帰りたい場所 2
「カビンセーダイチョーエン?」
音だけ聴いたらまったく解らない病名を医者から告げられ、カリヤは意味もなく復唱した。
「過敏性大腸炎は、不規則な食生活、ストレスなど、人によって原因はさまざまですが、それらによって腸が過剰反応してしまうんですね。久石さんの場合、下痢と便秘の繰り返しがあったらしく、S字結腸、ここの部分ですけど、レントゲンを見てのとおり、便が溜まっている為に炎症を起こしている状態です。治療にはご家族の同意書が要るのですが、失礼ですが救急で一緒にいらしたあなたの方は久石さんのご家族でよろしかったでしょうか」
まるっとカリヤを無視する医師は、診察室の椅子に腰掛けて面しているラーメン屋の親父さんだけにそう尋ねた。
「……そうだ」
短く簡単、完璧な嘘。日頃の仏頂面が勝手に医師へ真実味を醸し出している。
「ぶっちゃけた話、保健証がねえ。あんまり儲からない商売なんで、加入をケチってな。病気知らずだったんで、実費で払うしかねえんだが」
「あ、いえ、別に入院治療費の心配をした訳ではないんですよ」
慌ててそう取り繕い、ちらりとこちらを見遣る。そんな胡散臭そうな視線を向けられても、親父さんに呼ばれたから来たのだ。文句を言われる筋合いは、ない。
「その、こちらの方はご家族ではありませんよね? 治療内容についてお話したいのですが、ご一緒で構わないのですか?」
親父さんまでこちらを見上げる。親父さんも親父さんで、成り行き任せもいいところだ。
「あいつの上司なんっすよ、これでもいちおー」
大袈裟に溜息をつき、渋々名刺を医師へ差し出した。
「シフトを組む関係があるんで、ちゃっちゃと説明してくれよ。あ、あとな、もそっと砕けた言葉を選んでくれねえか。あんたの話、訳わかんねーから」
医師の掛けた眼鏡の奥が、剣呑な目つきに細められた。
(要は職業差別という訳か)
勤務中にいきなり親父さんからユズが倒れたと呼び出されるまま、ホスト仕様の恰好で店から直接病院まで来てしまった。お陰で白い壁がメインの病院では、ワインレッドのスーツの長身だと目立つことこの上ない。まだ盛りっぽい若医者ドノから見れば、ナース達の落ち着かない様子も気に入らないのだろう。
「……シフト、ですか。綺麗な英語ですね」
ふん、と鼻で笑って説明を始める医者の話はやっぱり難解な日本語だらけで、殆ど嫌がらせに近かった。時折親父さんが砕いたやさしい言葉で確認を取る。そのお陰で辛うじてユズの状況を理解した。
思うところあって、信州につき合わせたあの日以来、ユズを自分から遠ざけさせて来た。だから、最近の状態を知らなかった。食欲に波があり過ぎる気がしていたとか、ヒステリーに近い状態の時がしばしば見受けられたとか。
「俺がこんなんだから、あいつもあまり話さねえ。職場関係でもトラブルがあるみてえだったが」
職場。この状況の場合、どう考えても親父さんはユズが実際に働いているラーメン屋ではなく、こちらのことを言っているのだろう。
(覚えがねえぞ。ネタか?)
