初恋の人 2
――何の為にこんなことをしているんだろう。
頭の中で、そんな問いがユズの中で廻り廻ってはまた舞い戻る。大学へ通っていることにして、父にまで隠れて、世間知らずの田舎者でしかない自分が、危ない界隈でこんな仕事をしていることを、幾ら佳奈子が知らないとは言え。
――この人は、オレがカリヤに何をしたと勘違いしているんだろう。
前を向いて歩くとか、カリヤにそれを教えただとか、カヲル子の言っている言葉は解る。ただ、そんな憶測を彼女に浮かばせるような理由や原因が解らない。何と言っても直接彼女と会ったのは、今日が初めてなのだから。
「訊いてもいいですか」
この世界で生き抜いて来たカヲル子の覗く瞳を、たかだか二十歳そこそこの自分が撒けるとは思えなかった。下手な画策を講じるよりも、ストレートに本音で問う方が、少しでも多く情報を得られる気がした。
「家のこと、どこまで知っているんですか。それと、どうしてカヲル子さんほどの人が、家のことにそこまで拘るんですか。田舎で漁師をしてる、地味で普通な家族ですよ」
姿勢を変えて、真正面からカヲル子を捉えて問い掛ける。ワインを舌で転がしていた彼女の白い喉がこくりと上下した。
「多分、君よりも君の家庭のことを知ってると思うわよ。『姫』がこのご時世でもご贔屓いただけているのは、何もホステスの質がいいからだけじゃない」
それは暗に情報屋を裏で商っているという自白に近い。ユズにはそう受け取れた。
「ふたつ目の質問の答えは、そうね。最初にあたしが言ったでしょう。『ただ、君と初恋の話をしたかっただけ』だ、って。それが絡んで来る話なんだけれど、譲君、さっきとても迷惑そうな顔をしたから、どうしようかな」
カヲル子の試す瞳が、ユズの心臓に過剰労働を強いて来る。自分以上に久石家のことを知っていると自信たっぷりで言い切った。佳奈子をよく思っていないこの人は、本当のことを知っているのでは、という恐怖に近い不安が、ユズに白黒をはっきりさせたい気持ちを煽り、言葉にさせた。
「佳奈子さんとオレのことを知っている、という意味なら、はっきりそうと言ってください。何が目的なんですか。お金なら、身バレしていることが判ったし、直接カヲル子さんにオレから返せば問題ないでしょう。親父には」
「早とちり。そして、意外と泣き虫さんなのね」
吐き出す声は、そんな言葉で遮られ、そして視界は彼女の纏うシルクのブラウスの白一色で満たされた。甘く香るソープの残り香は、決して淫靡なものでなく。記憶にはないはずの、母の匂いを彷彿とさせた。
「君の家、というよりも、君に興味があったのよ。悠貴は、君と出会うまではメチャクチャなところがあったから」
なだめる声の紡ぐ言葉が、彼女の腕の中に納まるユズの目を見開かせた。
「あたしにとって悠貴ってね、息子のようなものであり、元々は、同じ人に恋をした、ライバルみたいなものだったのよ。あの子にとってその人は、初恋だったものだから。あの人が死んでから随分長い間、あの子は笑うことを忘れたの。君が現れるまで、ずっと。だから、君を見てみたかったの」
柔らかく拘束していたカヲル子の腕の力が緩む。本題がユズの懸念した部分にないと信じられるほど、切ないくらい痛みの伴う彼女の声。聴いてくれるかしら、ともう一度問われた声に、ユズは身を離しながら小さくこくりと頷いた。
「その人は藤澤会の若頭だった人で、いわゆる仁侠の世界の人だったんだけどね」
そう語るカヲル子の瞳は、ユズには見えないどこか遠くを見つめていた。懐かしげ、というよりも、見えない理由を解っていつつ、それを承服出来ないとでも言いたげな現在進行形の痛みをユズにまで伝えて来る、何とも言えない潤みを帯びていた。
「その人は、まだ雇われホステスだった頃からあたしを贔屓にしてくれていた人でね。だけどある日突然消えてしまって。二十年近く音沙汰もなくて、やっと戻って来たと思ったら、前にも増して派手に女を食い散らかすような、どうしようもない人になっちゃっててね。元々仁侠が嫌いだったのに帰って来たから、何か抱えているんだろう、と思ったの。気分転換になればいいと思って、『Paranoia』へ連れて行ったのよ。悠貴のいるあの店に、あの人を」
たった一度の逢瀬だったと言う。長い時間想い続けて来たカヲル子でも敵わなかった、その男の心に纏った鎧を、カリヤが外したのだと彼女は語った。
「悠貴もアメリカにいる頃に色々あって、喜怒哀楽の乏しい子だったのよ。当時からあたしは、キヌ子さんのところから、救い出したいとは思っていたのだけど。そんなあの子が血相を変えて、その人の居場所を問い詰めに来て。あの人が、悠貴には胸の内を全部話したのだとその時初めて知ったの。あたしがそういう存在でありたくて仕方がなかったことを、あの子ったら、たったひと晩で成し得てしまったの。飼い犬に噛まれた心境を味わわされた、と当時は思った。若かったのねえ、あたしも」
くすりと自嘲を零すカヲル子のことを笑う気にはなれなかった。やっと乾き始めたはずの瞳が、また少しぼやけ出す。それは、ユズがカリヤと出逢ってからずっと抱いて来たものとよく似ている。自分になくて、カリヤが持っているもの。欲しくて仕方がないのに得られないもの。ユズにとってのカリスマ性がその対象であるように、カヲル子にとってのそれが、ユズの知らない、その男なのだろうと想像したら、勝手に瞳が潤み出した。
「同情? 泣いてくれなくてもいいのよ」
「違います!」
自分を嘲るように呟くカヲル子に即答した。その声には意識してもいないのに、勝手に憤りが混じってしまった。
「共感、です、多分。あいつ、だって、ずるいんだもの」
人が必死に努力してもなかなか出来ないことを、難なく何でもやり果せてしまう。自分にも身に覚えのある悔しさだから、と零したユズの話を、カヲル子はしばらく驚きの混じった瞳を向けて聴いていたが。
「そう。自分の子と言っても問題ないくらい若い君に、同情された訳じゃなくてほっとしたわ。この話をほかの人にしたことはないから。でもね、ちょっと、微妙に譲君の思惑とは違うのよ」
――彼はまったく別の女の為に自殺したから、悠貴とあたしはおあいこなの。
「……へ?」
自殺?
自分とは無縁のシュールな単語が、ユズに頓狂な声を出させ、その身を固まらせた。