嵐の訪問者
「……少し、庭を散歩してくるわ」
あの日、執務室から命からがら(?)逃げ出した私は、数日間、屋敷の隅で息を潜めるように過ごしていた。けれど、あまりに部屋に引きこもってばかりでは、逆に「何か良からぬことを企んでいる」と疑われてしまうかもしれない。
そう思い、私は気休めに、屋敷の裏手に広がる広大な庭園へと足を向けた。
(……ここなら、閣下もお仕事中だし、誰にも会わずに済むはず……)
そう思っていたのに。
「おや……? もしかして、君が噂の『幸運な小鳥』さんかな?」
不意に、頭上から軽やかな声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこには見上げるほど背の高い、金髪をラフに結った端正な顔立ちの男性が立っていた。
アルフレッド閣下の漆黒の冷徹さとは対照的な、陽だまりのような雰囲気の男の人。
「……あの、どちら様でしょうか?」
「おっと、失礼。僕はカイル。アスラン公爵騎士団の副団長をやってる。アルフレッドとは、腐れ縁の親友さ」
カイルさんは、私に歩み寄ると、優雅な所作で私の手を取り、その甲に軽く唇を寄せた。
王都の社交界では当たり前の挨拶かもしれないけれど、最近ずっと閣下の「威圧感」に晒されていた私には、そのあまりに自然で優しい物腰が、まるで聖光のように見えた。
「君がアルフレッドの『番』か……。なるほど、あいつが屋敷から一歩も出さずに隠し通したくなる気持ちも分かる。君、すごく可愛いね。あんな堅物にはもったいないくらいだ」
「えっ……。そ、そんなことありません。私は、魔力もない無能な……」
「ははっ、あいつの前でもそんな風に笑うのかい? もしあいつが冷たくして困らせるなら、僕がいつでも相談に乗るよ。僕なら、君のような可愛い女の子を泣かせたりはしないからね」
カイルさんは悪戯っぽくウィンクをした。
(なんて優しい人……。閣下の近くにも、こんなに話の通じる方がいたなんて……!)
私がほんの少しだけ緊張を解き、微笑みを返そうとした、その時だった。
ゴオォォォッ……!
背後から、大気が凍りつくような、凄まじい「冷気」と「圧」が押し寄せてきた。
「……カイル。貴様、その汚い手を今すぐ離せ」
振り返るまでもなかった。
そこには、全身から黒いオーラを放ち、瞳を氷の刃のように尖らせたアルフレッド閣下が立っていた。
その表情は、神殿で会った時よりも、移住初日よりも、何百倍も恐ろしい。
「あ、アルフレッド、さま……!」
「……一歩下がっていろ、リリア」
閣下は私の腕を掴むと、乱暴なまでに強く自分の背後に引き寄せた。
私の肩が、彼の硬い胸板にぶつかる。心臓が飛び出しそうなほど強く、彼が私を「固定」しているのが分かった。
「おいおい、アルフレッド。そんなに怖い顔をするなよ。僕はただ、ご挨拶をしていただけじゃないか」
カイルさんが肩をすくめて笑うけれど、閣下の殺気は収まるどころか、周囲の草木が白く凍りつくほどに増していく。
「……挨拶? 俺の番に許可なく触れ、あろうことか甘言を吐き、誘惑した。……死を以て償うか、今すぐ国外へ逃亡するか、二つに一つだ」
「……本気かい? 冗談だろう?」
「……俺がいつ、番のことで冗談を言った?」
閣下の手が、腰の剣にかけられる。
カイルさんの顔から余裕の笑みが消え、彼は一歩、また一歩と後退りし始めた。
(……っ! 大変だわ!)
私の頭の中はパニックで真っ白になった。
(閣下は、カイルさんのような優秀な副団長までも、私のせいで失おうとしている! ……そうよ、わかったわ。彼は、カイルさんが私のような『欠陥品』と関わることで、騎士団の規律が乱れるのを恐れているんだわ! 私が彼に馴れ馴れしくしたせいで、カイルさんまで処刑されるなんて……!)
「待ってください、閣下!」
私は必死の思いで、閣下の腕に抱きついた。
「カイルさんは何も悪くありません! 私が、私がつい、彼に馴れ馴れしく接してしまったのがいけないんです! お願いです、彼を罰するのはやめてください!」
その瞬間。
閣下の動きがピタリと止まった。
彼はゆっくりと私を見下ろした。
その瞳は、怒りを通り越して、何か絶望に近いような、深い闇に沈んでいる。
「……リリア。お前は……こいつを庇うのか」
「ひっ……!」
「……俺よりも、出会ったばかりの男の味方をするのか?」
(違う、そうじゃないんです! あなたの騎士団を守るために言っているのに!)
けれど、閣下は私の言葉を聞く耳を持たなかった。
彼は私の腰を、折れんばかりの力で抱き寄せると、カイルさんを地獄の底まで叩き落とすような声で言い放った。
「カイル。……直ちに北の最果ての砦へ向かえ。一年間、雪かきでもしていろ。……二度と、俺の目の前でリリアの名を呼ぶな」
「げっ、雪かき!? アルフレッド、本気かよ!?」
「……行け。さもなくば、今ここでその口を封じる」
カイルさんは「ひえぇ……」と情けない声を出しながら、文字通り脱兎のごとく逃げ去っていった。
残されたのは、凍てつく空気と、狂気を孕んだような瞳で私を見つめる閣下。
彼は震える手で私の顎を持ち上げ、逃がさないように固定すると、至近距離で静かに告げた。
「……お前を、誰にも見せたくないと言ったはずだ。……わかったか。次に他の男と一言でも交わせば、俺は……何をしでかすか自分でも分からん」
(ひ、独裁者……! 自由なんて、これっぽっちも残されていないんだわ……!)
私は恐怖で涙を浮かべ、コクコクと頷くことしかできなかった。