親父さんに目で訴えると、そっぽを向かれた。
「拓巳、さんとお名前でお呼びして失礼ですが」
「あ? しゃあねえだろ。それしか名刺に書いてねえんだから」
いちいちつまんないことに拘る医師の訊きたいことは察知した。
「職場のトラブルは、こっちとしては気づかなかった。下同士のいざこざだと思うんですぐに調べて対応する」
適当に答えて嘘話を早急に切り上げる。医師はそこへ介入することもなく、「そうですか」とだけで日程の話へ移行した。
明日の検査次第ではあるものの、恐らく大事はないらしいとのこと。明後日には退院出来るというのであれば、そんな大事ではないのだろう。あとの細かい説明の理解は親父さんに任せた。予備の椅子さえ出さないインテリ医師の話は、壁にもたれて俯きながら、聴いている振りをしてやり過ごした。
諸々の書類にサインを済ませ、ナースに案内されて処置室とやらに向かう。親父さんに続いてカリヤが扉をくぐった途端、ユズから罵声を浴びせられた。
「なんでカリヤがここに来るんだよ」
てっきり意識がないものだと思っていたので、取り敢えずはほっと溜息が漏れた。だが言われた言葉を咀嚼すると、ユズに近づくカリヤの脚が乱暴な靴音を響かせた。
「てめ」
「にいちゃんは、ちょっと黙れ」
身を乗り出したカリヤを、親父さんが静かな口調で止めた。
「ユズル、おめえさんは自分のことを話さない。おめえの親父さんは、見当違いな住所に宛てておめえさんに手紙を寄越して来る。しかも故郷が北海道と来らあ。ホストの店とは揉めてるっぽい書類が落ちてるのを見た。誠の字はチーフだ、店から抜け出せるはずがねえ。んじゃあ、何も解らねえ俺は、このにいちゃん以外の誰から情報をもらって医者をごまかしゃよかったんだ?」
親父さんはそう言ってカリヤの代わりに、カリヤがユズの置かれた状況についてどう話したのかをそのままユズに話して聞かせた。ユズが父親に対して一方的なわだかまりを抱いていること、知らせる時期ではないということ、親には大学の三期生だと思われていること、だから保険証を使えば住所が替わっていることや自主退学したことなどが親元に解ってしまうということ。
ユズの目が見開かれた形でこちらを見遣る。怒りを孕んだそれは、ユズが誰にも話していないことまで知っている自分に対する抗議だろう。
「それに、言えねえ事情があるらしい、とも聴いた。おめえさんが自分で責任を持つんなら、聴けやしねえが。だがな、それならそれで、人に嘘をつかせるのは、これっきりにしてくれや」
親父さんは、何かと家族の同意書が病院では必要になるので、自分が父親だということにしたと伝え添えた。
確かに親父さんの言うとおり、自分は黙っておいてよかったと思う。
ユズは無言でこくりと頷いたまま、布団を被ってしまった。布団の端を掴む両手が、小刻みに震えていた。点滴は恐らく鎮痛剤の類だろう。随分ゆっくりと落とされていた。それの落ちるテンポに合わせているかのように、ユズはやがてゆっくりと小さく呟いた。
「迷惑かけて、すみませんでした」
親父さん、と謝罪相手を限定した上で、そう言った。
「お待たせしました。久石さん、どうですか? 少し痛みが退きました? 少しの時間だけ立てそうですか?」
静寂を破ったナースがそう訊きながら入って来た。なかなか可愛い小柄な女性だ。
「あ、はい。胃洗浄と点滴で、だいぶ」
布団をめくりあげたユズの営業スマイルを見て、カリヤの頬が一瞬だけ引き攣れる。本人は無自覚だろうが、この徹底した顔の分け方は天賦の才能だと思う。手離すのは物凄く惜しいと思う。
(けど、まあ本人が嫌がってんだから、しゃあないだろう)
カリヤは自分へそっと言い聞かせた。
「そう、よかった」
ナースの口にした言葉とともに溢れた笑みは、営業スマイルというよりも、心の底からほっとしたと言わんばかりの情感がこもっていた。カリヤの嗅覚が、それから警戒の匂いを嗅ぎ取った。
ユズがひと悶着を起こしたリコを思い出させる、如何にも白衣の天使といった感じの女。思えばあの女もナースだった。そしてこのナースからも、リコと似た雰囲気のオーラが感じられる。釘だけは刺しておこうとシミュレーションを試みた。
「じゃあ、次に腸洗浄をしますから、洗浄室まで歩けますか」
チョーセンジョー?
