帰りたい場所 5
ラーメン屋までタクシーで送られた。
「時期が時期なだけに、北海道のホンモノの親父には連絡したんだけどよ、飛行機の空きがなかったんだよ」
帰りの車中で、そんな話を聞かされた。
北海道のあの家に、もう佳奈子がいないこと。恵那は父が帰って来ないのをよいことに、ユズも世話になっていた魚澄のおばちゃんに預けっぱなしだったらしい。父にあの手紙を書かせたのは、カリヤだったそうだ。先に事実を話したら、きっとユズは帰って来ないだろうから、と。
何故父が殴り合いの喧嘩をしたカリヤに保険証や金を預けたのか、という質問にだけ、カリヤは徹底的に無視を決め込んだ。
カリヤはこれから、アメリカに独りで暮らす父方の祖母と改めて養子縁組をするらしい。向こうに籍を置いて、カリヤグループの尻拭いをするべく私財を元手にカリヤグループ全ての経営店舗を買収し、再建を図るそうだ。榊支配人は解雇、Paranoiaを始めとしたクラブ関連の支配人に誠四郎を任命し、顧問会計士はその彼氏に、シュウをカリヤの後継者としてParanoiaへハントの打診をした結果、いずれも快諾したとのことだった。
「ばあちゃんがさ、末期がんなんだとよ。孝行する親もいねえし、勝手に独りだと思い込んでたってのも、もう若かったから、なんて言い訳出来ねえ年だろ、三十一、っつったらよ」
ずっと隠していた年齢を、初めてカリヤが口にした。
「うそ」
思わずしげしげと顔を見る。そんなにおっさんだったのか。
「てめ、今おっさんとか思ったろ」
カリヤの片眉がひくりと動き、頬の筋肉が引き攣れた。笑っているつもりらしいが、どう見ても怒っている。
「や、えっと……わ、若いよね、見た目と性格は」
ひと言余計だとゲンコツを食らった。
こうやって他愛ない話をしていれば、何も変わらない気がするのに。何かが確かに変わっていた。いつの間にか、先輩後輩の関係とか、トモダチとも少し違う距離感とか、そんな言葉に表し切れない、こんなやり取りが気楽に出来る、こんな関係がずっと続くと思っていたのに。
――お前はホストよりも、調理師とかのが向いてんじゃねえの。
自分はうらぱらの中に、入れてはもらえなかった。カリヤは、「てめえ」ではなく「お前」と言った。きっと本人は気づいていない。よくよく考えてモノを言っている時、相手を「てめえ」ではなく「お前」と呼び変えている変な癖のことを。
「痛むのか?」
カリヤの肩にコトンと頭を載せたら、変に気を遣われた。そんなヤツじゃなかったのに。立ち位置が明らかに変わっていた。
「……」
小さく首を振るのが精一杯で、カリヤはそれを勝手にやせ我慢と勘違いした。
時間は嫌でも過ぎて行き、ユズがどんなに拒んでもしかるべき場所へ辿り着く。親父さんが店も開けずにユズの帰りを表で待っていた。
「親父さん、あの色々迷惑掛けて」
親父さんはユズの言葉を待たずに、腕を引いて店の扉を開けた。
「固ッ苦しい挨拶なんか面倒だ。冷えてんじゃねえか。さっさと中へ入れ」
背を押されて扉の向こうへ押し込まれる。振り返った刹那、カリヤの微笑が目に焼きついた。
「んじゃ、元気でなー」
いつもと変わらぬ普通の挨拶。相変わらず不遜で小馬鹿にするような高飛車な微笑。寂しげに見えたのは、自意識過剰なのかも知れない。
「カリヤっ」
――See you.
