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帰りたい場所 4

 ユズの防御本能が、オートマチックで右人差し指を「閉」ボタンへ立てさせた。

「お?!」

 一番会いたくないヤツに、一番見られたくない醜態を晒した。

「てめえ!」

 信じられない。一応ナンバーワンを張る程度には、そこそこそつのない行動を取るヤツだったはずなのに。カリヤの顔の半分以上をエレベーターの扉が隠したほんの一秒にも満たない時間、一瞬にしてカリヤの顔が見えなくなったかと思うと、両の手が無理やり扉をこじ開けた。ユズは反射的に後ずさりをして、扉の真正面に当たる壁に背をつける恰好で逃げられる精一杯まで距離を取った。

「何してんですか!」

「そりゃこっちのセリあだっ!」

 ギャグとしか言いようがない。カリヤは身体を半分挟まれたまま、「開」ボタンを探して宙に右手を彷徨わせている。ユズは慌てて「閉」ボタンを押すと同時に、扉に挟まれたカリヤの脚を思い切り蹴飛ばした。

「いっ?!」

「邪魔!」

「ンだとコノヤロー!」

 しくじった。

「いでっ!」

「閉」ボタンへ伸ばした腕をカリヤに掴んで引き寄せられ、思い切り扉に顔面をぶつけた。抵抗した手がスライドした時「開」ボタンを押し過ぎていくのを指が伝える。どうせなら「閉」ボタンではなく、一階のボタンを押すべきだった。エレベーターは移動しないまま、裏切るようにユズを吐き出した。

 勢いづいたまま、こける。思い切り膝を打ちつけて痛い。そしてすぐに感じたのは、急激な寒さ。小さな踊り場があるだけで、すぐそこに屋上へ出るガラス扉があるだけのそこは、屋上の出入り程度の時間だけでもその一角を外気で満たしてしまうほど小さかった。

「なんであんたがいるんだよっ、この間からおかしいだろう」

 叫ぶ声が震えている。それは寒さの所為だ、あくまでも。

「支配人に実質的な権限がないことくらい、ちゃんとオレだって覚えてるさっ。キタナイぞっ、人のことコソコソ調べ回っていたり、借りた金は返すって言ってるのにそれをネタに店で飼い殺しにしようとか企んだりっ」

 脂汗が浮き出て来る。それが余計に肌寒さをユズに伝える。キリリと腹までまた痛み始めて。

「大ッ嫌いだ、カリヤなんか」

 ありったけの力で目の前の大嫌いな奴に向かって、思い切り拳を振り上げた。

 ぽふ、と弾力を感じる小さな音がこもって響いた。力の入らないかじかんだ手は、カリヤに何のダメージも与えられず、彼の羽織ったダウンジャケットから空気を少し抜いただけで終わってしまった。

「ちくしょう……」

 やっと直接言いたいことを口にすることが出来たのに。少しも達成感や優越感や満足感が湧いて来ない。何の感情も浮かべず、ただユズの言葉や殴る拳を受けるだけのカリヤの顔を、もう一度見る度胸はなかった。ぶる、と身震いした瞬間、痛みと寒さが一瞬にしてぬくもりに変わる。カシミヤの柔らかな心地よさと、その内側に保たれた体温の感触がユズを包んだ。

「ったく、弱い犬ほどよく吼えるし噛みつくって本当だな」

 頭上から降る声で、初めてカリヤの羽織るジャケットの内側に抱え込まれたことに気がついた。

「腸が縮まるから冷えるのも身体によくないんだとよ。ダウンを持って来てやったから、ちっとだけそのまま大人しくしておけよ」

 そんな声に紛れて、ガサガサと紙袋の破れるような音がする。ぷは、とジャケットの内側から顔を出して音の方を見れば、それはユズが北海道から持って来た古着のダウンジャケットではなく、今年の流行になるとテレビの情報番組で言っていたような、少し丈の長いデザインの新品だった。

