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初恋の人 1

 こちらから誘うまでもなく。

「盛大にお持ち帰りされちゃった……」

 店を抜け出す時のシュウの恨めしそうな顔を思い出すと、奴の仕返しがちょっと怖い。

『カヲル子さん、僕のラスソン聴いてくれるんじゃなかったの』

 シュウがそう愚痴るのは、ユズにも頷けた。

『あの、まだ一時間も経ってないないですよ』

 流石に「支払った分だけ飲んでも楽しんでもいないじゃないか」というケチな発言は引き止める理由から差し引いた。

『今夜はね、涼雅と話をしたくて足を運んだのよ』

 悠貴がいないところでね、と続いた言葉がシュウを黙らせた。

『ねえ、それってホントにガチなんですか?』

『あら、信用したから拓巳からあたしを取ってやろうなんて考えてくれたんじゃないの?』

 ユズにはそれ(・・)が何なのか解らなかったが、口を挟んではいけない雰囲気だった。その分、ひとり思考が巡る。

(えっと、カリヤはオレがカリヤをコケにしたと思ったらしくて、シュウがカヲル子さんを取っちゃえって思ったらしくて、カヲル子さんはオレに用事があるからココに来たって言っていて、シュウはすんごい疑わしそうな顔してそれ(・・)ってのについてガチかどうかって今訊いている訳で……)

 ――ショウコさんの言ってたとおり、タゲられたのかな、オレ?

 思考というよりも、妄想に近い気がして来た。

(うん、妄想だ、妄想)

 言い聞かせても言い聞かせても、握る拳の内側がじとりと湿った感覚をいや増させていく。

 確かにキレイな人で、それはもう詐欺レベルにキレイな人で、年齢なんて全然解らないし、あのカリヤでさえもが結構殊勝な態度で接するのだから、確実に相当年上な訳で。それでもって異常に情報通とも言っていたし、なんだか自分のタイプとかあっさり調べ上げていそうな気がする。

 食えないタイプの人ではない。結構オイシイかも知れない。でももしこっちが食われてしまえば、佳奈子のことをゲロさせられる自分になってしまうかも知れない。

 ヤバイかも――そう思った時には、既にシュウとカヲル子の交渉が終わっていた。

 気づけば黒服達が巧みにカヲル子とユズを裏口へと誘導し、店の誰にも知られることなく迎車のタクシーに乗せられていた。




「お待たせしてごめんなさいね。やっぱり和装は帯が苦しくって。ついでにお風呂もいただいちゃったわ」

 長い着替えを終えたカヲル子の声が、ユズの肩をびくんと上げた。

「……」

 咄嗟に顔を上げて彼女を見た途端、言葉と思考が奪われる。和装も確かに和の華と喩えていいくらい美しかったが、派手さのまったくない普段着の姿とナチュラルメイクの彼女もまた、別の意味でユズの目を奪った。

「なぁに? 明るい照明の下で見たら、思ったよりおばあさんで驚いた?」

 おばあさん、という言葉に頭の中ではてなマークが乱舞する。彼女は特にユズの答えに頓着するでもなく、キッチンへ寄り道してグラスをふたつ手に取った。

「……いえ」

 やっと出した声がかすれる。アルコール摂取による渇きの所為だけでなく、呆けた口が舌まで乾かしていた所為だと気づくのに少し時間が掛かった。

「素顔の方がキレイだな、って」

 半分以上本気でそう言った時には、彼女は向かいではなくユズと同じソファのすぐ隣に座っていた。

「聞いているより随分女性の扱いに慣れてないのね」

 筋のとおった彼女の一重が、柔らかな上弦を描く。呼応するように唇がかたどる下弦から、そんな言葉と一緒に笑いが漏れた。

「す……みません」

 何に謝っているのか自分でも解らない。頬が妙に熱くなって、彼女が差し出したグラスも受けずに俯いたまま顔を上げられなくなっていた。

 彼女の、柔らかな弧を描くその縁の奥から覗く瞳がユズにそうさせた。どこか既視感がある瞳。だけど確かに初見の瞳。覗き窺い探る漆黒に近いブラウンが、ユズに直視を耐え兼ねさせた。

「そんなに緊張しないで。別に取って食べようなんて思ってないから」

 ――君と、初恋の話をしたかったの。

 どくん、と大きな音がする。そんな音、錯覚だと頭は言っているのだけれど。腹の底に氷水が押し込まれる。背筋がぞくりと寒くなる。そんな感覚で、覚った。やっぱりタゲられたとか何とかというのは、浅はかでどうしようもなく下衆な妄想に過ぎなかったということを。

「豊さんの一人息子さん。君は久石譲君でしょう?」

 カナの義理息子でもあるわよね、と尋ねる言葉は、質問というより確認の意思がこめられていた。

 注がれたのは、赤ワイン。傾け乾杯を交わしたあとも、それを口にするのをためらった。まんじりとそれを見つめることで、カヲル子の探る視線から逃げていた。飲んだら一気に酔いが回るに違いない。そう思うほど心拍数が上がっていて。勿論全然色めいた理由からのそれではなくて、彼女が『誰の』『何を』『どこまで』知っているのか、そして自分から何を聞きだそうと目論んでいるのか皆目見当がつかないことが、余計にユズの落ち着きをなくさせた。

「豊さん、カナを籍に入れたんですってね。ホント、律儀な人なんだから」

 父、豊が組合の旅行で何度か東京に来たことがあるのは知っていた。佳奈子との結婚を相談された時に、ことの経緯も聞いていた。

「佳奈子さんが『姫』に借金を返し終えてないのは、父も僕も知ってます。だから父は今も殆ど帰らず、ずっと海に出たままで」

 佳奈子とその子の平穏な生活を守りたくて。返済の意思があることを伝え、連れ戻すのを勘弁してもらおうとユズなりに抵抗を試みた。

「お金の話なんて、今はどうでもいいの」

 カヲル子がそう言って人差し指を立てて、ユズの唇にそっとその先をあてがい言葉を封じた。白い指先を清楚に飾る、更に白い爪の先。整えられた爪の先がくすぐるように唇を辿る。彼女の所作ひとつひとつが、どこか妖しい含みを孕む。その指先が離れた途端、飲まないと決めたはずのワインを一気に飲み干す自分がいた。

「豊さんに警告したから、君にまで警戒されちゃったのかしら、あたし」

 カナは君達親子が思っているような、そんな弱い女じゃないわよ、と呟く声が苦しげだった。

「君がカナに送っているお金、一度もこちらまで届いてないのを知っていた?」

「え……」

「だと思った。譲君、過去なんか見ないで、前を見て歩きなさい。あたしが伝えたかったのは、それだけなの。悠貴にそれを教えてくれた君なんだから、君自身にもそれが出来るはずよ」

 頭の中で、カヲル子の言葉がスパークする。佳奈子、父、そこまでは解る。ひとつの事柄が繋がっている。でも――カリヤの名がここで出て来ることが、ユズには違和を覚えて仕方がない。加えてお金の話ではないという。

 誰の、何を、どこまで知っているのか――カヲル子は、それらを知っていると匂わせた。まるでこちらの出方を待つとばかりに、口に含んだワインをゆっくりと舌で転がしていた。

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