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お着替え

 アルフレッド閣下が嵐のように去った後、私は一人、広大なクローゼットの前に立ち尽くしていた。


(……三、四十着って、言ってたわよね?)


 恐る恐る扉を開いた瞬間、私は自分の目が眩んだのかと思った。

 そこには、朝露に濡れた花びらのような最高級のシルク、夜空の星を零したような繊細な刺繍、そして、触れるだけで指が透けそうなほど見事なレースのドレスが、整然と並んでいたのだ。


「……これ、一国の王女様が着るものじゃないの……?」


 私は震える手で、その中の一着、淡い水色のドレスに触れた。

 私の瞳と同じ色。でも、実家で着ていたどのドレスよりも、ずっと輝いている。


(そうか……。わかったわ。これは、閣下なりの『カモフラージュ』なのね)


 私は一人で納得して、深く溜め息をついた。

 私が「無能の聖女」だとバレたら、帝国最強の騎士である閣下の面目は丸潰れだ。だから、せめて外見だけでも「とびきり豪華な飾り」で塗り固めて、周囲の目を欺こうとしているんだわ。


「……閣下の期待に応えなきゃ。私にできるのは、せめて借り物の猫を演じることくらいなんだから」


 私は意を決して、着替えを始めた。

 実家では侍女に手伝ってもらっていたけれど、ここでは「監視」されている身。一人でやるしかない……と思っていたのに、ドレスの構造が信じられないほど精巧で、背中のリボンがどうしても届かない。


「……うう、届かない。……あ、でも、ここをこうして……」


 私が悪戦苦闘しながら、肩を丸めて背中に手を伸ばしていた、その時だった。


「——手伝おうか」


 背後から、低く、鼓膜を震わせるような声がした。


「ひゃっ……!?」


 飛び上がって振り返ると、そこにはいつの間にか部屋に戻っていたアルフレッド閣下が立っていた。

 しかも、彼はなぜか片手で口元を覆い、顔を半分背けている。


「か、閣下! なぜここに!? 今、着替えの最中で……!」


 私は慌てて、まだ結べていないドレスの胸元を抑えた。

 でも、彼は動かない。それどころか、彼の視線は私の剥き出しの肩や、首筋に刻まれた銀の紋章に、吸い寄せられるように釘付けになっていた。


(……あ。怒ってる。私がもたもたしているから、イライラさせてしまったんだわ!)


「申し訳ございません! すぐに、すぐに着替えますから!」


「……動くな」


 彼は一歩、私に近づいた。

 逃げようとしたけれど、彼の放つ圧倒的な存在感(と番の絆による痺れ)に、足が動かなくなる。

 彼は大きな、熱い手で、私の震える肩をそっと……本当に、壊れ物を扱うような手つきで押さえた。


 そして、ゆっくりと私の背後に回り込むと、器用な指先でリボンを編み上げ始めたのだ。


(……えっ? 公爵様が、わざわざ私の着替えを……?)


 至近距離から、彼の熱い呼気が首筋にかかる。

 心臓がうるさくて、倒れそう。


「……リリア」

「は、はいっ」


「……この色は、お前に似合いすぎる。……外に出したくないほどだ」


(……出さないで、って。やっぱり、軟禁決定なのね。私が恥ずかしいから、人目に触れさせたくないんだわ……!)


 私は悲しくなって俯いた。

 彼はドレスを整え終えると、冷徹な声で告げた。


「……終わった。……それと、そのサファイアの首飾りも着けておけ。俺の番が、安物の宝石を着けているなど、許されんからな」


「は、はい……。承知いたしました、ご主人様……」


 アルフレッド閣下の眉間がピクリと跳ねたが、彼はなにも言わずに部屋を後にした。

 着替えを終え、重い足取りで食堂へ向かうと、そこには既にアルフレッド閣下が座っていた。

 広大なテーブルの端と端。

 遠い。遠すぎて、彼の表情がよく見えないけれど、発せられる威圧感だけはビリビリと空気を震わせている。


「……座れ」


 短く、重い声。

 私は執事に椅子を引かれ、まるで処刑台にでも座るような心持ちで腰を下ろした。

 並べられた料理は、どれも宝石のように美しく、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。けれど、私の胃は緊張で石のように固まっていた。


「あの……閣下」


「……なんだ」


「その……先ほどは、お着替えを手伝っていただき、ありがとうございました。その、ご主人様としてのお務めを、私のような者にまで……」


 私がぺこりと頭を下げると、カラン、と高い音が響いた。

 見れば、閣下が手にしていたナイフが皿の上に落ちている。


「……先ほども言ったが。その『ご主人様』という呼び方は、やめろ」


 閣下の青い瞳が、じっと私を射抜いた。

(やっぱり、怒ってる。家臣でもない私に『ご主人様』なんて呼ばれるのは、彼にとって侮辱なのかもしれないわ)


「申し訳ございません! つい……。では、閣下とお呼びすれば……」


「それも、不許可だ」


「え……?」


 不許可。じゃあ、なんて呼べばいいの?

「公爵様」? それとも「アスラン様」?

 私が混乱して固まっていると、閣下はワイングラスを握りしめ、まるで戦場に赴くような決死の表情で口を開いた。


「……アルフレッド、だ」


「……はい?」


「アルフレッドと呼べ。……一度だけでいい、今すぐここで呼んでみろ」


 食堂の空気が凍りついた。

 控えている使用人たちが、一斉に息を呑む気配がする。

(……えっ。名前で呼べ……? 帝国の最高権力者を、呼び捨てに……!?)


 それは、もしかして新しい形の「罠」なんじゃないだろうか。

 不敬罪を誘発させて、私を追い出すための口実を作っているのでは……。


「あの、私のような無能が、閣下を御名でお呼びするなど、恐れ多くて……」


「呼べと言っている。これは命令だ」


 命令。……逆らえない。

 私は震える唇を必死に動かし、喉の奥に張り付いたその名前を、やっとの思いで絞り出した。


「……あ、あるふれっど、さま……」


「『様』はいらん」


「ええっ!? そ、そんなの無理です! アルフレッド……さん?」


「……呼び捨てだ」


 無茶苦茶だわ。この人、私を極刑に処したいのかしら。

 私はギュッと目を閉じ、人生の終わりを覚悟して叫ぶように呟いた。


「アルフレッド……!」


 静寂。

 恐ろしくて目を開けられない。きっと今頃、彼は「不敬だ!」と立ち上がって剣を抜いているに違いない。


 ……でも、いつまで経っても怒号は聞こえてこなかった。

 おそるおそる目を開けると、そこには——。


 ナプキンで顔の下半分を覆い、片手で額を押さえて、激しく視線を泳がせている閣下の姿があった。

 なぜか、彼の首筋まで真っ赤に染まっている。


「……あ、あの、アルフレッド……様? 気分が悪いの……」


「……もういい。食事をしろ」


 彼は吐き捨てるように言うと、手付かずの料理を残したまま、ガタリと椅子を引いて立ち上がった。

 そして、逃げるような早足で食堂を出て行ってしまったのだ。


 一人残された私は、呆然と冷めかけたスープを見つめる。


(……やっぱり。名前を呼ばれるのも嫌なくらい、私のことが不快だったんだわ。呼び捨てにさせたのは、私がどれだけ無礼な女かを確認するためだったのかも……)


 私は、自分の馬鹿正直さを呪いながら、味のしないスープを懸命に口に運んだ。

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