心残りの正体 2
今度の沈黙を破ったのは、賑やかになったドアベルの音。
「いらっしゃいませ。ただいま」
ランドセルを背負った仏頂面の少年が、入って来るなりそう挨拶をした。
「おかえり、芳音。なんで今日は早いんだ?」
途端に母親の口調に変わった克美の声と、カリヤの
「うぉ、クローン……」
という声が重なった。
「何、依頼人にしては全然悩んでなんかいなさそうなツラしてるんですけど、この人達」
「こら、芳音っ」
剣呑な表情で品定めのように見る、妙に大人びた口調の子供の態度や台詞に面食らった。芳音と呼ばれた少年は、ランドセルが似合わない大柄な子だった。太っているという意味ではなく、全体的に成長が早いというか。その見た目が周囲に実年齢より大人であることを強いられたのかと思わせるほど、利発そうなしっかりとした顔つきをしていた。視界の隅に収まるカリヤにとっても、似た感想を持たせたらしい。頬杖を突いていた顔を起こし、大きく目を見開いて彼をしげしげと眺めていた。
「失礼だろっ。依頼人じゃないし、たまにはちゃんと午前中にお客が来てくれることもあるんだぞっ」
克美が息子にげんこつを食らわせながら、何とも切ない現状を垣間見せる言葉を口にした。
「だって最近依頼の振りして母さんを口説きに来るヤツが多いじゃん。夜までバーになんかして店を開け続けてるからだぞ。父さんが帰って来たら、きっと絶対に怒るぞ」
少年の不機嫌な顔の内訳を知り、思わず笑いそうになって慌てて口許を隠した。カリヤは失礼なほど豪快に爆笑している。
「坊主には悪いが、年上と人妻はアウトオブ眼中だ。俺達はただの観光客だ、心配すんな」
カリヤは涙目を拭いながらそう言った。
(あれ?)
ふと芳音の言葉に疑問が湧き、笑いが止まった。
『父さんが帰って来たら』
(死んだってこと、知らないのか、この子)
咄嗟に克美の顔を見てしまう。ほぼ同時にカリヤの脚が、ユズの脚を軽く蹴って何も言うなと合図した。
「まったく。見れば解るだろうが、この人達が一見さんだって。ちゃんと謝れっ」
険しい顔つきがひゅんと緩んで素直に「ごめんなさい」と頭を下げる子供を見ると、どんな顔で受け答えていいのか解らず、ユズは曖昧で奇妙な表情しか浮かべられなかった。
「坊主、いいこと教えてやるから、ちょっと来いや」
カリヤはそう言って、椅子から立ち、近づいて来た彼に耳打ちで何かを話した。克美の顔が蒼ざめる。
「何?」
「あとで聞きな。そろそろ繁忙タイム、ってヤツじゃねえのか。俺らはそろそろ帰るわ。ごっそさん」
まだ話の途中だったのに、帰る?
「ちょっと、カリヤ」
まだ、話は済んでいない。子供のいない時間に出直すというのは時間的に不可能だ。明日朝一番で東京行きに乗らないと、自分はともかくカリヤが店の開店時間までに営業や出勤をするのに間に合わない。
引き止めようとしたユズの手よりも早く、カリヤの目の前にいる少年がカリヤの服の袖を掴んで引き止めた。
「なんで俺に言うの? 伝言なんて、必要ないじゃん」
「お前から聞く方が喜ぶって、絶対。頼んだぞ、坊主」
そう答えながら、空いている腕を上げてユズをレジへと促すジェスチャーを取る。仕方なく紙幣を数枚カウンターへ置いた。
「解りました。じゃあ、えっと、ゴメンナサイ。それと、ありがとうございました」
ランドセルの少年はぺこりと頭を下げると、何故か大人しく引き下がった。
「ちょっとキミ、芳音に何言ったの」
克美がレジを打ちながらも、カリヤから視線を外さず険しい表情で問い詰めた。フォローを入れようにも、耳打ちの内容が解らなければ、ユズも下手なことは言えない。
「坊主に聞けばいいさ。大体あんた、坊主になんで帰り時間が早いんだって訊いておいて、返事を聞かねえってのもどうだかな」
「うぉ、そうだ! 何だっけ? 芳音、ちょっと待てっ、何で早いんだ? サボリじゃないだろうな」
感情の動きが、くるくると忙しい人だ。バタンと乱暴にレジを閉めると、奥へ行こうとしていた芳音を呼び止めた。
「やっぱり忘れてる。今日から懇談会で半ドンだって学年便りに書いてあっただろ。そんでもって家は今日の三時。もし母さんが店を開けてるようだったら替わるから電話しろって、帰りにマナママんとこに寄ったら言われた」
