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初恋の人 3

 白み始めた空の下を、気だるい足取りでトボトボと歩く。うらぱらに帰ったら、カリヤとどんな顔をして会えばいいのか解らなかった。

 ポケットには、日付の入っていない特急券が、二枚。行き先は、信州・松本市。カリヤの初恋の相手が、命を賭けて守った女が隠れ住んでいる街だと言う。

『あの子、自覚がないの。自分の初恋がもう終わっている、ってこと』

「本当に、そうなのかな」

 胸ポケットに託された依頼が、ユズの足取りを重くさせていた。


 カヲル子に頼まれたことは、その女のところへカリヤを連れて行くこと。

『や、いやです。何で俺が。絶対カリヤに殺される』

 敬語さえ忘れるほどうろたえた。きっとそれはカリヤにとって、大きな心の傷だろうから。

 あの鬼畜で攻専にしか見えないカリヤが、その男にだけは、「抱く」のではなく「抱かれる」つもりでいたこととか。それも、ほかの女に会いたくて子供みたいに泣いた男なんかの為に、そいつの身代わりでいいから、とか。

『オレなんかにそんなの知られたなんてことがバレたら、オレ、絶対殺されますっ』

 もう、グダグダになっていた。聴いた話のシュールさで。

 そのヤクザな男は、組織を潰す為に組へ戻ったのだと言う。父親が、その男の愛人を狙い続けたのが理由らしい。仁侠から足を洗いたいのに、洗わせたくないからというだけの理由で、その男の最も大切な彼女を、男を飼い慣らす為の鈴にした。

 親子なのに憎み合い、挙句その男は銃乱射事件を起こし、父親を射殺した直後、自分の脳天も撃ち抜いたらしい。目撃者が最期に聞いた男の言葉に、カリヤのことは当然なかった。

 カリヤはカヲル子に言ったそうだ。

『あの野郎、これから出逢う、まだそういう相手に出逢えていないだけ、とか抜かして逝きやがったけどさ。なんか俺、こういうの、もうたくさん』

 誰にでも必ずそういう相手がいるとかほざきやがった、と。笑ってそう言ったらしい。今にも泣きそうな顔をしていた癖に。それからカリヤに、作り笑いが張りついた、と。

『まだ若いのに、ホントに臆病な子なの。それを自分で認めたくない、負けず嫌いで見栄っ張りの、駄々っ子』

 続いたカヲル子の言葉を思い出すと、コトンと心臓が早くなった。

『君が今の悠貴にしてくれたのよ。あの子、表情というものを取り戻した。君のことを話す時、怒ったり不貞腐れたり、いかにも可笑しそうに笑ったり。あたしね、その時、すごくほっとしたのよ。やっぱりライバルなんて言っても、憎み切れない……あたしの子、みたいなもんなのね』

 気づいてないの、あの子。自分の初恋が終わっている、ってこと。カヲル子はもう一度そう繰り返し、そしてユズにふたり分のチケットを託した。

『悠貴はただ、あの人がそこまでした女が、幸せに過ごしているかどうか気になるだけ。初めて自分よりも大切だと思った人の愛した人が、ちゃんと幸せかどうか、彼に代わって見届けたいだけなのよ。不器用だけど、優しい子だから。それを、まだ終わらない恋と勘違いしてるの』

 壊れそうになったら、あの子を支えてやって欲しい。無事に連れ帰って来て欲しい。それがカヲル子に頼まれたことだった。

「オレ……カリヤにとって、そんな大層な存在なんかじゃないし」

 自分で発した言葉が、ユズを余計に凍えさせた。




 うらぱらに辿り着き、最上階への直通エレベーターのボタンを押す。カリヤのほかに誰も使わないそれは、すぐにユズを中へと促した。

「……早すぎ」

 多分、きっと、待っている。這ってでも帰って、カリヤの自室ではなく、自分の部屋の前で寝っ転がっていそうな気がする。黙ってカヲル子と抜け出したから、怒りの鉄拳を食らわすつもりで待っているに違いない。

 その憶測が、ユズの進む足を鈍らせた。内ポケットに納めた二枚の紙切れが、こんなに重いと思わなかった。


 チン、と小さな到着音を鳴らし、エレベーターが最上階で停まる。だらだらと足を引きずりながらそれを降り、長い廊下をゆっくりと歩く。ワインレッドのカーペットが、今日に限って血を連想させた。ほかの誰かを傷つけてまで、誰かを愛したことなんてあるだろうか。そんな相手が誰にも必ずいる、なんて。