「いっ?! あ、あの、腸洗浄、ってもしかして、まさか」
ユズがカリヤと同じ疑問を口にしたが、ユズのそれはどう聴いても解っていて確認を取る、といったものに感じられた。
「チョーセンジョーって、なんだ?」
そのナースに直接問う。初めて彼女と目が合った。こちらの瞳の色が日本人のそれではないと気づいたからか、彼女は非常に丁寧な説明をしてくれた。頬をほんのりと染めながら。
「肛門からチューブを通して、温水を流し入れるんです」
「コーモン?」
「えっとですね、つまり」
「ケツの穴だ」
親父さんが簡潔明瞭なひと言を口にした途端、ナースとユズが同時に俯いた。
「鼻腔からチューブを入れて洗浄する方法もあるんですが、それではついさっき胃洗浄をしたばかりの久石さんに負担が掛かるだろうから、って先生が」
止めを刺す具体的な説明がされると同時に、ユズがとうとう身を起こした。
「あ、でも痛くはありませんし、三、四時間で終わります。浣腸のように自分でトイレに行かなくてはいけないこともないですし、横になったままですから身体に負担も掛かりません。久石さんの洗浄中の間に、ご家族の方には先生からお話を聞いていただくので、恥ずかしいこともありませんよ。安心してくださいね」
ユズの色白な肌が、ものすごい勢いで血の気が引いて、より青白い顔になる。女に押さえつけられ、ケツをひん剥かれる姿を想像すると。
「……ぶっ」
笑ってはいけないと思いつつ、堪え切れずに噴き出した。
「ヤダっ。オレ、もう帰るっ」
「どこへ帰るってえんだ、おまえさん」
そう言って押さえつける親父さんの肩が、やはり小刻みに震えている。結局カリヤは堪え切れず、腹を抱えて大爆笑した。
「ちょっと、ヘンな想像をして患者さんの不安を煽らないでください! 今夜はもうお帰りいただいて結構ですからっ」
「ほら、帰っていいって。だから親父さん、お願いしますっ。オレも帰るっ」
「馬鹿言ってんじゃねえ。検査が終わるまでは、勝手に病院を抜け出して来ても家になんか入れねえぞ」
これなら心配ないだろう。ユズの羞恥心が彼女に対してバリケードを張るに違いない。
カリヤは親父さんとともにナースから言葉で盛大に追い出され、わめくユズを置き去りにした。
「ちょ、やだっ。カリヤっ、オレも帰るっ!」
さっきの剣呑な表情はどこへやらと思うと、また笑いがこみ上げて来る。吼える元気があるなら、きっと多分大丈夫。
「せいぜいケツの穴をほぐしてもらうこったな、じゃっ」
ユズの泣き顔を見るのは、あまり好きじゃないらしい。ふと連れ帰りたいと思ってしまった衝動を抑えようとして出した言葉が、妙に小馬鹿にした口調になってしまった。
「裏切り者ーっっっ!!」
ユズのあらん限りの罵詈雑言を背に受けながら、景気よく処置室の扉を閉めた。
「いやだぁ――ッッッ!!」
扉を介しても聞こえる絶叫が、少しずつ遠のいていく。数人に洗浄室とやらへ連行されていったのではないか。その姿を想像すると可笑しくて仕方がなかった。
「にいちゃんのひねくれ方も、ユズルと張り合うレベルだな」
苦笑しながら親父さんが形ばかりの説教をする。
「親父さんも笑ってたじゃねえか」
「馬鹿が。おめえさんが笑うから釣られちまったんじゃねえか」
意識のあるユズがあんな素の姿を晒したのは、多分きっと初めてだ。
「親父さんに随分甘えてるんじゃねえか。あいつのあんな顔、初めてみた」
世話掛けてすみません。確か謝る言葉がお礼を意味する言葉に変わるのは、こんな場合の時ではなかったか。
「今日のところは店に戻らなきゃならねえんだろう。明日、また店に顔出しな。ちぃと耳に入れておきたいこともあるからよ」
榊から内容証明が届いていたと、その時初めて聞かされた。
「さっき医者に話してたのは、ガチネタだったってことか。内容は?」
「見てる暇がなかったんで、今は何も説明出来ん。だから、明日、来い」
こちらが動き出した途端、もう榊が――言い換えれば、キヌ子叔母が動き出した。ユズを巻き込ませない為に、遠ざけたのに。動くのが早過ぎた、と今更自分のミスを嘆いても仕方がない。カリヤの噛んだ爪が、パチン、と嫌な音を立てて折れた。
「解った。んじゃ、ユズの方をもうちょいの間だけ、頼みます」
これまでのように、傍若無人には振舞えない。店へ戻る前に気持ちのリセットをしなくては。まだ根回しが完全には終わっていない。
カリヤは親父さんと別れるとすぐに久住へ電話をし、同伴で戻る旨を伝えた。それからメールで上客へ片っ端からメールを送り、目ぼしい客を掴まえてから待ち合わせ場所へとタクシーを走らせた。