帰りたい場所 3
――帰りてえんじゃねえのか。
親父さんが朝方口にした言葉を考えるだけの余裕が出来たのは、入院二日目の消灯後。昼の内は、前夜の『腸洗浄ショック』から立ち直れず(それはもういろんな意味で)、例のナースからは遠回しながらも執拗にアプローチを掛けられ(当然自分の恥を知っている彼女に必要以上関わりたくないので無視を貫いた)、夜勤チームから噂を聞いたナース達からはカリヤのことを何かと訊かれ、救いの神と思った腸検査では、また悲鳴を上げる破目に遭い、その後は疲れて死んだように眠っていた。
消灯時間を過ぎた今になって、逆に目が冴え眠れない。赤っ恥の代償を払った甲斐があって、随分精神的には落ち着いていると自己分析まで出来るほど、暇だ。六人部屋の病室には、いろんな寝息が輪唱する。それにも聞き飽きてしまったユズは、嫌でも『帰りたい場所』について考えざるを得なかった。
帰りたい場所、というよりも、「帰る」という単語で思い浮かんでしまう場所。
無駄に広くて大きなベッド。妙な間取りの大きな部屋。夢にまで見た大型オーブン。スモークが張られたガラス張りという奇妙な設計のバスルーム――うらぱらの最上階にある、元自分の部屋。
飲みもしないのに常備していた、冷蔵庫のドアポケットいっぱいに並べられたトニックウォーターのペットボトル。気紛れに「何か食わせろ」と押し入って来るヤツを少しでも待たせないようにと常備していた根菜類とか冷凍保存の利く調理済みの料理とか。
犬みたいにガツガツ食って、ホントに味が解ってんだか解ってないんだかと疑わしいのに、ガキみたいに口を開けて笑って「美味い」と言ってくれるヤツ――。
「なんかのところに帰りたいとか、思ってないし」
つらつら思い浮かぶままに並べた末に辿り着いたツラを、言葉と頭を振ることで掻き消した。
便利なだけだ。利用されただけだ。飼い殺しにするつもりだったんだ。
呪文のように、心の中で唱える。だから気を許しちゃいけないんだ、と。
「ダメだ。気が済まない」
本当はダメなのだけれど。ユズはベッドから身を起こし、ほかの患者を起こさぬよう、音を立てずにスリッパを履いて病室を抜け出した。右手には携帯電話を、左手にはまだ投与されている点滴を持って。目指すは外来の一角にある携帯電話許可スペース。カリヤに抗議の言葉をぶつけずにはいられなかった。
師走の慌しい季節の中、今夜もサイレンの音と苦しげな表情を浮かべる老若男女が救急入り口をくぐっていく。苦しそうだけれど、付き添ってくれる家族がいる。それを冷ややかな目で一瞥して通り過ぎた瞬間、自分の卑しさに気づいて顔を伏せて歩いた。
所定の場所に来て、携帯の電源を入れる。カリヤのアドレスを呼び出してメールを打ち込む。
『バカリヤへ。支配人を使って汚い手なんか使っても、オレは絶対Paranoiaに帰らないから。自分の思い通りになるペットが欲しいなら、ほかを当たってください。譲』
そこまではほんの一、二分で指が動いたのに。送信ボタンを押すまでに、何故かものすごく時間が掛かった。
「金、何とかしなくちゃ……」
無人の廊下に頼りない声がやけに響き、空調の利いた暖かな院内なのにユズの肩を震わせた。
教えてもらった療養食を摂る条件で、午後に退院してもいいとのことだった。入院費を考えればありがたい話だけれど、病院からどこへ帰ればいいのだろう。親父さんが迎えに来てくれると言っていたが、それに甘えていていいのだろうか。結局ユズはあれから一睡も出来ないまま朝を迎え、そして気づけば退院時刻の午後二時を回っていた。
ナースステーションの前に恐る恐る近づく。例のナースが休日であることを願いながら。
「久石です。お世話になりました」
声を掛けてから視線をステーション内へ軽く泳がせ確認する。
「あ、久石さん。こちらが資料です。一階の会計へフォルダごとお出しくださいね。お大事に」
(ラッキー)
出て来たのは師長だった。お陰で端的な事務のやり取りだけで済んだ。
「はい。ありがとうございました」
「あ、それとお迎えの方が、屋上で待っているので声を掛けて欲しい、とのことでしたよ」
「屋上?」
このクソ寒い師走の空の下、なんでわざわざそんなところで?
「院内禁煙の上に、喫煙所を設けていないでしょう。ちゃんと吸殻を持ち帰ってください、って伝えてね」
生きていればユズの母親と同世代ではないかと思われる師長は、少しだけ困った笑みを浮かべてユズに砕けた口調でそうことづけた。
「あまりクヨクヨしないこと。頑張ってね」
とユズへのはなむけを述べた彼女がエレベーターまで見送ってくれた。
エレベーターで屋上を目指している中、医者の診断内容を反すうする。
炎症は小さなもので、本来自然治癒の範疇にある。
『原因は神経的なものだと思われます。CTの映像を見る限り、腸が痙攣を起こしている状態だったんですね。これが痛みを引き起こしているんです』
病院へ運んでくれた人はご家族ですよね、一緒に話を聴いてもらいましょうと言われ、即答でそれを辞退した。
『親父さんには何も言わないでください。もうこれ以上誰にも迷惑を掛けたくないんです』
医者が怪訝な顔をして問い質した。
『ご家族なのに、ですか』
『親父さんにだけは、知られたくありません』
これまで出会って来た人の中で、一番自分に見返りを求めずに手を差し伸べてくれた人だから。
『……本人の意思を尊重するのが我々医師の務め、ですからね』
医者はそう言って、深い溜息をついていた。
「もっと、しっかりしなくちゃ」
――でも、どうやって?
流されてばかり、人の顔色に合わせてばかりの毎日が三年を過ぎようとしている今。未だにどうしたら強くなれるのか解らない。『癒し系』とか、哂える。結局要は人なんて、みんな自分に都合のいいペットみたいな存在が欲しいだけじゃないか。
小さな田舎町から都会へ出て来て解ったことは、そんな救いようのない現実だけだった。
都会で揉まれて強い自分に生まれ変わって、ちゃんと父と話が出来る自分になったら、佳奈子を迎えに行こうとしていた。佳奈子が生きて来た世界を知れば、彼女を理解出来ると思っていた。そんな三年前の自分に対し、今は幼稚さしか感じない。
東京暮らしの目的を見失って、だけど帰れる故郷はなくて。人に迷惑ばかり掛けている、今の自分が嫌になった。
「やっぱ……行こう」
ユズがそう呟いた声に、エレベーターがチン、と反論した。現在階を示すランプが「R」をオレンジ色に光らせた。
扉が開いたらすぐ「閉」ボタンを押して、そしてそっと出て行こう。親父さんのところにも帰れない。
そもそも、うらぱらなんかに引っ越したことがいけないんだ。カリヤなんかに関わったから、おかしなことになったんだ。
扉が開くまでの短い時間に考えていたそんなこと。それら全てが扉の開いた瞬間、ポップコーンが弾けるように、エレベーターの前で待っていた人物の顔で吹き飛んだ。
「てめえ、あのメールはなん……あ?」
「……なんで」
寒さで赤くなった鼻と色白だったはずの頬、ブルーグレーの瞳が見下ろす視線は一瞬だけ苛立ちを見せたものの、目が合った途端にその色は、驚きの色に表情を変えた。
「何女みたいにメソってんだ?」
屋上の待ち人は、親父さんではなくカリヤだった。