その国境は、どんなところにもあって、どんなところよりも近い。
1
今から十年前の過去の話。ほんの些細なことがきっかけだった。
各都道府県の魅力を発信して、地方を盛り上げようとした国は『地方盛況大祭り』を執行。なんやかんやの前評判を覆し、各地方は大いに盛り上がり、なんやかんや繁栄を極めた。
だが、その各地方の競争は次第に激化。都道府県同士の競争は市町村まで飛び火――これが世に言う『ご当地大戦争』の始まりであった。
ご当地大戦争による激しい争いのなか、ついには各自治体が独立を宣言。戦争、吸収、合併を繰り返した。
巨大化し始めた埼玉連合王国が東京大帝国に対してサトイモの輸出を拒んだことから、攻撃を受け、今では東京大帝国と群馬民主共和国によって領土分割を強いられた――はたまたこれが世に言う『埼玉サトイモ紛争』である。
その強烈な敗北の背景にはインターネットによるサイバー攻撃、プロパガンダがあり、ネットの発達による『とりあえずなんでもネットワーク』の脅威を世に知らしめた。
各国は防衛策として、ネットワークをオープンなものからクローズドなものへと転換し、社会は閉じられたものへと変化していった。
――だが、人はひとりでは生きられない。各国の交流・貿易は絶対的に必要であった。
そこでデジタルネットワークの代替として誕生したのが、『飛車配達人』。古来に存在した飛脚と現代の配達を足したことで、その名が生まれた。
飛車配達人の基本的な仕事は国家間の交流を繋ぐものである。
国家元首の親書、企業間の交渉文書、個人の手紙、小荷物の配送――重要度に差はあれど、できる限り国家間を繋ぐのが彼らの仕事。
そして飛車配達人の移動手段は〝脚〟ではない。飛車配達人の名の通り、彼らの移動手段は〝車〟。
正確にいえば、前後にタイヤが二つある乗り物、つまりバイクであり――これが飛車配達人の移動手段なのである。
2
埼玉連合王国に隣接する『旧つくば下妻国』の関所に、ヘルメットを被った少女がアメリカンタイプのバイクに跨りながらパスポートを男の門番手に渡した。
飛車配達人たちは国の出入り口に設置された関所を通らなければならない。クローズドな国家間においても、円滑な連絡を得るための処置であり、同時に飛車配達人が信用を得るためでもある。
関所本体とは建てられた時期の違う『つくば下妻国・臨時政府』と書かれた看板を見た少女は、パスポートを確認している門番手に尋ねた。
「つくば下妻はまだ政府が決まってないんですか? 『埼玉サトイモ紛争』からもう六年ですよね?」
「そりゃあね。ここ、つくば下妻国は埼玉連合王国の一部だったわけだから、東京大帝国と群馬民主に分割されちまった以上、正式な政府だって簡単には決まらないんだよ。群馬民主の顔を伺うのは大変だってこった」
パスポートを確認した門番手は、少女の顔を見て確認を取り始めた。
「名前は?」
少女はヘルメットを取り、顔を出した。
ふわっと落ちた髪は肩にそっと掛かる程度の長さ。目覚めのいい朝で起きたと思えるぐらいに清々しい表情。瞳は、遠い遠い先の景色を見ていて、真夏の青空ぐらい青い瞳をしていた。少し濃い目の青いライダースジャケットを着た少女は自分の名前を伝えた。
「駆奈。長道駆奈です。十七年生まれで、今年で十八歳。性別は女。配達人番号・A02-035-14000。趣味はバイクでにひゃ――」
門番手は手を上下に揺らした「けっこう、けっこう。なるほどなるほど、今日が初めての『飛び』ってところか」パタンとパスポートを閉じて、駆奈に返す「それで目的地は?」
手を伸ばして、パスポートを受け取った駆奈は答えた。
「甲府公国です。ここから埼玉連合王国を通って、甲府公国まで。初飛びなんですよ、私!」
「そりゃいいことだ。なら、初仕事がんばってくれ。事故には気をつけな」
