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帰りたい場所 1

「帰りてえんじゃねえのか」

 親父さんがそう言って差し出して来たのは、ユズ宛に届いた二通の封書だった。どっちのことだと訊く間も与えず、親父さんは部屋から立ち去った。

「帰りたい、か」

 一通はクラブ『Paranoia』榊支配人からの内容証明。もう一通は北海道の父が海の上から送って来た手紙だった。


 先に榊からの内容証明の封を切る。

『久石譲殿

 通知書

 貴殿は、クラブ「Paranoia(以下、当店)」との雇用契約に違反したものとし、さる二〇XX年八月末日を以て解雇、違約金弐百萬圓の頭金として壱百萬圓を納付しましたが、その後残金の納付が御座いません。

 本来であれば然るべき権利を履行すべき当店ですが、貴殿の在籍中にあった功績を加味し、緩和措置を講じる意向がある旨を下記のとおり通知致します。

 尚、緩和措置の受け入れの可否は貴殿に委ねるものとします。

 緩和措置が不要であれば、即時残金の納付を強く要望致します。

 記


 残金の支払いが不可能である場合、売上の八割(端数千圓単位を切り上げ)を当店への返済へ充てる契約条件のもと、当店が再雇用するものとする。

 回答の待機期限は、本通知書到着日より壱箇月間とする。


 二〇XX年十二月十五日

 東京都新宿区歌舞伎町二町目〇番〇号

 クラブ「Paranoia」 代表取締役支配人 榊正人』

 その内容に唖然とする。手から書類がはらりと落ちた。

「そんな……ちゃんと毎月振り込んであるはずなのに」

 カリヤと喧嘩をした次の朝、一番で『Paranoia』に赴いた。勿論誠四郎の協力を得て、榊支配人と連絡を取って約束した上での話だ。確かに売上はまずまずになっていたから、引きとめられはしたけれど、カリヤと喧嘩をして彼が不要だと言ったから、と伝えたら、渋々書類を出してくれたはずだ。その時振込み手続きも済ませて、前金として誠四郎が貸してくれた百万円も納め、領収証も切ってもらった。残りを月々五万円の二十回払いにするという内容の念書に捺印もした。その後振り込みを何度かして来たが、一度もATMでエラーなんか出たことはない。確実に振り込めているはずなのに、どうして急にこんな話になったのだろう。

「しかも売上の八割って、殆ど一括払いプラス利子って言ってるのと同じ意味じゃんか」

 ラーメン屋のバイトでは、かなり優遇されている。ぶっちゃけ、小遣いをもらいながら、ただ飯を食わせてもらっている状態に近い。自分と似た年頃の息子を亡くしたという、今では奥さんも亡くしてやもめになってしまった親父さんに、これ以上迷惑を掛けたくはない。むしろ早く『Paranoia』と誠四郎とカリヤへの借金を返して、親父さんに恩返しをしなくちゃ、と思っているほどだ。

「――カリヤ」

 その名前で思い出す。数ヶ月前の嫌な記憶。

 信州へ小旅行に行ったあの日以来、カリヤと直接連絡を取っていない。ひとりで勝手に吹っ切れて、自分だけ気楽な顔つきに変わってしまって。向こうの花街で一番人気のお姉さんがいるお店で大騒ぎして、ちゃっかり名刺も配り回って、気づけばナンバーワンのお姉さんとふたり、いつの間にかばっくれていた。自分はお持ち帰りするというより見事にお持ち帰りされた挙句、役に立たないと深夜の秋空の下に放り出され、踏んだり蹴ったりの思いで朝を迎えたことまで思い出したら、また腹が立って来た。その時も、頭に来たから始発の電車でひとり先に帰って来たのだ。地名が読めないとか、地方へ行ったことがないから電車の乗り方が解らないとか、もう知ったことではない、と思って帰って来た。

