カリヤとユズ 2
気持ちが悪い。ぼやけた視界が、見慣れない足許を映し出す。
「……ここ、どこ……」
というか、自分は誰の肩に腕を回しているんだろう。特に背の高い方ではないが、けっして低くもない自分をこうも簡単に抱えられそうなでかい奴は数えるほどいなかったような気がする。
「俺んちの廊下。っつーか、オーナーに間借りしてる家、っていうんかぃな、一応」
上から降って来た声にうんざりとする。――カリヤ、もとい、拓巳センパイだ。一番厄介な奴に、また借りを作ってしまったらしい。
(それに、家じゃないだろ、この廊下)
涙目が乾いて来た視覚でうつむいたまま左右をうかがう。長すぎる上に、狭すぎる。それに結構見知らぬ場所のはずなのに、見慣れていると感じさせるこのつくり。
「ここ、どう見ても……ブティックホおえっ!」
「きったね! 便器抱えるまでしゃべんなボケ!」
途端、鼻につくすえた異臭。口内にゲル状の異物がこみ上げて来た。
「うおい……ごぅ……」
「何言ってるかわかんねっつの! 待て! まだ吐くな!!」
雑巾色の水玉模様の足が、ひとつの扉の前で立ち止まった。あわせて自分の動きも止まる。開錠を待てず、口の中を満たした吐しゃ物をごくりとやってしまった。
「げ……」
余計に吐き気が増して来た。こんな醜態は初めてで。幾重のも自己嫌悪が譲を襲う。
結局飲み会のだしにされた譲は、あのあと浴びる『ほど』が比喩ではないくらい、歓迎と称した洗礼を受けた。その末の、この醜態だった。
「おら、トイレここ」
みごとにマジックミラーじゃないか、と文句を言う余裕さえなかった。便器の前で解放されると同時に、ひざまずいて便器を抱える。生活臭の感じないそれに違和感を一瞬だけ覚えたが、むしろ今はそれがありがたい。汚い便器を抱きしめる趣味はない。
「ぅ……ごぇぇぇええええ!」
「おま……ネクタイ、便器に入ってるぞ」
気持ちが悪い。腹の中のもの全部を出してすっきりしたい。けれど、このネクタイはお気に入りのもので、なんでお気に入りなのかと言えば……。
「って、センパイ! 何でジャキジャキって音がしてるん……ごぇぇぇえええ……!」
首筋で硬いものが蠢いている。急に首許が解放感で楽になる。問い掛けながら、酔った頭でもはっきりと解った。この馬鹿野郎は、三本しかない貴重なネクタイに、鋏なんかを入れやがった。
「しゃべるか吐くかどっちかにしやがれ。クソガキ」
便器と自分に大きな影が落とされる。無情に流れる水の音。ともに流されていく、水色と紺のストライプが上品だったネクタイ。自分のゲロにまみれたそれが、妙に自分とだぶって見えた。
「……詰まるっすよ……」
「出し切ったか?」
会話に、なっていない。少し吐き気もおさまったことだし、とっとと帰るべきだと自分の中の何かが警笛のような激しい音で知らせていた。屈んだ身を起こそうと両手を便器のへりについて足と腹に力を入れる。
「!」
再びこみ上げる嘔吐感。喉が吐きすぎてひりりと痛い。
「ぉ……ごぇぇええ!」
「馬鹿が……」
再び便器を抱えた譲の右腕を、拓巳がなかば強引に後ろへ引いた。
「な……お……ぇ」
「上着。脱げって。そいつは流石に流れない」
流すもんじゃないだろう、ネクタイも上着も。言いたい言葉は、全て溢れ出す己が胃液に封じられた。
意外にも『俺さま』拓巳は面倒見がいい奴なんだ、とか。店での顔とは違うんだ、とか。そう気づいたのはもう少しあとで、その時の感情の大半は、ただただ自己嫌悪と妙な敗北感で満ちていた。
結局、また拓巳の肩を借りてベッドへ腰掛けさせられ、帰るタイミングを失った。世界がぐるぐる回っている。閉じられたカーテンの隙間から、真昼の陽射しがひと筋部屋へ差し込んで来る。きっとそれは直線のはずなのだろうけれど。譲の目には、不規則なウェイブに見えていた。
ぱたんと冷蔵庫の閉まる音。いつの間に着替えたのだろう。ミネラルウォーターを手にして寝室へ戻って来た拓巳は、スーツからラフなシャツとジーンズに着替えていて。いつまでも夜を引きずっている自分が、もっと一層惨めになった。
「おら。口ん中、ネタネタだろ」
ずいと目の前に差し出されたそれを、手にしていいのか考えあぐねる。また借りをひとつ増やすことになるんじゃないのか。『対等な距離』からまた遠のくんじゃないのか――?
