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カリヤとユズ 3

「ええと……言ってる意味がわかんないんっすけど」

 素の自分(ユズって、ユズルのユズ、なんだろうな、きっと)とか、“うらぱら”とか。

 あの一瞬で、一気にアルコールが全身の毛穴から蒸発してしまったかのようだ。俯いてカリヤから視線を逸らしたまま、シャツのボタンを留め直しながらそう言った。破裂するんじゃないかと思うほど派手に脈打つ心臓を隠すような自分の所作に気づくと、密かに奥歯を噛みしめてしまう。

「見抜く目には自信あったんだけどな。……ま、いいや」

 カリヤはそう言って少しも悪びれる様子を見せず、堂々と隣へ座り直した。途端、自分の意思と無関係に揺れる肩。

「なーにビビってんだよ。無理強いは趣味じゃねーよ」

 いつもの小馬鹿にする皮肉な笑みに戻っている。それが譲に『拓巳』という仮面を被られてしまったと感じさせた。醒めていく感覚の中、譲も『涼雅』のペルソナを張りつける。

「……別に、ビビってなんかいないっすよ。ウザいって本音が態度に出ちゃっただけですから」

 隣でかすかに空気の揺れる気配がする。ぼす、という小さな音が、彼の仰向けに寝転がる姿を想像させた。

 気まずい沈黙を先に破ったのは、今度はカリヤの方だった。

「あ、他の連中には、“うらぱら”の件は口にすんなよ」

 あっちの話に触れないで済むなら、ほかのどんな話題でもいい。渡りに船とばかり、譲はその話に食いついた。

「そうだ。“うらぱら”って、何ですか」

 何となしにベッドの方を振り返れば、頭の後ろで両手を組んだカリヤと再び視線が合う。拓巳のペルソナを被ったと思ったのは気の所為だったと思わせるほど、さっきの――見上げた時に見せた無防備なカリヤの、吸い込まれるような瞳の色だった。

「あ~、話すとちっとなげーんだけど」

 少しだけ、警戒心が緩んで張っていた気持ちがほぐれて来た。少し頭が朦朧として来ている所為もあるのかも知れないが。腰をひねっている姿勢がつらくて、ベッドの上にちょこりと座る。カリヤもあわせるように、ベッドの上であぐらの姿勢に身を起こした。

「お前の推察どおり、ここって元はいわゆるブティックホテル、って奴だったんだけど」

 当時この建物のてっぺんを煌びやかに飾っていたネオンが『Paradice』という文字看板だったらしい。そこの経営者だった女が、オーナーが数多く抱える店の一店舗の上客だったが、担当に熱を入れ過ぎて何やらややこしい事態を起こし、オーナーの逆鱗に触れた彼女が経営するこの建物を結果的に手に入れたのだそうだ。

「ま、掛け売りを繰り返した挙句飛ぼうとしてたんだから自業自得なんだけどなー」

 そんな話を聴いて思ったのが、

『オーナーとは一度も会ったことがないけど、担当に払わせる選択をしなかったなんて意外といい人に拾われたんだな』

 なんて感想だったのは覚えている。

「それが“ぱら”の方の由来なんだけど、“うら”ってぇのは――」

 そのあとも、何か言っていた気はするのだが。

 ――ユズ?

 そう呼び掛けられた気もしたのだけれど。


 ふわりと浮いた感覚が、水に浮いてゆらゆら揺られているようで気持ちいい。そのまま吸い込まれそうになる。

(何に?)

 ぴたりと揺れが止まると、ほんの少しの間だけ寒くて身体を小さく丸めたくなった。どこか遠くからくすぐったい声がする。

 ――おら、風邪ひくだろうが。

 乾いた布地の感触が、さっきとは別の意味で心地よい。不自由な動きを感じてなんかいなかったのに、乾いた布地がそれを教える。

「……あったけ……」

 ふんわりと柔らかく包む感触。コト、コト、と刻む優しいリズム。

 前髪を揺らす定期的な風も、譲の睡魔に手を貸し、深い眠りへといざなった。



(家に抱き枕なんてあったっけ?)