「はい! ありがとうございます。じゃあ、行きますね」
ヘルメットを被ったあと、左手でクラッチレバーを引き、ペダルを踏み込んで一速にギアを入れた。駆奈がぎゅっとアクセルを回すと、等速で流れていたマフラーからの排気音が抑え切れない感情を高ぶらせるように唸りを上げていって、ブレーキも放していった。
タコメーターのないシルバー色のバイクから聞こえる音を頼りに、駆奈はクラッチを繋げていく。前傾姿勢にはならず、着座位置より前に出たステップにバイクを支えていた片方の足を乗せて、半クラッチによって歩き始めのような動きを見せたバイクに対し、アクセルの開度を開けていき、クラッチレバーもスッと放した。
上向きについたシルバー輝く、クロームメッキのダブルショットガンマフラーから低重音を響かせて駆奈は走り去っていた。
3
現在、埼玉連合王国の北部は群馬民主共和国に、南部は東京大帝国によって分割・統治されている。埼玉連合王国の臨時政府が六年経っても正式に決まらないのは、まさに分割された状況によるものだった。
東京大帝国と群馬民主共和国は両国に利益をもたらす政府の樹立を目指したが、両国は決して信用しあってるわけではない。むしろ、共に不信に思っており、両国の意見の一致が乏しい状態が続いた。
決まらぬ決定に埼玉連合王国の臨時政府は、両国に対して軟派だった態度も毅然とした態度へと変わっていき、埼玉連合王国の王位継承権を持つ御三家――『大宮家』、『浦和家』、『与野家』の復権を模索し始めていた。
埼玉サトイモ紛争時に王だった大宮家も、挽回のチャンスを虎視眈々と伺っていたのだった。
シルバー色のバイクは群馬民主共和国が統治している、土地を走っていた。旧つくば下妻国から、甲府公国までの道のりは群馬民主共和国が管理している土地でもあり、旧つくば下妻国の関所を通れば、甲府公国の関所以外に引っ掛かる場所はない。
仮にも東京大帝国の統治する南部を通ろうとすれば、いくら埼玉連合王国の領土であった場所から出発していたとしても、不法入国を疑われる可能性は高い。
飛車配達人のスローガンは『短時間』、『長安全』。短い時間で着き、長い時間安全であること――これを可能にするためには、このルートはうってつけであった。
見通しがよく、木々が左右に広がる林道を走り抜ける駆奈は視線を下に向けた。ティアドロップ型のガソリンタンクについたメーターの速度は上がっていく。
「百七十……百七十五……百八十……」
DOHC4バルブの250cc・2気筒V型エンジンは回転を絞り出しながら、重苦しくメーターを回す。スロットルは最大まで開けているが、まるで鈍くなったような感覚。キャブレターから飛ばされるガソリンは燃え上がる大きな火に対して、どうにか爆発を強めようとしている状態。
このバイクのエンジンは爽快に上まで突っ走るエンジンではない。
だが、駆奈からは微笑みが漏れる。
「――いいね。この、ギリギリの感覚。どんなときでも全力を出し尽すその瞬間が、ちょう――グッド!」
一ミリずつ限界という至高の到達点へと近づく感触を駆奈は求めている。前方から来る抵抗の風は切り開くというよりも、切り裂いていっている感覚。
「……百八十五……百九十……あとちょっと」
視界の端はまるで伸ばした絵の具のように残像になり、視界の正面は遠くを見なければハッキリと見えなくなっている。うるさいはずのエンジン音はもう慣れた。一万回転まで回っているはずなのに、駆奈の耳には無音にすら聞こえている。
駆奈は視線をメーターに移す。もうその瞬間は間近だった。
「……百九十五……百九十八ぐらい……」
なかなか進まない重そうに動くメーターの針は――ついには二百を指した。
「二百! 二百キロきた! やっ――」
視線をメーターから正面に向けたとき、駆奈の目の前には少女が飛び出してきていた。
どんがらがっしゃん!