(あれ?)
自分で浮かべたその言葉に、一瞬自分で首を傾げた。別にこいつが目標だなんて思ったこと、一度もない。むしろこいつなんか大嫌いな部類で、こういう他人を振り回す奴にだけはなりたくないとか思っていたくらいで――あれ?
振り回しているのは自分である、という現状に気づき、自分が混乱していることを俯瞰で見る自分をも感じ取る。
何なんだ、こいつは――刈谷悠貴っていう奴は。
見上げた視線が奴のそれと絡み合う。なぜ彼がそんな驚いた顔をするのか解らなかった。
「何つー顔して見るんだよ、お前」
――笑った。嫌味抜きの顔で。
軽くコツンとペットボトルで頭を小突かれる。それはきっと特に意図したものでも作為があったわけでもない、とは思うが。――否、そう思いたい。
ぐらりとまた世界が揺れる。縦が横に、横が縦になっていく。流れる視界が止まると同時に、柔らかな綿の感触が頬に触れた。
カシュ、とペットボトルの開封される音が遠くぼんやり鼓膜を揺らす。カーテンの隙間から自分の顔を照らしていた陽射しを、不意に影が遮った。
「ん……?!」」
粘ついて気持ち悪かった口の中が、ひんやりと心地よく冷やされる。口角から漏れ出し首筋を伝っていく水の糸が、譲の背筋をぞくりと舐めた。口内のぬめりを取り除くように舐め取っていく柔らかな感触。これは誰のものだったろう。白くなり掛けた思考が戻って来た瞬間、生ぬるくなってしまった水をごくりと飲み下した。と、同時に口の中を這い回る感触も、息苦しさもついと離れる。
「……っ」
何をする、という言葉を発することを、彼に許してはもらえなかった。
「ん、んん……っ」
食いしばると、また首筋に冷たい感触が零れ出す。拒むことを許されないまま、ひやりとした感覚と、背筋に走る妖しげな感触に溺れていく。今度はごくりと飲み下したあとも、彼は解放してくれなかった。
食むような噛みつく貪欲なキスに、益々混乱させられる。どこか覚えのある感覚。だけど自分の今感じているそれは、昔自分が感じたものというより、その時の相手に与えた感覚ではないか、という気がしてならない。
気づけば圧し掛かっている彼の首の後ろに、手を回し掛けている自分がいた。間一髪で気づけた自分にほっとする。同時に湧き立つのは、羞恥と屈辱と、そして、怒り。
目を見開いて、彼の目を直視する。半分以上外されたシャツのボタンに掛けられた手に手を掛ける。力が入らなくて、止めるにはあまりにも非力なそれだったが、彼を止めるにはそれで充分だった。
不意に離れた距離に、寒さを覚えたのは気の所為だ。自分にそう言い聞かせて、精一杯の目力で相手を睨む。
「……そういう趣味が、あったんだ」
――残念だけど、オレにはそんな趣味はないからね。
借りだらけだった拓巳の弱味を握れた、と思って勝ち誇った口調でそう言った。
だけど勝ったと思ったのはほんの一瞬で。
「やっと素のユズを晒したな」
――ようこそ、“うらぱら”へ。
拓巳――否、カリヤはそう言って傲慢かつ策士の笑みをかたどった。