 胎児のような姿勢で何かを抱きかかえたまま、薄ぼんやりと考える。きっと最初で最後の贈り物――水色と濃紺のストライプのネクタイ。一度だけこんな風に、互いに互いの足を絡めて温めあった儚い記憶。その人が贈ってくれた、たったひとつのたからもの。

(佳奈子さん……)

 実家へ帰れるはずもないのに、なぜそんな勘違いをしたのだろう。覚醒していく意識の中で、徐々に記憶を取り戻す。それにすり寄せて拭った瞼の受け取った感触が、柔らかとはほど遠い肉質を受け取った。

「う……」

 煙草の匂いとコロンの匂い、それらと混じってかすかに漂う、人の生まれ持つ体臭――男の匂い。

「わああああぁぁぁぁぁぁぁああああ!」

 走馬灯のように駈け巡った奇妙な昨夜の諸々の出来事が、一瞬の内に譲の身を飛び起きさせた。ベッドから慌てて飛び退き部屋の隅へ逃げれば、自分の着ていたものがすっかり変わっている。ぶかぶかのTシャツにずり落ちそうな短パン。どう思い出してみても、自分で着替えた記憶がない。そもそも着替えを持ち歩く習慣自体がなかった。咄嗟に壁に張りつけていた両腕で、慌てて落ちそうな短パンをずりあげた。

「……うっせ。……今、何時?」

 カリヤが面倒臭そうについさっきまで譲の枕になっていた腕を動かし、仰向けから横へと姿勢を変えながら寝ぼけた声でそう訊いた。訊かれて初めて自分も気づく。カーテンの隙間からの陽射しが、赤とも黄色ともつかない色に変わっていた。

 時間を確認しようにも、ケータイを入れていたジャケットがどこにあるのかわからない。

「わ、わかんない……っす」

 辛うじて出した中途半端な敬語が、少しずつ理性を取り戻した。

「センパイ、ボクの服……」

 どこにある、と訊けばよいのか、どうして着替えているのか、と訊けばよいのか。言い掛けた言葉が途中で切れた。向けられた背中を凝視する。なかなか返って来ない返事とそれが、譲を落ち着かない気分にさせた。

「あの」

「あ~……、服は集配のクリーニング屋に出しちまった。すっげぇゲロ臭かったし。あんなん着て帰れんだろ」

 かったるそうな寝ぼけ声がようやく返って来ると、冷たく見えた背中がくるりとベッドの下を向いた。

 気だるい仕草で両の手がその瞳を隠す。カリヤの横顔をまともに見たのは、思えばこれが初めてかも知れない。鼻のでかい奴は精力絶倫と何かの本で読んだ気がする。彼の顔を縁取る西陽のラインを見て、でかいと高いは違うのかな、という下世話な疑問がふと浮かぶ。そんな自分の発想が男だな、と客観視すると、妙な安堵感に包まれた。

 一度大きく息を吸って、思い切り吐き出す。

「ありがとうございます。ついでにセンパイの服で、もそっとマシな奴を借りてっていいっすか」

 大丈夫だ。オレはノンケでこいつと同類なんかじゃない。

 自分の中にそんな意思を確立すると、手探りでヘッドボードと一体化したラックにある目覚まし時計を手にするカリヤに近づいた。

「おんなじシチュで相手が女だったら、ボクなら遠慮なくゴチソウになってるとこっすけどね。センパイが小心者で助かりましたよ」

 挑発的にカリヤの顔を覗き込む。気後れのない微笑とともに、暗に侮蔑の言葉を叩きつけた。

 カリヤの顔を覆っていた大きな両手が彼の視界だけを開放する。

「……無理強いは趣味じゃない、って言ったはずなんだがな」

 ビビリはお前だろう、という言葉とともに淡いブルーの瞳の刺すような強い視線が、譲を一瞬怯ませた。

「寝言でほかの女の名前を呼んでる奴をファック出来るか馬鹿野郎」

「!」

 緩慢な動きが急に機敏に変わる。かわす暇もないままカリヤに頭を鷲掴みにされ、『拓巳』の口調と思わせる強く低い声で告げられた。

「枕営業するならするで、昔の女を捨ててからにしておけ、このタコ」

 譲をすり抜けるようにベッドから抜け出すカリヤを振り返ることが出来なかった。借りだけでなく、弱味まで握られた。今まで誰にも、晒すどころか気を許したことさえなかったのに。

「帰りたきゃ帰りな。俺も寝過ごしたからメールで忙しいし。いつまでもお前の子守りなんかしてらんねーし」

 何で寝てしまったんだろう。どうして突然佳奈子が出て来たんだろう。なんで、よりによってカリヤなんかにそれを知られてしまうほど気を緩めてしまったんだろう。

「お前みたいな激甘ジャリボーイが、この俺さまに偉そうな口利いてんじゃねえよ」

 乱暴にベッドへ放り出された外出着一式とともに、そんな冷たい言葉の雨が降った。

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