 カリヤの顔を見上げれば、気難しい顔をして必死になって、片手でジャケットのボタンを外すのにてこずっている。しかも、利き手ではない左手で。利き手はユズを包んだジャケットの端をしっかと握りしめたままだった。きっと懐から自分が逃げ出さないようにと考えて。

 だから、顔を見るのが嫌だった。その顔に騙されると解っていたから。こんなくだらないことにまで、必死こいた顔するヤツだと知っていたから。だから、勘違いしてしまう。こんな優しさは、利用する為の、ちょっとした投資程度にしか思っていないだろうに、真心と勘違いしてしまう。そうやって敵意を殺いでいくのが、都会の人の遣う常套手段だとこの三年で学んで来たつもりだったのに。

「……逃げないから、手を離して」

 ありがとう、と言ってしまったあとで、唇を噛んだ。


 当分は療養食以外を口に入れてはいけないから、喫茶店や飯屋には行けなくて。うらぱらにも店にも、それにラーメン屋にも帰る気はないと言い張った結果、屋上の貯水タンクをカリヤの風除けにして話を聞くことになった。ユズの風除け、と言えば。

「すごく、気色悪いんですけど」

 抵抗に疲れて大人しくまとまってはいるが。

「てめえが帰りたくないって言ったんだから、今更文句言うな」

 身体冷却厳禁という名目のもと、まんまと巧く丸め込まれた気がする。膝には買ってもらったばかりのダウンジャケット、上半身の暖は、エレベーター前の時と殆ど変わらない。カリヤの前に体育座りで背中をくっつけ、マフラーの代わりにカリヤの腕を包むダウンの袖が、ユズを風から防ぐ恰好。耳許に掛かる息がいちいちくすぐったくて、物凄く居心地が悪……いことはないかも知れないけれど、落ち着かないことに変わりはなくて、つい寡黙にならざるを得なかった。

「まあ、そういう訳で、アメリカにいる父方のばあちゃんってヤツに意地を張るのを止めたっつうか、父親の死亡退職金とやらを素直に受け取ったんだ。それを資金に誠四郎やシュウと根回しをしてる間に、キヌ子ばばあに勘づかれたっつう間抜けな状況な訳だ」

 カリヤの顎が、コクンと肩に乗る。前に流れた茶髪がユズの頬をくすぐった。

「根回しって、何の?」

 その面子を聞けば、本当は解っていたのだけれど。

「うらぱら。いい加減本格的に動かねえと、ただの逃げ場化しちまうな、と」

 裏もんじゃなくて、堂々と。夢を語る時のカリヤが、こんなに饒舌で英語混じりの語り口調になるということを、今更ながら初めて知った。

「叩けば幾らでも埃が出て来る訳よ、カリヤグループってのは。十年以上も大人しくしててやったから、キヌ子ばばあはオレが飼い犬の立ち位置に落ち着いたとでも思ってたんじゃねえか?」

 くつくつと笑う声は乾いていた。本当に楽しくて笑っているというよりも、どこか自虐めいた音をしていた。

「あいつには、もう充分義理を果たしたって割り切るさ。ヤク、売り、ぼったくり経営に、あとは何だっけか。まあ全部洗いざらいまとめてリークで、豚はブタ箱へ行けやっつうことで、サヨウナラ、と」

