バクダン 3
今日は即興のプチイベントがあるらしい。
『だから今日はリョウちゃん、ヘルプ報酬がなしになるけどごめんね』
誠四郎――チーフの恵斗にそう言われたユズは、内心収入減に不安を抱きながらも「はい」とにこやかな笑顔と肯定の言葉を返す以外選択肢はなかった。
控え室でイベントが始まるまで、指名が来ない限り退屈だ。独りぽつんとそこにいる自分が何だか妙に虚しかった。
(何で今日に限って、オレだけ指名がないんだよ)
久住からひとり、ふたりと呼ばれて閑散とした挙句に取り残され、何とも言えない気分になった。
今月はやばいかも。そう思った時に、久住の声が降って来た。
「涼雅、ご指名。リコちゃんだよ」
「……はい」
リコの指名を受けるくらいなら、いっそお茶引きの方がよかった――なんてことは口が裂けても言えないが。
(全部、尾崎が悪いんだ)
あの歌を歌った所為で、今の自分を甘えた昔の自分に逆行させた。佳奈子を安心させたくて、嘘にまみれた想いで「これを目指す」と告げたその曲――『シェリー』。
夢を見つけて、もう皆に後ろ指を指されない自分になって帰るから。そしたら迎えに来るから、その時こそ、今度こそ離れないから――そんな嘘をついて、逃げた。それこそ無理な絵空事と解っていて、彼女はそれでも見送ってくれた。
リコは彼女じゃないのに。独りになるのが怖くて。
そしてやっぱりまた逃げた。彼女が眠っている間に、こっそりと彼女の部屋をあとにした。その後のメール攻撃とプライベートの干渉はユズに激しい後悔を抱かせ、客が減っても構わないとばかり、ケータイに登録した彼女の番号を着信拒否設定にしていた。
嫌なのは、リコじゃない。そういう穢い自分のことだ。
自分のどこがいいのか、リコの心理が解らない。いっそ毛嫌いして来店しなくなってくれたらいいのに、と思いながらも席に着いた。
「こんばんは。もう来てもらえないかと思った」
あからさまな営業トークで、冷たいホストを演じる。
「あれから毎日メールも電話もしてたんだよ。でも繋がらないし、お店にも来てたんだけど、リョウは体調を崩してお休みだ、って聞いたから……もう大丈夫なの?」
そういうことになっていたんだ、とリコの言葉で初めて知る。支配人の榊からは、彼女がバクダンだから極力追い払う、とだけ聞いていた。
久住から事前に言われたとおり、彼女が来たらヘルプを入れるように話を促す。
「うん、まだ本調子じゃないんだけど、やっぱり逢えないのは寂しいしね。でも、リコさんにその所為でトーンダウンさせちゃうのも嫌だしさ。ヘルプもらってもいいかな」
台本のように、淡々と告げる。それもやっぱり恵斗から言われたとおりに。
「その代わり、ボクなんかよりもすっごい楽しませてくれる人だから」
彼女の好きな笑顔を浮かべ、ダメ押しとばかりもう一度言う。
「ね、お願い」
不快そうな面持ちでしかめた彼女の口許が、諦めの笑みをかたどった。
「リョウがいてくれるだけで充分なのに。でも、その方がいいなら、それでもいいよ」
ありがとう、と耳元に息が掛かるほど近づいて囁くと、彼女はびくんと肩を揺らして真っ赤に顔を染め上げた。久住へサインを送ると、嘘で汚した口を清めたくなった。
「ボクも一杯いただいていい?」
「もちろん。あ、リョウ専用にボトル一本入れようか。好きなの頼んで」
いいの、と遠慮がちに言いつつ心の中でラッキーとガッツポーズを取る自分がいる。ラッキーと思いながら、格安のワインでいいか、と引け目を感じている自分もいる。ぐちゃぐちゃの重い思考が入り乱れるまま、久住へ追加オーダーを送り、彼女の為の水割りを作っていた。
オーダーしたのは、シャブリのヴァイヨン。一応一級品種だが、それほど高価なものではない――この店に置いているものの割には。
だが、テーブルにオーダーしたワインの銘柄がドン・ペリに変わっていることにも目を剥いたが、それ以上にユズを驚かせたのは
「てぃーっす、お久だねっ、リコちゃん。本日ヘルプの拓巳っでーす。よろ」
とそれを持って来たヘルプのホストだった。
「え、嘘……拓巳さんってだって、私なんかが……ええ?!」
隣に座るリコも、目を剥いている。そりゃそうだ。ヘルプなんかする新米でもなければ、そんな余裕さえないほど指名を受けているこの店ナンバーワンのホストなのだから。
「だーってさぁ、最近ちーっともショウコが顔を出さないじゃん? リコちゃんも、もうおトモダチに義理立てしなくってもいいっしょ。ホントは涼雅なんかに渡したくなかったんだよねー」
楽しげにそう喋くり倒しながら、盛大に高級ワインをグラスに注ぐ。それはユズに対してではなく、リコの前にことりと置かれた。
「んな安物のウィスキーなんて、ドン・ペリ三本のリコちゃんには似合わないって」
そう言ってやすやすとリコの前から、ユズの作った水割りのグラスを自分の側へスライドさせた。
(ちょ……センパイ何やってるんっすか。それって反則技でしょ)