目を細めてそう告げる彼の方が、よほど母親よりしっかりしていると見えた。
「ぐぁ、マジか! 忘れてた!」
ユズを固まらせていたシリアスな空気が、いきなりコメディな展開に変わっていった。時計を見れば、午前十一時半を回っている。間もなくお客が押し寄せて来るのだろう。確かにカリヤの言うとおり、今日はこれでおしまい、という雰囲気だった。
「ごちそうさまでした。オムライス、美味しかったです、お世辞じゃなく本当に」
カリヤは既に扉の向こうへ出てしまっている。ユズはそちらの方が気掛かりで、引き止める克美から逃げる恰好で格子扉をくぐって店を出た。
狭い階段を降りてビルの外へ出ると、陽射しの眩さに思わず目を細めて天を見上げた。ユズの中に出来たモヤモヤとした心の色と対を成すとばかりの、晴れ渡った澄んだ青空。目が潤んで来るのはきっと、眩しさで痛い所為だと思う。
すれ違いざまに何人かが連れ立って小さな階段のある方へと向かって行った。
「開いてるし。家の娘から聞いたんだけど、確か芳音君の懇談って、今日よ」
「克美ちゃん、ああ見えて寂しがり屋だからねえ。時間ギリギリまで店をやった挙句、時間だー、とか言って飛び出して行きそう」
「言えてる。ダメ元で来てみて正解だったわね」
続いてくすくすという笑い声。
「じゃ、また愛美さんが店番なんだ」
「でしょうね。まだ芳音君には、辰巳さんが海外の赴任先で事故死したことを知らせてないんだって。ほかのお客がうっかり口を滑らせないように、って気を遣ってるみたいよ、ふたりとも」
すれ違った彼女達は、喫茶『Canon』の常連客のようだった。
黙ってその話に耳を澄ませていた。多分、隣で携帯をいじっているカリヤも同じなのだろう。見知らぬ地元の人達が口々に『Canon』のことを語りながら通り過ぎていくのを、黙ってビルの表で人待ち顔の振りをして見送った。カリヤはずっと携帯をいじりながら。ユズはずっと空を見上げたまま。
「すげえな、ホントにガキがいやがった。しかも、すげぇあいつと瓜二つ」
人の流れにひと区切りがついた頃、カリヤが先に沈黙を破った。トン、と先に一歩を踏み出し振り返った彼は、腹が立つくらい晴れ晴れとした笑みを零していた。
「ショックじゃないの?」
「ああ。自分でもビックリ」
すんげえ敵意全開で俺らを睨んでたよな、と笑って言う。
「おふくろさんと巧くやってるってのは、確かだろうな。何か憑きモンが落ちた、って感じだ。俺が知りたかったのは、多分それだったんだと思うわ」
カリヤが再びユズに背中を向け、先へ先へと駅に向かって歩き出した。ユズは慌ててそれを追い掛けたが、あと一歩のところで隣へ並ぶことが出来なかった。俯いて、長めの髪で顔を隠して歩く彼が、もし泣いていたらどうしよう。そんな想像をさせる後ろ姿が隣へ立つのをためらわせた。
「あいつが一個しかないタマ賭けてまで守ったもんが、どんだけ価値のあるもんなのかを見定めたかった、っつうか」
カヲル子を泣かせて、ほかの女もいっぱい泣かせて、それに見合うだけのモノだったのか、それを見たかっただけなんだ。その呟きは、カリヤの独語に近かった。答えないユズに、やっとカリヤが顔を上げた。
「なあ。カヲル子は、ほかに何か言ってたか? あいつ、本当はこの状況を知ってたんじゃねえか、って気がして来た」
泣いては、いなかった。さっきカリヤが言った「憑きものが落ちた」という言葉が相応しいとしか言いようのない、穏やかで柔らかな表情の瞳がユズを捕らえた。
「ほかは、なんにも聞いてないよ」
ユズは彼のその表情に戸惑いながら、本当のことをそのまま告げた。
「そっか」
と呟くカリヤの声は、少しだけ自嘲を含んでいた。
「もっと早くケリつけときゃよかったな。何やってたんだか、俺は」
妙な不安がざわつき始める。穏やかなカリヤなんて、カリヤらしくなんかない。
「カリヤ、あのさ」
「あ?」
口にしてしまってから言葉に詰まる。何を聞こうとしたんだろう。なんで訊こうとしたんだろう。
(腫れた惚れたとか、誰かにこだわりを持つとか、そういうの、もううんざり?)