 ――悪ぃがお前の佳奈子もな。

 冷ややかな声が降る。その名に身体を強張らせたユズが逃げないように、ユズを包んだカリヤの腕に力が入った。

「なん、で佳奈子さ……は、離せっ!」

 言いながらカリヤの手の甲に爪を立てて引っ掻く。指先が皮膚をこそぎ取ったような抵抗の感覚を伝えて来た。薄々気づいていたことが、ユズの中で確信に変わった。

「やだ。最後まで話を聞いたら離してやる」

 爪の先を見たら、カリヤの血が爪の間に入り込んでいた。それほどの深い掻き傷を作っても、カリヤの力が緩まなかった。

「オレには関係ないっ。離せっ」

「関係ないことねえだろうが。いい加減に逃げるのを止めて、実家へ帰れ、ユズ」

 もがいても、抗っても、決して緩まない、強い拘束。それがカリヤの覚悟を示しているようで。カリヤの顎を砕く勢いで頭突きをしても、自分の頭の方が痛くなって。

「はな、せ……あんたに……何が解る……っ」

 全部調べて、自分以上に佳奈子や自分のことさえ知っているのだろうと思うと、今すぐカリヤの視界から消え失せたかった。

「てめえは佳奈子にとって、都合よく使える駒でしかなかったんだよ。妹、ありゃ赤の他人のガキだ。キヌ子ばばあの書斎を漁ったら、あの女からDNA鑑定の結果と助けてくれって書かれた手紙が見つかった」

 妹――他人の子――恵那、のこと?

 上がる息は更に浅く、心臓はもっと早くビートを叩く。父は恵那の誕生を喜んでいた。ユズはあれから七年もの間、ずっと罪の意識で苦しんで来た。本当は自分の子だと言われたから。ずっとそれを信じて疑ったことなど一度もなくて。だからそれ以来、まともに父と話さえ出来なくなって。

「どういう、こと?」

「ダンナの留守中に間男といいことしてたってこと。しくじったツケをお前に払わせてたっつうこと。親父さんは佳奈子とお前とのことをとっくに知ってた。親父さんは親父さんで、どうしていいのか解んねえっつって逃げてるし、お前ら親子って、ホント、どうしようもねえ」

 急に身体が寒さを訴える。カリヤの腕が解かれて、ユズに自由が与えられた。

「お前の寝言。いっつも佳奈子と恵那、親父、だったのな。気づいてねえとは思うけど」

 身体の自由は与えられたけれど、逃げ出すことが出来なかった。ぶる、と身体がもう一度震える。膝を包んでいたジャケットを羽織ると、少しだけ温かさを取り戻せた。そんなユズに頓着せず、カリヤはジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、気だるそうにひと燻らせさせてから、北海道にいるユズの父親とコンタクトを取った時の話をした。

「お前の親父さんもお人好しだな。てっきり長いこと東京を離れる直前までつき合わされていたパトロンか何かのガキだと思ってたんだとよ。ガキに罪はねえし、って佳奈子に言ったら、お前にレイプされた結果だって言ったらしい。嘘か本当か判らなかったんだと。てめえの手で育ててねえユズに、自分が偉そうに説教なんか出来る訳がねえと思って逃げたんだとよ。海にな。計算も出来ねえ親父から、よくお前みたいなのが生まれたな」

 父は陸へ上がった時は、漁業組合の宿舎で寝泊りしていたらしい。ユズが思っていたよりも、本当は何度も海から陸へ戻っていたそうだ。

「代わりにぶん殴って、そんでもってぶん殴られて来た。いかがわしい場所から息子を返せ、だとよ」

 そう言って差し出されたのは、ユズ用の保険証。更新されている日付を見て、父がカリヤに手渡したのだと覚った。

「お前はホストよりも、調理師とかのが向いてんじゃねえの」

 その前に完治だな、と言ってカリヤが独り立ち上がった。

「キヌ子ばばあがあんたら親子に迷惑掛けた。佳奈子はあいつの手駒だったってこと。カヲル子を潰す為のな。スーツ代の残金とうらぱらの改装費用のツケ、相殺にしても足りねえんだろうけど」

 ――これで、てめえも俺から解放されて、晴れて自由の身だ、帰りな。

 カリヤの顔を見上げても、逆光がその表情を隠してしまって見ることが出来なかった。風がユズの頬を撫でていく。身を切るような冷たい風。保険証を握った手がかじかみ、力尽きて保険証がぽとりと落ちた。

 帰りな、と言われて、初めて帰りたい場所がどこなのか自覚した。帰りたかった場所から「ほかへ帰れ」と言われて、やっとそのことに気がついた。

「……帰ります。北海道に」

 気づくのが、遅過ぎた。

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