初めての飛車配達人の仕事。教習中はミスなくすべてをこなした駆奈。十八年間生きてきた彼女の初めての違反と犯罪は、二百キロ飛ばしたバイクでの人身事故だった。
バイクは倒れ、駆奈もうつ伏せに倒れている。身体をピクピクと震わせながら、立ち上がる駆奈に駆け巡る思考は単純なものだった。
「ひき殺しちゃった……かも……」
ヘルメットを取り、白いガードレールに布団のように干された少女を見た。ちらりとバイクを見るが、バイクの方は壊れている様子ではない。実際起きたことは、二百キロで横から飛び出してきた少女を轢き、バランスを崩しながらもブレーキを最大限に掛けていったおかげで、バイクの方には大きな損害はなかった。
だが今何よりも重要なのはバイクではない。少女をひき殺した可能性があるということだ。
ガードレールで干しあがっている少女に声を掛けた。
「あの……生きてますか?」
返事がない、干物のようにあがっている。
少女の見た目は少々汚れているが、貧相であるようなものではない。
それは服装や髪からの印象でもある。服は汚れながらも微光沢のある、梳毛の白いウールジャケット。中には生成り色のワンピースを着ているが、それも密度の高く織られたリネン地。だいたいの人が奮発した服として、どちらか片方を持つような服を彼女は両方も着ているのだった。
髪の方は少々油ぎっているが、長く艶のある髪は栄養が生きわたっている証拠。少し前まで、しっかり管理していたに違いはない髪だとわかる。パッとした印象は、いいところ育ちのお嬢様という感じだった。
駆奈はそーっと手の伸ばして、彼女の肩を指で叩いた。
「……もしかして死んでます?」
返事がない、やはり干物のようだ。
駆奈に様々な考えが浮かび上がり、「うん、これは気のせいかも。なかったことにしちゃおう」とそれなりに優等生な人生を送った彼女にはあるまじき思考にたどり着いた。
理由というのは知れている。ふたり以外誰もいない林道、初の仕事、そしてバイクで走ることが好きな彼女にとって免許の取り消しは絶対に回避せざるを得ないからである。
かなり個人的なものではあるが、バイク好きでそれを仕事に出来た彼女にとっては、かなり重要でもあった。
「じゃあ、私忙しいんで、失礼しま――」
肩を叩いていた指を引っ込めようとしたとき、その手首を握られた。ガードレールで干しあがってる少女は「なに逃げてるのよ」睨みを入れた。
ウェーブが掛かった前髪の隙間から見える目は、恨みという感情もありそうだが逃がさないという目にも見える。
駆奈の脳内を瞬時に駆けた発想はひとつ。バイクに乗って逃げる――だった。
「や、やっぱり失礼しまーす!」
無理やり掴まれた手首を「おりゃーっ!」と振り払って、すぐさまダッシュしてバイクを起こした。
「エンジン掛かってー、チョークなくてもいってー、こんなタイミングで壊れてなんて……」
セルボタンを押すとセルモーターが――キュキュキュキュ――と周り、マフラーが鼓動するように震え始めて、重みのある低音とともにエンジンが掛かった。
駆奈の表情は人生で下から数えて十六番目の切羽詰まった表情から、人生で上から数えて四番目の晴れやかな表情へと変化した。
「ちょう――グッド! 早く逃げなきゃ!」
すぐに一速に入れて、アクセルを回して、急かす気持ちで駆奈はバイクで走り出し始めた。
だが、おかしい。
発進直後に少し前輪が浮き上がる挙動を見せた。正確にいえば、それは正しい挙動である。駆奈もそれぐらいのアクセル量を回していたのだから。
事実、おかしいのはそこではない。なんちゃらおかしいのは、その挙動は一秒にも満たない程度の出足のはずなのに、一秒を超えた時間、前輪が浮いていた。
これは後方に重さがあることを意味していた。だから、こんな挙動をしている。運転フィーリングで妙な重さを感じた駆奈は、恐る恐る後ろを向いた。
「なによ。ワタシをここで降ろそうだなんて許さないから。止まらずに、走りなさい」
ふてぶてしく後ろのタンデムシートに座っていたのは、バイクで轢いた少女であった。
「えっ!」
駆奈のこの「えっ!」は、「走るってどこに?」と「なんで二百キロで轢いたのにピンピンしてるの?」の二つの意味を持っていた。
少女は言う。