「ねえよ、そんなの」

 見たことも会ったこともないカリヤの初恋の相手とやらの言葉に、ユズまでもが侵蝕されていた。佳奈子への気持ちが揺らいでいるのか、という一瞬湧いた疑問を消したくて仕方がなかった。でないと、何の為にこんなことをして、何の為に故郷を捨てて、何の為に父や佳奈子に償っているのか解らない。

「父ちゃんを騙したまんまで、償うも何も、ないのか」

 くすりと漏らした自嘲が、いつもよりキンキンと廊下に響いている気がした。

「なーにがおかしいんだよ、クソユズ」

 その声に、ぎくりとする。いつの間にか、部屋の前に辿り着いてしまったらしい。声の主がユズの部屋の扉から背を剥がし、気だるそうに立ち上がった。発せられた彼の声は、思ったより不機嫌そうではなかった。

「……帰って来るかも解らないのに、そんなトコで待ち伏せてる暇な人に笑えただけ」

 カリヤなんか、嫌いだ。顔を見た途端、そう思った。

「何いきなり噛みついてんだよ。噛みつきたいのはこっちだっつうの」

 立ちはだかる背高のっぽ、もうそれに威圧感を感じられない。なのに、顔を上げられなかった。

「何、ザイアクカン? カヲル子がお前を名指ししたんだから、仕事じゃ俺がとやかく言えねえし。しょうがねえだろう」

 不遜な態度で零す余裕が、もう虚勢にしか見えない。

「気にしてると思ったんだよな。待ってやっといて正解だぜ」

「もう、いい」

「あ?」

 きっと多分カリヤにとっての自分というのは。

「そいつの真似ごとをすることで、自分を慰めてるだけなんだ、カリヤは」

 決して手に入らないから。もう、この世のどこにもいないから。

「はぁ? 何言ってんだ、てめえ」

 自分よりも弱くて、自分を見上げて追いかけて来る奴なら、自分じゃなくても別によかったんだ。そう思い至ったら、勝手に口が動いていた。

「オレはあんたの慰みにつき合うほど、落ちぶれてなんかいない」

「……てめえ、カヲル子から何を聴いて来た」

 気色ばむ顔に、一瞬怯む。足が勝手に後ろへ一歩引き下がる。逃すまいとするカリヤの右手が、ユズの襟を掴んで半ば無理矢理引き寄せた。

「アフターで、何があった。吐けやコラ」

「……信州へ、カリヤを連れて行ってやってくれ、って」

 ゴキ、という鈍い音が頬に走った。襟を掴んだカリヤの右手から解放されると同時に、激痛がユズの身を九の字に曲げさせた。

「年増の女相手に監禁された訳でもあるまいし。逃げられたはずだろうが」

 唸る声が、恐ろしく低い。語尾の震えが、ユズにはカリヤのソレが、現在進行形なのだと思わせた。

「あんたの弱味を握るチャンスじゃん」

 鼻から漏れた嘲笑が、誰に対してのものなのか解らなかった。腹に革靴の蹴りが入る。何もない空っぽの胃から、酸っぱいものが零れ出た。

「そこまで俺が目障りか、てめえには」

 身体をまるめたままなのが、口惜しい。立てないほどのダメージを受けていた。

「図星だから、ガチで怒ってるんだろう」

 何に苛ついているのか解らないまま、ユズはカリヤを煽る言葉を吐いた。

 解っているのに。最も触れられたくない傷に触れられることがどれだけ痛いことなのか。カヲル子の「もう終わっている」というのは、やっぱり勘違いだったんだ。痛みの中で、そんなことがぼんやりと思い浮かんでは消えていった。

「顔、どうするんだよ。腫れたら店に出れないじゃん。先輩ホスト、失格だね、あんた」

 出来ることなら、顔を見て言ってやりたかったのに。多分、頬骨にひびが入った気がする。少しでも動くと、酷い痛みが全身へと広がっていく感覚だった。

「……てめえなんか、もう要らねえ。ここから出てけ」

 頭上から降ったその声のあと、カリヤの部屋の扉が乱暴に閉まる音がした。

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