 あの時クラブで酔ったカリヤが言っていた。

『クビにした覚えなんかねえってぇの。無断欠勤しやがって、このクソユズが』

 そう言って思い切りグラスのウィスキーをかけられた。かなり、相当頭に来た。

『出てけ、要らないって言ったのは自分だろう! 人の所為にするなよなっ』

『てめえな……俺を誰だと思ってやがる』

 また昼間の時と同じ台詞を口にしたから、腹立たしくて答えてやった。

『カリヤ。それ以外の何だってんだよ』

 ――だよなぁ。俺は、刈谷悠貴でしかねえんだよ。

 言いたいことが解らなかった。問い詰めようとしたけれど。

『えー、拓巳って、本名はユウキくんなんだっ。ね、ね、ユウキでいいよね、呼び名っ』

『あ? あー別にいいけど』

『あ、じゃあアタシも名前とケータイ、店用じゃなくて――』

 ホステスに邪魔された。

 むかついて飲みまくって、そのあとの記憶は曖昧だけど。ただ薄ぼんやりと覚えているのは、乱痴気騒ぎの中で、カリヤが耳打ちしたひと言。

『てめえの為に無駄金をどんだけ遣ったと思ってんだ。うらぱらの改装費分の貸しもきっちり返してもらうからな』

 その言葉が、今頃になってユズの中でリフレインした。

「あいつ……汚いぞっ、カリヤ!!」

 物足りなさを感じたものの、それでもトモダチ程度には昇格出来たと思ったのに。対等に喧嘩が出来るくらいには近づけたと思ったのに。弱音を吐ける存在にはなれたんだ、と信頼されたことが嬉しかったはずなのに。

「結局お前もオレを利用してただけってことなのかよ」

 使える手駒だから。顔色を見るのが得意だから。一度言えば覚える、育てるのに楽な「ホスト」だから。

「ちくしょう……」

 自分の居場所がどこにもない。自分自身を必要としてくれる人が世界中のどこにもいない。

 ――ユズ、愛して、私を。

 自分を必要だと言ってくれたのだと勘違い出来た、あの頃へいっそ戻ってしまいたかった。傷の舐め合いでも構わないから、罪悪感と引き換えでもいいから、あのまま愛されない者同士、佳奈子から逃げなければよかった。どこへ行っても同じなら、いつか壊れるその日まででもいいから、誰かに必要とされる場所を自分の居場所にしておけば、よかった。

「ちくしょう……ちくしょう……っ」

 償う為に、やり直す為に、東京まではるばる出て来たのに。逆戻りし始めている自分自身に、ユズは誰に対してよりも一番腹を立てていた。




 寒さから来る震えで目が覚める。いつの間にか、床の上でうたた寝をしてしまったらしい。黄色い西陽が窓から部屋の奥深くまで差し込んで来る、その眩しさに目を細めた。

「うぁ、やば寝坊!」

 慌てて身を起こしたと同時に思い出す。今日は月曜、定休日。親父さんはいきつけのパーラーに新しい台が入ったから行って来るとか言っていたことも思い出した。

 カサリという音で、寝入る前のことを思い出し、自然眉間に皺が寄った。今更『Paranoia』になど戻る気なんてさらさらない。どうにか金策を考えないと、なんてことを考えながら、手に当たった書類へ何気なしに手を伸ばした。それを拾い上げた時視界の隅に映った封書を見て、その存在を思い出した。父からの、手紙。

 こまめに郵便局へ転居届を出し続けている、上京直後の住所と自分の名前。父の書いた、下手くそながらも懐かしい手書きの文字。海水で濡れたのか、少し文字が滲んでいる。ユズは逃げるようにそれを手に取り、封を切って手紙を読んだ。

『ユズルへ

 元気にやっているか。父ちゃんは相変わらずだ。

 急に手紙を書く気になったのは、最近毎晩母ちゃんの夢を見るようになって、急にお前の顔が見たいと思っちまったからかも知れん。

 去年も一昨年も帰って来なかっただろう。

 来年の春からは、就職活動で忙しくなるんだろう。

 そっちで就職する気でいるなら、尚更だ、顔を見せに来い。

 この正月は、俺も帰れると思う。

 佳奈子が愚痴を零していたぞ、お前から何も連絡がない、と。

 恵那も、兄ちゃんが来ないと寂しがっているらしいぞ。

 海にばかり出ちまって、お前をほったらかして来た俺が言うのもヘンな話だが、たまには家族そろって正月を迎えようや。

 俺もようやくお前を無事大学まで行かせてやれたし、来年分の学費もどうにか出来そうだ。やっとこれで少しは仕事の量を減らせそうで助かる。恵那の分もちっとは頑張らないといけないがな。もっとも恵那は女の子だから、お前ほど学費はかからんだろうが。それでも学がなけりゃあ人生の選択肢ってのは、男だろうが女だろうが、今のご時世ではどうしても狭くなっちまう。