別れの挨拶としての「ばいばい」なのか、文字どおり「またな」という意味なのか、ユズにはっきりと示さないまま、カリヤを乗せたタクシーは行ってしまった。
あっけない終わり。同じ明日が来ると勘違いしてしまいそうなほど。
だけど、間違いなく違う明日が来る。もうカリヤと会うことはない。はっきりとそう言われた。自分はアメリカへ行くんだと。お前は実家へ帰れと。裏界隈より表の仕事がお前には向いているだろうから、と。
「ユズル?」
店から土間を上がって部屋へ行くことが出来ないでいた。
「……っ」
膝を抱えてコンクリート床のキッチンにへたり込み。
「ひっく……」
「おめえさん……うらぱらに帰りたかったのか」
親父さんじゃなくて、カリヤにそう気づいて欲しかった。
それからいろんなことがあって。
父親と、初めて殴り合いの喧嘩をした。初めて自分の言いたかったことを親にぶつけることが出来た。
「だからっ! カリヤにそそのかされて中退したんじゃなくて」
初めて人を殴る為に拳を握って横へ振った。
「オレがっ、自分でっ」
ぼくっ、と嫌な音が父の頬から鈍く発せられる。
「そういう場所がどんなところなのか知りたくてホストクラブに勤めてたんだっつってんだ、馬鹿親父っ!」
襟を掴んだ手首を掴まれ、手加減もなく捻られた。
「いっ?!」
「ば……っ、こ、この野郎! ほすとなんて、女を騙すような商売なんかに」
ぱーん、とすごい音がし、キーンと耳鳴りがこだまする。頬に痺れるような痛みが走り、身体ごと壁に吹っ飛んだ。
「そういう父ちゃんだって、佳奈子さんを姫から掻っ攫って来たんじゃないかっ」
力ではやっぱり肉体労働をして何十年の父親には敵わない。ユズは切れた口角を拭いながら、それでも怯まず父親を睨みつけて言葉で応酬するのを諦めなかった。
「う……」
「自分だって金でチヤホヤされるところへ出入りしたことある癖に」
ゆらりと立ち上がってまっすぐ見ると、いつの間にか父親よりも視点が上がっていた。
「あれは……組合の旅程に組まれててだな」
ユズの突っ込みにたじろぎ、しどろもどろで言い訳する父親が今までより小さく見えたのは、身長差が逆転したからだけ、なのだろうか。
「土産が借金まみれのホステスだったのかよ」
虚勢を張り続けると決めたばかりなのに、語尾につい苦笑が混じってしまう。
「う……」
やっと本当に思っていること、帰りたい場所を言葉に出来た。
「中に入って初めて解ったんだ。金で人の心を売り買いする場所なんかじゃなくて、夢や癒しを求める人に、望むことの欠片をあげられる場所なんだ、って」
それは客が一方的に癒しや贋物の愛情をもらうのではなくて。
「お客が吐き出していく愚痴の中から、自分だけが作り笑いをしてるって訳じゃないって解ったり、みんなそれぞれ一生懸命生きてるんだ、って教えてもらったり」
特にParanoiaには、変わったお客や、水商売の人が癒しを求めて来る人が多かったから。
「あれは、カリヤがいろんな意味で、マイノリティだったからだと思うんだ」
「まいのり……?」
「社会的少数者。いろんな意味で、普通の人と違うっていうか。イケメンなのにそれを自慢にしてないし、その癖生い立ちや生き方に卑屈さを持っていたとしても、それを表に出さないで、堂々としてたし。それに」
厳密に言えば、みんな一人一人違うんだ、マイノリティなんて、本当は全ての人に言えることでもあって、そんな定義がないとも言える。それを知っている奴だったから、あんなオラオラ系のキャラを演じていても、指名が殺到してたんだ、きっと。
「譲?」
あれからひと月以上が経って、今の生活にも慣れて来たのに。カリヤがいないことにだけ、まだ慣れない。こうやって名前なんかを口にしてしまうと、つい。
「何だよ。喧嘩別れでもして来たのかよ」
父が首に巻いていたタオルをするりと抜いて、ユズの顔を乱暴にこすった。
「がっ、ガキじゃないんだからっ」
「ガキみたいに泣いてるじゃねえか、ボロボロとよ」
「……」
東京に帰りたきゃ帰りゃいい、ただし恵那の許可を得たらという条件つきだ。父はそれだけ言うと、先に寝ると言って自分の部屋へこもってしまった。
帰りたいのは、東京、というより、場所ではなくて、巧く言えないのだけれど。
「あの空気の中に、いたいんだ」
ひとりぼっちになった居間で、「うらぱら」と小さく呟いた。
腸炎の完治を受けてからすぐに、上京してラーメン屋の親父さんのところへお礼を兼ねて挨拶に赴いた。
「おめえさん、冬場しかいなかったからな」
今夏最初の冷やし中華を食う客になれた。
「あは、ありがとうございます。ずっと療養食ばっかだったから、麺類をすごく食いたかったんですよ」
「けっ。えらい愛想がよくなりやがって」
毒舌は相変わらずだが、親父さんは滅多に見せない笑顔を見せてくれた。
「今は何してるんだ」
「魚澄っていう料亭で板前の仕事をしながらフードコーディネーターの資格を取ろうと思って勉強してます」
「ふーど、なんだって?」
「フードコーディネーター。調理師みたいなものって言えば少しは近いのかな。栄養学だけじゃなくて、デザインとか食事のコンセプトとか飲食店の経営に関わることで、食に関することなら何でも、みたいなトータルコーディネートをする仕事」
