が届いた。

 セドリック・ラングレーに対する事情聴取を開始したこと。

 騎士団の名誉を損なう行動が確認された場合、相応の処分を行うこと。

 そして、公爵家へ騒動について謝罪する内容だった。

 公爵は書状を読み終えると、もう一枚添えられていた紙へ目を向けた。


「マリベル」

「はい、旦那様」

「騎士団長ヴィクター殿より、依頼が来ている」

「どのようなご用件でしょうか」

「騎士団員への礼節指導、危機管理講習、武器を用いず相手を制圧する方法について、講師を頼みたいそうだ」


 エレノアが紅茶を置いた。


「受けてはいけません!」

「光栄でございます」

「受けるの!?」


 公爵は続ける。


「それと、我が家でも新たな役職を設けることにした」

「役職、でございますか」

「ああ」


 公爵は厳かに宣言した。


「エレノア専属恋愛監査官」


 エレノアは危うく、持ち上げたティーカップを取り落としかけた。


「お父様!」


 マリベルは深々と一礼する。


「謹んで拝命いたします」

「なぜ受けるの!?」

「お嬢様へ近づく者を、誠心誠意見極めさせていただきます」

「それなら、鉄扇は使っちゃだめよ!」

「もちろんでございます」

「正座もさせないで!」

「状況によります」

「そこは断言して!」


 公爵家の朝食の席に、穏やかな笑いが広がった。



 ***



 それから王都では、一つの噂が流れるようになった。

 公爵令嬢エレノア・アルヴァインを泣かせてはならない。

 泣かせれば、侍女が来る。


 黒い侍女服。

 白いエプロン。

 黒塗りの鉄扇。

 礼儀正しく名乗り、微笑みながら事実を確認し、気づけば周囲の騎士が全員正座している。


 その名は、マリベル。


 職業は、侍女。

 ただの侍女である。

 本人も、周囲も、そう言い張っている。


 武器は忠誠心。

 防具はエプロン。

 必殺技は、完璧な礼儀作法。


 そして今日も、公爵家のどこかで彼女の声が響く。


「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」


 屋敷中の使用人が、一斉に手を止めた。

 老執事は何も聞かず、ただ静かに頷く。


「馬車を用意しなさい。あと、公爵様にご報告を」


 公爵家の者たちは、もう誰も理由を尋ねない。

 お嬢様が呼ばれた。

 ならば、戦である。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


お嬢様第一侍女マリベルのお話は、他にもあります。


気に入っていただけましたら、次作

「お嬢様が殿下に断罪されるですって!? ぶっ殺してやりますわああああああああああああああああ!!!!」

もぜひ読んでみてくださいね。


また、本作とは異なる展開やエピソードを加えた連載版

「お嬢様ああああああああああああああああ!!!!」

も投稿しておりますので、そちらもお楽しみいただけましたら嬉しいです。


面白かった、続きも読んでみたいと思っていただけましたら、ブックマーク・評価・いいね・感想などで応援していただけると嬉しいです。


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マリアベルイケメンですか!? かっこよすぎじゃないですか!? 騎士団全員正座で噴き出して大爆笑しました。(〃艸〃)ムフッ マリアベル最高ですね。エレノア嬢のツッコミが的確(笑) どっちも大好きです。
内容とは無関係なのですが、マリベルって何歳なのでしょうか? きっと若いはずと思いながらも、どうしても頭の中ではオールドミス(死語)で再生されてしまって……
めちゃくちゃ笑いました"(∩>ω<∩)" 最強侍女様素敵過ぎるー! エレノアお嬢様とのやり取りも、騎士団での暴れっぷりも、痛快過ぎてカッコよすぎです(*´▽`人) なんだかんだ窘められても鉄扇を没…
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