湧いた自分の疑問の意味が、ユズ自身でも解らなかった。
「えっとさ、あの子に、何を言ったの?」
取り繕う為に滑らせた疑問が、口にした瞬間本当の疑問に変わった。用件は済んだ、と言ったカリヤ。彼女がカリヤの探し人だと解っただけなのに。芳音にきっと託したのだと思う。
「例の人の言葉を伝えたかったんでしょう? あの子に覚られないように、なんて言ったのかな、って」
――克美の傍へ、本当は帰りたい。
「ってノロケ親父からの伝言賜りました、辰巳の部下より、っつって来た」
そう言っておどけた顔をする。でかい図体をしている癖に、子供みたいにはしゃぎ出す。
「不完全ってのがザマーミロって感じだ。あいつを超えられねえ訳じゃねえ」
がっしりと肩を掴まれる。その力強さにどきりとした。
「でもだからって、遺したもんが不幸まみれって訳でもねえ。あいつの女は笑えていたし、ガキはまっすぐ育っておふくろに邪魔扱いされてる訳でも道具扱いされてる訳でもねえ。やっと、借りを返せた、あいつに」
カリヤの笑いと饒舌が止まらない。これが夜なら、そしてParanoiaにいたのなら、きっと文字どおり酒を浴びる勢いで飲みたいとでも言いそうなほどのはしゃぎっぷりだった。
「借り、って?」
少しでも知りたくて。そいつのことを、というよりもカリヤの考えていることを。機嫌のよさそうな今なら、すんなり教えてくれそうな気がした。
「教えてなんかやんねえよ。でも、そいつの言った言葉を信じることが、出来た。その借りを返せたんじゃねえかな。きっとあの女、姉貴の代わりか何かと勘違いしてたんだろうよ。そういう口振りだったじゃねえか」
「カリヤも気づいてたんだ。彼女の作り笑い」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」
肝心なことを教えてくれない癖に、鼻で笑って逆にユズへ訊いて来る。
「……カリヤ」
モヤモヤが大きくなっていく。あの親子と会った瞬間、カリヤの中で何かが変わった。それが何かは解らない。ただ、ユズにとってそれは、あまり嬉しくない変化だった。
「何怒ってんだ」
「別に怒ってなんかいませんよっ」
もっと突っ込むヤツだったのに。
「あ、そ。まあいいや。それよか、折角だから、松本城行こうぜ、松本城キャッスル! 城とか堀とか兜とかさ、考えてみたらジャパニーズ文化ってヤツをじっくり拝んだことがねえんだ、俺」
ずるずるとタクシー乗り場へ引きずられていく。苛々とモヤモヤが積もっていく。
(カヲル子さんの嘘つき。何が“壊れそうになったら支えてやって欲しい”だよ)
壊れそうなのは、自分の方だ。心の中で言葉にした時、何故、という疑問が飛び交った。
きっと、また距離を離されたからだろう。まだぐずぐずと燻らせている自分と違い、カリヤは、超えた。カリヤの言った「あいつを超えられない訳じゃない」という自信に満ちた言葉が、まだカリヤを超えられない自分を落ち込ませただけだと思う。
「行けばいいんでしょう、行けば。親父さんにお土産を買う時間も取っておいてくださいねっ」
「お、そうだ。俺も誠四郎に買って帰ろう。あと客にも……って、時間ねえ! 急げ!」
「勝手過ぎる……」
「何か言ったか?」
「何でもありません!」
以前と違い、トモダチみたいに接するカリヤに小突かれながら、ユズは渋々タクシーに乗り込んだ。