うらぱらに、いつか絶対帰るんだ。もっと自分を磨いて、うらぱらのみんなと対等でいられる自分にしてから、誠四郎を訪ねようと思っている。そんな話をしたら、親父さんは随分とそっけなく「ふん」とだけ相槌を打った。
「まったく。最近は何でもかんでも横文字で言やあ恰好がつくと思いやがって」
そんな風に言いながらも、ユズの青写真には反論をひとつもしなかった。
調理師とフードコーディネーターの資格を取って、それからすぐに、という訳にはいかなかった。恵那は反対しなかったけれど、ユズの方が恵那を放っておけなかった。
「兄ちゃん、母ちゃんはいつ帰って来るの?」
よくも悪くもここは田舎で、どうしても口さがない噂が恵那の耳に入る危険性が高い。魚澄のおばさんの協力もあって、恵那は随分長いこと事実を知らずに済んでいたのだけれど。
「住み込みの仕事の契約が六年と六ヶ月だから、うーんと、恵那が中学生になったら、ちゃんと帰って来てくれるよ」
「嘘でしょ」
翳る表情と声に、どきりとして問い返した。
「うそ?」
「マサキに、今日言われたもん。お前の母さんは悪いことをして警察に捕まったんだ、って。詐欺師の子供って、言われた」
マサキ。確か父と折り合いが悪かった、漁業組合に加盟している漁師のところの、孫だ。いつも漁獲が父を越せなくて、自分よりも若造の癖に給料をがめて行くとか何とか、魚澄で飲んではくだを巻いて帰っていくくそじじい。
ユズは恵那に見えないちゃぶ台の下で、ぐっと拳を握って感情が噴き出すのを耐えた。
「恵那。恵那が中学へ行ったら話そうと思ったんだけどね。もう半分成人式も済んだし、ちょっと、大人の話をしようか」
多分、父ではどうにも出来ないと思った。パニックを起こしてうやむやにするか、逆にあからさまに全てを話してしまうだろう。幸か不幸か遠洋に出ている今なら、ゆっくり恵那を落ち着かせる時間を持てると踏んだ。
「佳奈子さんが刑務所に入っているのは、本当。でもね、それを悔やんで、やり直そうと思って、だから父ちゃんと結婚して、そして恵那が生まれたんだよ」
何をしたのかについては、佳奈子と直接話したらいい、と言った。勿論たくさんお母さんに甘えてから、帰って来た時にもまだ気になるようであれば、という前置きをつけて。
「今、知りたい」
「話してもいいんだけど、もしオレが佳奈子さんだったら、自分の口から伝えたいと思うから。だってさ、オレは佳奈子さんにはなれないから、佳奈子さんの気持ちまで代わりに伝えてあげられない」
まだ佳奈子の良心を信じている自分は、カリヤの言うとおりお人好しの馬鹿かも知れない。それでも、信じていたいと最終的に思えた。
――ユズ、愛して。
あの時の切実な声は、真実だと思ったから。本当の声だと思わせたから。
「恵那が佳奈子さんを必要と思っている限り、大好きでいてくれる限り、きっと嘘なんかつかずに、本当のことを話してくれると思うんだ」
ひとりぼっちが寂しくて、いつも誰かといたい人だったから。そう言うと恵那は、
「あたしや兄ちゃんと似てるね」
と言って小さな身体を寄せて来た。巧く受け止められなくて、ユズの懐で泣く恵那を置いていく気にはなれなかった。佳奈子が戻って来ると信じて、それまでは恵那を守っていこうと思った。
仮出所の日を知らせる通知が届いてから、佳奈子が服役している刑務所を訪ねた。やっと直接会う気持ちにまで自分を取り戻すことが出来たから。少しの差し入れと父からの手紙を携え、女囚刑務所の冷たい門をひとりでくぐった。
「面会は十五分です」
係の人にそう言われたあと、七年振りに佳奈子の姿を見た。緩いウェイブが掛かっていたはずの髪は糸のように細くなり、それをひとつに束ねても傷みがひと目で判るほど佳奈子らしくない手の抜きようで、正直少し面食らった。美貌が彼女のアイデンティティだったと今のユズは考える。だけど今目の前にいる彼女は、抜け殻のように虚ろな目で。化粧をしていない肌は、特に首許が年齢を表している。それがユズにも七年という歳月を改めて実感させた。あの頃は若さを武器としていた佳奈子も、とうに三十路を越えた中年になったのだ。そんなユズも来月には、二十六歳になろうとしていた。
「会ってくれると思わなかった」
プラスチックの仕切り越しに、ユズの方から先に話し掛けた。音もなくそっと椅子に腰をおろした彼女は、乾いた微笑を浮かべて言った。
「会いに来てくれると思わなかったわ。恨み言でも言いに来たの」
目だけが敵意を剥き出しにしている、そんな佳奈子に哀れみを感じざるを得なかった。
「父ちゃんからの伝言と、それと、どうしても伝えておきたいことがあって」
手紙を看守に渡してあるけど、と前置きをした上で要点だけを佳奈子に伝えた。
「籍は抜いてないから、出所の日には、恵那と一緒に佳奈子さんを迎えに来たい、って」
しばらくの沈黙のあと、「はっ」と鼻で笑う声が俯いた彼女の口から漏れた。
「どこまで馬鹿なの、あの親父。息子の童貞盗まれて、他人の子供を育てて、まだ騙され足りないの」
挑む目つきで見据える彼女から、初めて視線を逸らさずに言えた。
「佳奈子さん。悪い人の振りなんか、もうやめようよ」
愛して欲しい、それだけは、本心だったんでしょう?
