初恋の人 4
あれから一週間近く経つ。なのに左手がまだ痛い。利き手ではないから、それほどダメージを与えることなどないと思った。
(ってのは、ウソ、だな)
何も考えてなどいなかった。最も知られたくないヤツに知られたことが、勝手に左手を拳にさせた。ユズもいわゆる『同類』の癖に、この自分に哀れむような見下す目を向けたことも許せなかった。
――あんたの弱味を握るチャンスじゃん。
「いて……」
ユズを殴った左手とは別の場所がチクリと痛んだ。
酒でごまかし、アフターで考えることを中断する毎日にもそろそろ限界を感じていた。それを見計らったのかどうか定かではないが。
「たーくみクン」
胡散臭い含みを孕んだ笑いを浮かべたParanoiaのチーフが声を掛けて来た。
「何だよ」
「アフターも度が過ぎると色恋営業と勘違いされて、上客ほど警戒するようになっちゃうよ。たまには一緒に帰ろうよ」
そう言ってラーメンをすするジェスチャーをする。恵斗としてなのか、誠四郎としてなのか、その意図は五分五分といったところか。
「解ったよ。ただし、涼雅を迎えに行けっつー話はナシな」
一応牽制だけは掛けておいた。
涼雅――ユズはあれから部屋に戻った気配がなかった。部屋の前には自室のキーカードが置かれており、部屋の中を見れば、ただでさえ少ない荷物がなくなっていた。カリヤが貸しつけたという名目で買ってやったスーツだけが残っていた状態で。ドレッサーには、信州へ向かう往復のチケットが二枚。
『カヲル子さんに返しておいてください。涼雅』
と、源氏名で記された置手紙が添えられていた。
あのあと、ユズは誠四郎を頼ったらしい。少しばかりまとまった金を貸したそうだ。誠四郎が引きとめたその時にユズが言ったそうだ。
『みんな忘れてるみたいですけど、ボクはノンケですからね』
泣きながら、笑って言っていた。誠四郎から右ストレートとともに、そう伝えられた。
今彼がどこにいるのかは、知らない。口にし掛けた誠四郎を殴り返したから訊き損ねた。訊き損ねたというよりも。
(くそ、腹立つな)
逃げたのだと認めるのに、一週間近くも費やしていた。
このラーメン屋に来るのは何年振りだろう。誠四郎の行き着けなので、別れてからここへ足を運んだことがなかった。メニューの張られたガラス窓の隙間から、終電も終わったこんな夜更けなのに幾つかの人影が伺えた。八年前と異なり、バイトの店員を雇ったようだ。
「親父さん、まだいい?」
「おう。新入り、上がりの前に、メンマとビールだ」
「ラッキー。ありがとう」
親父さんがバイトに指示する声が聞こえる中、誠四郎に続いてのれんをくぐった。
「ども。ご無沙汰っす」
親父さんに気が行っていたのと、頬のガーゼが顔を隠していたのとで、気づけなかった。
「いらっしゃ……あ」
ゆるいTシャツの袖をめくって肩を出し、古びたジーンズに腰エプロンで、お冷とメンマをカウンターに出していたバイトの顔を見て、思わず足が止まった。
「なんでてめえがここにいるんだ」
ユズ、と本名を呼ぶことさえ出来なかった。
気まずい沈黙はほんの数分だけで。
「じゃ、じゃあ、お先に失礼します」
ユズはグラスとメンマを置くなり、逃げるように厨房の奥へ消え去った。
「どういう了見だ、てめえ」
それは誠四郎に対する憤りをこめた詰問のつもりだったが。
「行くとこはねえわ、顔は腫れ上がってるわ、そんな状態で『住み込みで雇ってくれ』なんて言われたら、断れねえだろ」
と親父さんが仏頂面でカリヤに答えた。
「それに基本を教えなくても済むくらい料理が巧いし、何より好きだしね、こういうことが」
親父さんに加勢する誠四郎こそが、一番の策士だろうに。悪びれる様子もなく、しれっとそんなことを言う。
「こンの野郎。話が違うじゃねえか」
「誰も迎えに行けとは言ってないしー。ユズを引きとめてもいないだろう、僕」
「だな」
「親父さんまで口出してんじゃねえ!」
完全に、誠四郎の罠に嵌った。
じゃ、じゃ、と麺の湯を切る音が響く。かつおだしの香りが食欲をそそる。
「このところ、まともにモノを食ってなかっただろう、カリヤ」
飲んでばかりでと説教をする癖に、誠四郎はビールをなみなみと三杯目のグラスに注いだ。
「変に真面目で律儀だよね、あの子」
そう言いながら、自分のグラスにもビールを注ぐ。コトンと目の前にシンプルな醤油ラーメンが置かれると、カリヤはグラスのビールを一気に飲み干し、久々の好物に箸をつけた。
「知りたくなんかなかったのに、自分だけカリヤの過去を知ってしまったから、って。だけど、どうしてもカリヤには自分の素性を知られたくないから、カリヤにだけはこれ以上借りを作りたくないんだ、ってさ」
もう、放っておいて欲しい。これ以上迷惑を掛けたくないから。だから、そんな挑発的な伝言を誠四郎に託したのだと言う。
「あんたってさ、欲しいモノが出来たら、どんな手を使ってでも手に入れる性分でしょう。本当は、調べがついてるんじゃないの、ユズのイロイロ」
あんなに好物だったのに、醤油ラーメンが、美味くない。ぱさ、と小さな音がして、割り箸が片方床に落ちた。
「相変わらず下手くそだな」
口の悪い親父さんが、苦言を垂れながらもフォークを差し出す。変わった形の、波打ったフォーク。
「最近の若いもんは、箸を巧く使えねえらしい。客にこれを用意しとけって言われたんでしょうがなく置いてるだけだ」
きょとんとした顔で見てしまったのだろうか。親父さんはカリヤが何も言わない内からそんな言い訳をして厨房の奥に置かれた椅子に腰掛け、新聞で顔を隠してしまった。
「ねえ。そろそろ捨てれば? 意味のないプライドも、とっくに終わっている色褪せた恋も」
飯が、まずい。ビール瓶に手が伸びる。だが、ビールまでもが、カリヤに逃げるなと言いたいらしい。
「親父さん、もう一本」
「今日は、しまいだ。レジを閉めた」
「マジか」
いつもなら、腹立たしさで椅子のひとつも蹴り飛ばしてやるはずなのに。今夜はそんな気さえ起きず、ただ諦めてまずいラーメンをすすっていた。
「別に、いいんだけどね。カリヤの好きにすれば。ただ、あんた前に訊いたでしょう」
何であいつ、お前には何でも喋るんだろう、って。そう言われて思い出した。あの頃は本当に疑問だったのだけれど。今は、何となく解った気がする。
「こっちが素を晒して真剣に向き合えば、あの子は基本、田舎育ちの素直な生真面目坊やだからね。こっちをまるっと信じてくれちゃう訳よ。可愛いじゃないの」
弟みたいにね、と。だからあの子を泣かす子は、例えカリヤでも許さないと言われた。
別に誠四郎に許して欲しい訳ではない。フォークを握る手に力がこもるのは、別に口惜しいからではない。ラーメンが美味いと感じられないのも、酒が欲しいと思うのも、誠四郎をぶん殴れないのも、別に……。
「親父さん、持ち帰り」
最後のひと口を食べ切ってから、カリヤはやっと口にした。
「ユズ。取り敢えずでいいから、連れて帰る。呼んでくれよ」
丼の中でフォークがからんと鳴るのと、親父が二階に向かってユズを呼ぶ声が重なった。