「前見なさい。アンタはまた人を轢きたいの? いいから行くのよ」
「どこに? というか誰なんですか」
少女はバイクから落ちないように後ろから駆奈に抱きつき、語り出した。
「ワタシは『大宮なのか』。大宮家の長女にして次期国王……いえ、女王といえる。目指すは甲府公国よ」
はからずも、なのかの行き先は駆奈と同じであった。駆奈がバイクで道路を駆けながら、「お、大宮家の長女だってー!」と頭の中で言葉を発しているなか、彼女のライダースジャケットのポケットになのかは手を入れた。
なのかは駆奈のパスポートを手に取った。
「ふうーん、やっぱりね。アンタは飛車配達人、適任ってところじゃない。飛車配達人としてワタシを配送しなさい、これは埼玉連合王国の王家である、大宮なのか直々の命令よ」
国家を繋ぐのが飛車配達人の仕事、駆奈に断る選択はない。もっというなら、拒否した瞬間に何されるのかわからない恐怖の方が上だったので、結果的に断る選択も取れなかったのだった。
「……はい、『配達』承りました。甲府公国まで『飛び』ます。大宮なのか様」
「よろしく、配達人さん――いえ、長道駆奈」
ここからふたりの旅が始まる――の前に、なのかはひとつ駆奈に尋ねた。
「止まるなって言ったのはワタシだけど、甲府公国ってアンタの来た方向じゃないの? もう、切り返していいけど」
「つくば下妻国の方角ですよ、そっち」
「ウソ! ワタシ、三日間歩いてきたのに逆方向?」
「ええ、はい逆も逆、真逆です。明日には着きますから、とりあえず少し走ったら今日は休憩して――」
なのかは「ダメよ」と言った。
それに対して駆奈は「は?」と言った。
「明日の朝前には行って。夜が明けてからじゃ遅いのよ」
「どうしてです? 甲府公国に急ぎの用事?」
「近い感じよ。ワタシがするのは国外逃亡――夜明け前に関所を突破するのよ」
これに対しても駆奈は「は?」と言った。
ふたりの旅は、てんやわんやな短い旅へと変貌していったのだった――。
4
時速二百キロで大宮家の姫である、大宮なのかを全力で轢いた長道駆奈。
何の運命のいたずらか――五体満足な大宮なのか、彼女の行き先とちょうど同じ長道駆奈。ふたりは、暗くなりかける群馬民主共和国の支配下に置かれた埼玉連合王国の土地をバイクで走っていた。
いまここは、十年前は『秩父市』という名称があった土地。埼玉連合王国では西にあたる土地である。
ご当地大戦争時には、『越生町』、『ときがわ町』、『小川町』が連合を組んだ『越生・比企連合国家』があり、彼らは隣国で独立を保っていた『東秩父国』の併合を目指した。
同じくして「東秩父国、秩父郡ニ属スナリ。コレ、侵攻許サン」と、秩父市から国家を樹立した『秩父共和国』はそれを許さず、『東秩父侵攻戦争』が勃発。
多大な犠牲を払い、秩父共和国は東秩父国を奪取。
だが、双方ともに疲弊したところを埼玉連合王国が武力行使をちらつかせ、結果的に両国は埼玉連合王国に併合されることになってしまった。これらの経緯を含め、他国ではこの戦いを『横取り味噌ポテト』という蔑称で名付けている。
ああだこうだしてるうち、駆奈となのかは秩父温泉に浸かり始めた。夜になっているが、まだ朝日が昇るまでは時間はある。関所を突破するにしても、深夜を狙う方がよいと考えた。それに、なのかの身も清めようというのもあった。
入浴施設に入る際、なのかは自身の身柄がバレないように髪をぐしゃぐしゃにしてどうにかやり過ごし、今はふたりは温泉に浸かりながら話し合っている。露天風呂で並びながら、星輝く夜空を見ながら――。
「ここから一時間なのね、甲府公国まで」
なのかがそう尋ねると、駆奈は肯定した。
「うん、深夜の三時に行くならその一時間前に行けばふつうに行ける、渋滞とかもない。でも、なのか様はどうして国外に? 次期女王って話なんですよね?」
なのかは目線だけ駆奈に移したあと、また夜空を見た。
「ワタシは父の人形じゃないのよ。サトイモ紛争で父が失脚し、この国は二つの大国によって分割された。だけど、埼玉国民の国民性は簡単に塗り替えられるものじゃない。東京大帝国と群馬民主が自己の都合を押し付けたとて、民は生きてここにいるのよ――決めるのは国民自身、決して権勢ではない。人が人をもって、人を決めるべきよ」
