戦慄のお茶出し
昨夜の「名前呼び事件」のせいで、私はほとんど眠れなかった。
目を閉じれば、顔を覆って立ち去ったアルフレッド閣下の背中が思い出される。きっと今頃、彼は「あんな不敬な女、さっさと処刑してしまえばよかった」と後悔して、私を追い出す算段を立てているに違いない。
(……このままでは、ベルトラン家の名に泥を塗ってしまうわ。せめて、最低限の『番の務め』は果たさなきゃ)
私は朝早くからキッチンを借り、自分にできる唯一のこと——お茶を淹れることにした。
魔力は空っぽだけど、家政の授業だけは真面目に受けていたから、お茶を淹れる作法だけは完璧なはずだ。
「よし……。頑張れ、私。失礼のないように、空気のように……!」
私は銀のトレイを捧げ持ち、公爵の執務室の前へ向かった。
扉の前には騎士たちが二人立っていたけれど、私の姿を見るなり、なぜか慌てた様子で「どうぞ、どうぞお入りください!」と、敬礼もそこそこに扉を開けてくれた。……まるで、私が来るのを待ち構えていたかのような早さだ。
「失礼いたします……。アルフレッド、さま。お茶をお持ちしました」
昨夜の「呼び捨て命令」が怖くて、とりあえず「さま」をつけて呼んでみる。
室内はしんと静まり返っていた。
部屋の奥、大きな黒檀の机に向かっているアルフレッド閣下は、羽ペンを動かす手を止め、鋭い視線をこちらに向けた。
「……リリアか。なぜ、お前がそんなことをしている」
「あの、昨夜のお詫びといいますか……。せめて喉を潤していただければと」
私は震える手で、トレイからカップを下ろそうとした。
その時、ふと、閣下のデスクの端にある「開いたままの引き出し」が目に入ってしまった。
(……えっ?)
そこには、公爵家の重要書類に混じって、場違いなものが乱雑に、でも大切そうに仕舞われていたのだ。
それは——昨日、私が脱ぎ捨てたはずの「実家の地味なリボン」と、朝食で私が一口だけ齧って残した「クロワッサンの包み紙」、さらには、私が庭で落とした「ハンカチ」だった。
(な、なんで……!?)
血の気が引くのがわかった。
最強の騎士であり、帝国の死神と恐れられる男の引き出しに、私のゴミ……じゃなくて、私物が入っている。
(わかったわ。……証拠、なのね)
私の脳内で、恐ろしい結論が弾き出された。
これは私の「無能さ」や「だらしなさ」を証明するための証拠品だ。
「この女はこれほどまでに平民じみた物を使っている」「こんな食べ残しをするような女だ」という記録を揃えて、陛下に縁談の破棄を申し立てるための準備に違いない。
「……何か、気になることでもあるのか」
低い声が響く。見上げると、閣下が机から立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄ってきた。
昨夜よりもさらに距離が近い。番の紋章が脈打ち、彼の香水の香りが私の意識を朦朧とさせる。
「あ、いえ! 何でもありません! ただ、その、お仕事の邪魔をしてしまったようで……」
「邪魔などではない。むしろ、お前の顔を見なければ、今日は仕事が手に付かないところだった」
(えっ。……顔を見ないと仕事ができない? ……ああ、そうか。私が逃げ出さないか、顔を見て確認しないと不安なほど、私は信用されていないんだわ……!)
私は必死に笑顔を作った。
「ご安心ください! 私は、どこへも逃げたりしませんから! 閣下の監視の目が光っていることは、重々承知しております!」
「……監視?」
閣下の手が、私の頬に伸びてきた。
その指先が、信じられないほど優しく私の髪を耳にかけた。
「……リリア。お前は本当に、俺のことを何も分かっていないようだな。……いや、それでいい。今は、俺のそばにいるだけで……」
彼はそのまま、私の首筋にある銀の紋章を、熱のこもった指先でなぞった。
「あ……っ」
甘い痺れが全身を走り、私は思わず彼の胸元に倒れ込みそうになる。
すると彼は、私の腰を咄嗟に支え、耳元で低く囁いた。
「……お茶は、後で飲む。今は……お前を、このまま閉じ込めておきたくて堪らないんだ。……お前が、俺を『アルフレッド』と呼ぶたびに、理性が削られていくのが分かるか?」
(……怖い! 理性が削られるって、やっぱり私の不敬さに、いよいよ我慢の限界が来ているのね!?)
私は恐怖で顔を青くした。
「も、申し訳ございません! 二度と呼び捨てにはしません! ですから、どうかその、引き出しの証拠品で私を訴えるのは待ってください……!」
「証拠品……? 訴える……?」
アルフレッド閣下は、数秒間、ポカンとした顔をした。
そして、自分のデスクの引き出し(私がゴミだと思っている宝物入れ)に目をやり——何かに気づいたように、顔面を真っ赤に染めて、勢いよく引き出しを閉めた。
「……見ただろう。お前、今、それを見たな!?」
「ひっ、はい! 見ました! 申し訳ございません、覗き見するつもりでは……!」
「……忘れろ。今すぐ忘れろ! これは……その……呪術の調査用だ!」
「じゅ、呪術……! 私、呪われてるんですか!?」
「そうだ、とびきり甘くて凶悪な呪いだ……! くそ、もういい。下がっていろ!」
彼は顔を覆って再び背を向けた。
私は「やっぱり、私は呪われるほど嫌われているんだわ」と確信し、トレイを持って脱兎のごとく部屋を飛び出した。