「なに、言ってんの」
佳奈子から、作り笑いが消えた。瞳が小さく左右に揺れて、遂にはユズから視線を逸らした。
「ネクタイ、嬉しかったんだ。泣きそうな顔で見送ってくれたことも。それに、尾崎豊の『シェリー』の入ったCDを、はなむけにって買ってくれたことも」
あれから色々考えた。佳奈子のお気に入りが『I LOVE YOU』や『ダンスホール』など、寂しい女を連想させる歌だったことが、佳奈子の本心を伝えていた気がする。佳奈子も自分もお互いに、寂しくて独りぼっちだと思い込んで、傷を舐め合っていたのだと思う。そんな話をつらつらとした。自分でも驚くほど淡々と。
「親子そろって、やっぱり馬鹿ね。ただ単に利用しただけ」
「違うよ。そんな冷たい人だったら、恵那を産んでなんかいないもの」
きっと刈谷のオーナーだけに助けを求めて、父に内緒で堕ろしている。そんな確信を口にした。佳奈子の虚勢がみるみる崩れてくしゃくしゃの顔になるのを、思ったよりも静かな気持ちで見守ることが出来ていた。
「独りじゃなくなるって思ったのに。全然思うように出来なかったの。泣いてばっかり、あの子……私のこと、汚れた生きてる価値のない女って、嫌われてるって……思ったら……それ以上嫌われるのが怖くて……ちゃんとお母さんをしたかったのに、どうしていいのか解らなかった……」
顔を覆って吐き出される言葉は、ユズの願いを裏切らないもので。それだけで、会いに来た甲斐があった。会いたいと思ったのは、恵那の為。そして、彼女に恵那を返して、自分の居場所へ帰る為。
「恵那に今の気持ちを話してやってね。残念だけど、人の口に戸は立てられなくて、佳奈子さんがここにいることは恵那が知ってしまったから」
そう言って恵那に話したことを佳奈子にも同じ言葉で伝えた。
「時間です」
あっという間の十五分。係の役人は非情に立ち上がり、佳奈子の肩に手を置いた。
「佳奈子さん」
背を向けた彼女に、やっぱり告げることにした。
「オレ、あなたに感謝してます。あなたのお陰でカリヤと逢えた」
振り返った彼女が驚いて目を見開く。
「確かに流されていたかも知れないけど、あなたにじゃなくて、ちゃんと行くべきところへ運が流してくれたんだって思ってます。だから、ちっともあなたのこと、恨んでなんかいませんから」
本当は、「ありがとう」と締め括るはずだったのに。
「……ありがとう。あなたもこれから大変ね」
佳奈子にそう先を越された。カリヤのこともよく知っている口振りだった。
それから数週間後、父宛に佳奈子から封書が届いた。その夜はふたりで朝まで飲み明かした。泣きながら父が語ったのは、同情とでも思ってないと、あんな若い女に相手にされるわけがない、と思っていたんだという恥じらいもない吐露と、また家族をやり直せるというノロケの連続だった。
朝陽の射し込む居間で寝入ってしまった父に毛布を掛けながら、いつものように指折り数える。
「今日で丁度五年、か」
最後にカリヤの姿を見てから、もうそんなにも月日が流れていた。
早く自分の居場所へ帰りたい。そんな風に思ってしまった所為ではなく、朝陽が眩し過ぎる所為だ。
ユズは自分へそう言い繕い、潤んだ目許を軽く拭った。