「でも、埼玉国民はなのか様を求めてるんじゃないんですか? 施設のテレビで世論調査やってましたけど、王家の支持率だと大宮家のなのか様が六十パーセント越えてましたし、ポスターもその辺に貼られてましたし、『大宮家の誇る、知と美とお嬢様――大宮なのか』とか」
「アレは父のプロパガンダ。大宮家の力で、いろいろやってるのよ。まあ、それは浦和家と与野家も変わらないけど。――一度〝王〟になったら、次は王にはなれない。これがこの国の憲法。だから父はワタシを王座に就かせて、また権威を振るいたいのよ――大きなおもちゃをもらった、子どもみたいにね」
間をおいて駆奈は気を遣うように聞いた。この話の中で、彼女の芯の強さを感じたこそのものだった。
「なのか様なら、その……お父上……さま? の言うこと聞かなくてもいいんじゃないかと。お強いですし、なのか様。なんか身体の方も丈夫ですし」
駆奈のジョークはなのかにも少々効いたようで、笑みがこぼれていた。だが、その笑みも彼女が駆奈の問いに答えていくなかで、少しずつ減っていくのだった。
「ありがとう、褒め言葉として認識しとく。自分が強い方の人間だってことはワタシだって理解はしてる――身体のほうもね、あと権力も。でもね、怖いのよ。ワタシが女王になったとき、どこかでワタシ自身がその権威に溺れてしまうんじゃないかって。昔の父は好き、今は嫌い。だけど途中で父が変わったのかといえば、変わってない気がする。ワタシが気づいてなかっただけ、あるいは最初からそうだった――答えは一生わからないと思う。だから、ワタシはここを出たい。ここを出て、ワタシが〝ひとりの人〟ということを自身に戒めるのよ。力を持つ、人として」
なのかの決意は明瞭なものだった。「やっぱり強い人だ」というのを改めて駆奈は認識した。駆奈は拳を強く握り、なのかに伝える。
「任せてください、なのか様。あなた様を甲府公国まで私がしっかり『配達』させますから」
「ええ、お願いね。それとワタシのことは、なのかでいい。ここを出たらワタシもただの人よ」
駆奈は首を横に振る。
「埼玉連合王国の中ですから、まだなのか様です。私は飛車配達人、目的地に到着するまでが仕事ですので」
胸に手を当て飛車配達人としての誇りをみせる駆奈を見て、なのかは笑みを見せた。
「いい心がけ、ワタシをなのかって呼ぶのが楽しみ――けど、アンタはワタシをひき殺そうとしたあげく、逃げようとしたことは忘れないから。ここを出たら覚悟しなさいよ」
なのかの笑みにはもう一つの黒い顔が薄っすらと出ていた。駆奈も誇りのある表情のなかで、「あっ、これ私、終わったー!」という言葉を頭の中で投げつけていた。
5
時刻は午前二時五十五分――。ブラジルでは午後二時五十五分。
左右にうねった山道を渡り、山の木々が見える橋の上に駆奈となのかはいる。彼女たちの目の前にはトンネルがあり、ここを通り抜けなくてはならない。
埼玉連合王国と甲府公国の関所はこのトンネルを出た先に存在している。仮にも大宮家のなのかが関所を通って国外に出ようものなら、これはてんやわんやの大騒ぎ。
あくまで食い扶持のために仕事をしている関所の門番手にしても、怪しい人物を取り逃すわけにはいかない。逃がした場合に備え、監視カメラも取り付けられる。その姿が映れば、駆奈にしてもタダでは済まない。彼女たちに残された選択は多くはないのである。
空ぶかしをして駆奈は戦意を向上させた。静かな山道にニュートラルギアでフライホイールに抵抗のない排気音が響く。駆奈は確認を始めた。
「関所にはゲートがあるわけじゃない。足で走るわけでもないんじゃ、スルーしようと思えば誰だってできる」
「だけど、監視カメラや門番手がいるから、見られれば記録されてしまう……そうよね?」
「うん。だから、カメラに映らないように、門番手にも誰だかわからないようにする」
駆奈は大胆に空ぶかしをして、言う。
「二百キロ出して、一瞬のうちに過ぎ去る――これしかないよ。準備はいい?」
「埼玉しか知らぬ者に埼玉の何がわかるのか――準備万全よ。ワタシは国境を越える」
「ちょう――グッド!」
エンジン音が落ち着きを取り戻し、アイドリング状態になったあと、再びアクセルを回した。