これではどっちが本命でどっちがヘルプか分からない。永久指名が常識なのに、カリヤ――拓巳の口調はまるで横取り宣言みたいなものだ。
「おら、お前はさっさとグラス片して来いや」
拓巳の不遜な態度にカチンと来た。ルール違反に横暴なオラオラ営業。リコのキャラを考えたら、そんなの店にとっても悪印象この上ない。
「嫌で」
す、まで言い切らない内に、リコがユズの代弁をした。ドン・ペリのグラスを手にしたかと思うと、その中身を拓巳へぶちまける形で。
「私は、水割りが飲みたいの。お節介はやめて」
そう言って水割りのグラスを見つめ、そしてユズを見つめて笑みを浮かべた。
「あ、あ、ゴメンナサイ」
慌てて水割りのグラスを手に取り、水滴を拭って彼女の前へ戻す。
賑やかな音楽だけが妙に響くと感じた理由を覚ったのは、周囲がこちらを注目し、黙ってことの成り行きを見守っている視線に気づいてからだった。
慌てておしぼりを運んで来た久住からそれを受け取った拓巳が、ジャケットを汚したワインを拭き取る。
「ひっでぇ。物理攻撃の前にひと言言ってよ。ちょっとリコちゃんにお願いごとがあるから、ほんの前払いのつもりのグラスだったのに」
これが仲間内なら水一滴でも容赦しない癖に、拓巳は相変わらずへらへらとした笑顔のまま、意味ありげなひと言で何かを匂わせた。
「お願いごと?」
「そ。何もご法度の指名剥奪ってことじゃなくってね」
そう言いながらも馴れ馴れしくリコの肩を抱いて耳打ちをする拓巳に対してなのか、されるがままに肩を抱かれているリコに対してなのかは分からないが。
(……何か、むかつく)
ユズは苛々した気持ちと手持ち無沙汰を持て余し、勝手にドン・ペリを新しいグラスに注いで一気にあおった。どうせ『センパイ』の奢りらしいし、勝手に飲んでもお客の迷惑にはならないだろう。
「……本当ね? 約束よ」
内緒話を終えたリコは、拓巳にそう念を押して期待混じりの目で彼を見た。
「っしゃー、じゃ、軽くイきますか!」
拓巳のその合図とともに、ほかのホスト達が一斉に立ち上がる。
「え? え?」
何か打ち合わせでもあったのだろうか。自分だけが知らされていないのは何故なんだ?
BGMが、シャンパン・コール時限定の派手な音楽に切り替わる。
「リコさまより、サロン入りました!」
マイクを通した拓巳の声が、ホール一帯に響き渡る。
サロン――サロン・ブラン・ド・ブラン・ブリュット。十年に数回しか作られない、超高級シャンパーニュ。
「うそ、だって、リコさん、この間ドン・ペリ入れたばっかり」
「うん、だから意地でも私の為に勝ってね、リョウ」
――勝って?
まったく意味が解らない。泳ぐ視線は必然的に、何かを企んでいる拓巳へ向かう。
見上げた視線が、不敵な笑みを浮かべて見下ろすそれと合う。
「ただいまよりプチイベント、次の『Princess la Mu』五周年イベント同伴権を賭けての酔い潰しサドンデスバトル始めまーす! 参加したい奴はメンバー、お客問わずこっちの席へ集まりな!」
(マジか!)
ユズの呆気にとられた姿が、テーブルに集まる観衆であっという間に見えなくなる。スポットライトがリコに当たり、
「同伴オッケーっていう寛大なレディは、リコちゃん、魅惑の純白天使ちゃん!」
馬鹿ばかしい軽いテンションの紹介が、ユズの不快を余計に煽る。気づけば人ごみを巧く掻き分け、大量のグラスを載せたカートがこのテーブルに運ばれて来た。
「キャッシュは俺かリコちゃん持ちだから、ほかのみんなはテキトーに楽しんで飲んでくれて構わないぜ」
そんなあり得ないハイリスクな台詞を聞いて、自分から血の気の引いていくのを感じて隣を凝視した。
「り、リコさん、どゆこと?」
「ショウコが最近ここへ来ないのは、『Princess la Mu』のシュウに鞍替えしたからなのね。こっちへ呼び戻したいから、一緒に同伴して欲しい、って。でも、リョウ抜きでってのはルール違反でしょ。だからこのサドンデスでリョウが勝てばイベント参加の権利はリョウに譲る、けど、もし拓巳さんが勝ったらリョウは拓巳さんに私を譲らなくちゃいけないの。それと負けた方がこのイベントのお酒代を持つ、ってこと。だから、頑張って」
って――。同業巡りに自分の店の客を同伴とか、しかも自分の客じゃない相手をとか、そんなの業界のルール的にアリなのか。
むかつく。何がと言えば、指名権がどうこうというのではなく、拓巳がリコのキャラを一見の段階で見抜いていたこと。それも、自分以上に。
結局、リコにとってもその程度なのだ、自分は。頑張って、と言いながら、現状に酔って顔がほころんでいる。地味で目立たなそうな彼女はきっと、自分を取り合うというこのシチュエーションが初めての経験なのだろう。それも一方はこの店ナンバーワンで、自分の収入では指名出来そうもない拓巳と来た。
「……意地でも、勝ってやる」
――馬鹿にしやがって、カリヤの奴。
ユズの中で、何かがキレた。