 お前は母ちゃんに似て頭はいいし、性格は海の男にしちゃあちょっとひ弱だ。自分の好きに生きたらいいとは思っているが、成人祝いもしてやれなかった。

 出来れば無精な親父に、遅くはなったが成人祝いをさせてくれや。

 返事は要らん。最終的にはお前の好きにしたらいいと思っている。俺が返事をくれなんて言えば、またお前のことだから気を遣っちまうんだろう。

 都会じゃあいろいろあるだろうが、俺らはいつでもお前の帰って来れる場所でありたいと思っているから、お前さえよければ、いつでもこっちへ帰って来い。

 父』

 海と魚と、ユズの命と引き換えに亡くした母のことしか頭になかった不器用な父が、こんなに長い文章を書いて寄越すとは思わなかった。

 いつもすぐ漁に出てしまうのは、母の命と引き換えみたいな恰好で生まれた自分を疎んじてのことだと思っていた。ずっとずっと、少しでも父に好かれたいと思って、少しでも償いたいと思って、事実を知ってからは父の言うとおり、勉強に励んで家事もして、自慢の息子であろうとして来た。だから佳奈子と再婚するんだと突然彼女を連れて来た時も、反対なんかしなかった。

『借金で困っていたから、ほっとけなくてな』

 なんて、お人好し過ぎると思ったけれど、黙っておめでとうと返事をした。愛情があっての結婚じゃないなんて、と理想論こそ真実と思っていた思春期の頃は、佳奈子が不憫だとさえ思っていた。不憫で、似ていると思っていて、だから、佳奈子の気持ちがすごく解ったような気がして。

 ――同情なんか要らないわ。私、愛情が欲しかったのに。

 夏の白い陽射しが、佳奈子の細い肩の白に溶け込んだ。溶けて眩しい光を放ち、それが心細げに震えていた。

 ――ユズは、愛してくれるわよね? 私のこと、好き、よね?

 近所の人に冷やかされてた。「親父よりかも譲の方がまだ年回りの近い嫁さんだ」と。クラスの男子にも色々言われた。「お前、継母をおかずにしてんじゃねえの」とか。そのくらい、佳奈子は垢抜けていて綺麗で、田舎で目立つ存在だった。

 少しだけ、魔が差した。あとでたくさん佳奈子の所為にした時期もあったけれど。

『佳奈子さんがオレの手を持っていくから』

 ――でも、無理矢理ではなかったわよ。

 愛してるって訊いたら、うんって言ってくれたじゃない。切なげに声を震わせて責められてしまうと、父への罪悪感より、佳奈子をどうにか救ってやりたい気にさせられて、流された。恵那が宿ったことを知るまで、ずっとずっと、流された。佳奈子のことが好きだったから。長い時間ずっと、そう思っていた。


「父ちゃん……帰りたい……けど、帰れないよ……」

 罪一色になった今のユズに、そんな度胸はなくなっていた。消えない罪の象徴、恵那。父は自分の子だと信じ切っている、戸籍上のユズの異母妹。ユズが大学受験を決めた時、佳奈子が父に隠れてこっそり言った。

 ――DNA鑑定をしてもらったの。ユズ、あなたの子、みたい。

 だからこっちで就職してね、と冷たい微笑を浮かべていた。

「どうしよう……」

 腹の底冷えが増して来る。気持ち悪くなって来て、身体を九の字に折り曲げた。

「たすけ、て……カ」

 口にし掛けたその名前を、口惜しさの余り噛み殺した。

 帰る場所が、どこにも、ない。

 真っ暗になった部屋の中、ユズの唸り声だけが小さく響いていた。

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