今度は、どこにも向かわずここに留まる空ぶかしではない。ここから先に行って国境を越えるためのアクセル。
駆奈はブレーキを放し、クラッチを繋げていった。シルバー色のバイクはトンネルの中へと入っていく。
五分間の勝負がいま始まったのだった。
――ポツポツとした暖色のライトがトンネル内を均等に照らしている。メーターが左から右へと時計周りに回り、速度は徐々に上がっている。
トンネルを抜ける五分間のあいだに250ccのバイクで二百キロ出さなくてはならない。これはとても難しいことである。
最新式のバイクでやっと届く数値であり、駆奈のバイクは四十年も前のバイク。本来であれば到底届かない数字。本来取り付けられていたメーターには百五十キロまでしかないのだから。
そう、これは本来取り付けられていたメーターであればの話。一見純正に見える彼女のバイクだが、そこかしこに改造が施されている。メーターの数字に二百キロまで刻まれているのも、まさにその改造の一つ。
またまた二百キロ刻まれているということは、二百キロ走れることであり、これは彼女のバイクが最新式のバイクに匹敵する並々ならぬバイクであるということ。
これはまたつまり、四十年前のバイクを無理やり改造して、最新式のバイクと並ぶ最高速度に到達させようとする駆奈の異常性の現れであり、いままさに彼女が行おうとしているのは、なのかという人間の重量物を載せながらも、旧式も旧式なバイクで最高速二百キロという極致に達するという技なのである。
いつの間にか四分経ったが、駆奈のバイクのメーターは百九十キロから先に進まない。かなりミリ単位で進んではいるが、これでは残り関所を突破するまで二百キロには届かない。
「二百キロに届かない……」
これには理由があった。監視カメラはトンネルから十メートル先に取り付けらている。
そしてフレームレートは夜間のため五フレーム……つまり一秒間に五枚コマ撮影されている。
二百キロは秒速に変換すると五十五・五メートル、五フレームレートを適用すれば一コマ間隔十・一メートル進む計算となる。この監視カメラに映らず通り抜けるには、二百キロ必要なのだった。
駆奈の呟きになのかは身体を動かす。何をしているかと思えば、着ていた白のジャケットを脱いで捨てたのだった。
「少しでも軽くなるといいけど。他にできることある? やりましょうよ、二百キロ出すために」
「前傾姿勢になるから、私にしっかり抱きついて。空気抵抗を最大限まで減らすよ」
ふたりは空気抵抗を減らすために、バイクのボディに身体をつけた。いつもより間近に見えるメーターは百九十五を過ぎた。
駆奈の背中に頬を押し当てるなのかは大声で聞いた。
「ねえ! いけそう?」
正面しか見えず、ガソリンタンクにあごをつけている駆奈も大声で言った。
「いけるよ! 行くんだよ。二百キロを超えて――国家もトンネルも越えてっ!」
上がることのないエンジン音を鳴らしながら、トンネルからシルバー色のバイクが風を切り裂き、関所を突破した。門番手は驚きながらもすぐに監視カメラを確認したが、記録された映像には何も映っていなかった。
駆奈は突破後の減速と角度で気づかなかったが、メーターの針は僅かに二百キロを超えていた。
巡航速度でゆったり走りながら、駆奈となのかは話していた。
「配達完了……だね。なのかはどうするの?」
「なのか――そっか、もう甲府公国」
「うん、国が変わっても、地面は変わらない」
なのかは駆奈の背中に頬をつけて答えた。トンネルの時のように強めに抱きながら。
「アンタと一緒に行く。ワタシを連れていって」
駆奈は「え?」と言った。どうしてそんなことに……、という意味を込めて。
その「え?」を聞いたなのかは、眉をひそめた後にジワジワと間を置いてから言った。
「連れて行きなさいよ。言ったでしょ、『ここを出たら覚悟しなさいよ』って。ワタシを轢いたんだから、アンタに拒否権はない」
なのかの力は強くなり、駆奈の身体を真っ二つにする勢い。「痛い、痛い!」と駆奈は叫んだ。
駆奈が飛車配達人として、最初に終えた仕事の報酬は『大宮なのか』であった――。
後書き――クスッと楽しんでくれたら嬉しいです。




